17
用を足して部屋に戻ろうとトイレの引き戸を開くとすぐそこに灰我さんが立っていた。
面食らったぼくだったが、外見ではそれを隠し冷静を装った。
「灰我さんも、その、トイレですか?」
「いいえ、アーロさまが少しお酔いになられているようでしたので外の空気でもお吸いになられリフレッシュされるのもいいかと思いましてここでお待ちしておりました」
「外の空気?」
「はい。こちらのお店はテラス席もございます。そちらへ移動し外気の新鮮な空気を吸えば酔いも少しはマシになるかと」
「そうか、そうですね。外の空気を吸いに行きます。テラス席はどこにあるのですか?」
「ご案内します。さっこちらです」
そう言うと灰我さんは足早に歩き出した。ぼくは急いで続いた。
テラス席は、和室と反対側に位置する場所にあり(つまり店に入ってすぐにある広間を縦断し、そのまま細い通路を進んで突き当たりを左折すれば、テラス席で右折すると和室)、和室からまっすぐ歩くとガラス戸の自動ドアに行きつきドアが開くとその空間は出現した。
「うわぁあ」
真っ先に目に飛び込んできたのは円形のプールだ。半径十メートルぐらいあるプール内の側面には、青い照明ライトが数個等間隔で設置されており、プール全体が淡く青色に光ってそれはまるでプールが闇夜に浮かび上がっているかのようにさえ見える。
プールの周囲には、丸テーブルが五つ配置されており、各々のテーブルの上に小ぶりのガラス容器がおかれていて、容器の内側にはろうそくが立っているのだろう、白い淡い光がテーブルの一部を照らしていた。
丸テーブルのうち3つにはカップルらしきシルエットが確認でき、この薄暗い世界で甘い時間を過ごしている。
さらに周囲を見渡せば樹々が鬱蒼と繁っていて、そのうちの何本かは下から青色の光でライトアップされていた。いわゆるそこは大分が黒と青、そしてほんの少しの白で支配された世界。
ボサノバ風のBGMが流れるその空間は、都会のまっ只かの中にいるということを忘れさせてくれる。
ぼくは酔いも忘れてその光景に見惚れていた。
「――いかがですかアーロさま。少しは酔いもさめたでしょうか?」
背後からの灰我さんの声にぼくは我にかえり灰我さんの方へ顔をむけた。
「いやぁ、ほんと酔いが吹っ飛びました。ここ本当にすごいお店ですね。プールがあるお店って、ホテル以外ではほとんど日本ではないんじゃないのかなぁ。それにしても青い色ってとても落ち着きますね」
「そうですね。今から暑くなる時期に合わせて清涼感を出すためにこちらのオーナーが演出していると聞いております。でも冬場は暖色系に色が変化するんですよ」
「へぇえぇ。ところで灰我さんはここを会社の飲み会でよく利用されるってさっきたちゃねさんから聞きましたけど、このお店は通われて長いんですか?」
「はい。このお店がオープンして以来ですからもう十年になりますか。公私にわたって利用させていただいております。こちらのお店のオーナーがわたくしの父の友人で、そういった関係もあり会社関連のお客様との商談や接待、会社の社員との交流、それにわたくし個人としてプライベートでも友人を誘い利用しております。なにしろこちらのお店は、料理は絶品でそれに合うお酒も豊富にあります。だから仕事で利用するときは、商談相手のお客様との話し合いも良好にすすめることができます」
「商談ですかぁ。灰我さん、難しそうなことしているんですね」
「いいえ、わたくしは父である社長の秘書としてお供をし、お客様にお酌したり料理を注文したりしているだけです」
「それも気を使う大変な仕事じゃないですかぁ」
そう言ってぼくは改めてプール側に顔をむけた。
灰我さんはこちらをまっすぐに見つめて話してくる。ずっと視線を合わせているとこちらは恥ずかしくなる。
テラス席には涼しい風が流れ、この場を囲む樹々はその風を受け静かに葉を鳴らしている。本当にこの場所は都会の喧騒を忘れさせてくれる空間だ。
「――あの、アーロさま」
と灰我さんは、音もなくいつの間にかぼくのとなりに並び立ちこちらを見つめていた。
「は、はい?」
「アーロさまって、だれかに似ているとお友達やお知り合いに言われたことありませんか?」
「えっとそれって芸能人とか有名人のだれかに似てるってことですか?」
「えぇ、そうです」
「そうだなぁ、だいぶ前に、中二ぐらいのときだったかな、その頃眼鏡とったら、俳優の駒川旬に似てるって言われたことがあります」
「駒川旬? 知りませんわ、わたくし」
「最近はテレビドラマや映画にも出てないからなぁ」
「他には? 他にだれか有名人に似ているって言われたことはありませんか?」
「ええっと……」
どうしたんだろう灰我さん。ぼくがだれかに似ているということをしつこく質問してくる。
「音楽関係のだれかに似ているって言われたことないでしょうか?」
「歌手とかそんな類いですか?」
「はい」
「ないですねぇ」
「そうですか」
と、灰我さんはプールの方へ顔を顔をむけた。
「アーロさま、さっきわたくし霊座のファンとみなさまの前で言いましたよね?」
「はい」
「その霊座の中でも灰我さまの大ファンとも発言しました」
「はい」
「灰我さまは、霊座の曲の作詞作曲全てを受け持っておられます」
「……」
「灰我さまの創る曲には神が宿っております」
「……」
ぼくは無言で灰我さんの言葉に耳を傾ける。彼女は一体何が言いたいのだ? とにかくプールを見つめたまま話し続ける彼女の発言の真意を確かめなければ。
「わたくしは、その神の曲を創る灰我さまに心酔しております。そして彼が、OTQをプレイしていると噂が立って、その噂の是非は不明ですが、とにかくプレイしたいと思いました。彼がプレイしているかもしれない世界を共有することで、わたくしの心は満たされるのです」
「……」
「あわよくば、わたくしの創ったキャラ『灰我』に本物の灰我さまがチャットで語りかけてくれるかもしれないという願望もありました」
「……」
「しかしゲーム内で灰我さまからのチャットは今の今までございません」
「それは難しいですよね。その灰我さんっていう人がゲームをプレイしているかどうかもわからないんですもんね」
「そうです。そうなんです。灰我さまが本当にOTQをプレイしているかもわからない。わからないけれどもわたくしはずっとゲームをしてきました。灰我さまがもしかしてプレイしているかもしれないOTQというゲームを。他の霊座ファンの中にもわたくしと同じ考えを持ち『灰我』のキャラを創ってOTQをプレイしている者が多数いるということはネットの灰我さまに関する共有サイトでも有名です」
「……」
「しかしその共有サイトにもOTQで灰我さまに接触したという情報は上がってはいません。だれも灰我さまに接触できずにいる」
「灰我さん?」
灰我さんの口調が段々と大きくなってきている。
「灰我さまはしかし、ギグの際も、観客との交流をまったくしないお人。もちろん出待ちをしたところでファンにサインはおろか、手を上げて挨拶すらしない。彼らは延々と音楽だけを奏でそれにのせて歌うだけ。ゲームでも自らおれが灰我だなんて決して言わないのは百も承知」
「あの灰我さん……」
「でもきっとわたくしの灰我さまへの想いはだれよりも強かった! だって、だって、だってわたくしの目の前に灰我さまが、現れたのですものっ!」
キッと灰我さんは首を素早く回し、長い髪の毛を振り乱してこちらに視線を急転回させた。
灰我さんはそのままぼくをさっきみたくまっすぐ見つめる。いやこれは見つめているというより、とらえていると言った方がいいか。ぼくは微動だにせずに彼女の視線を受ける。ぼくは視線を外せない。まるで魔法にかかったかのように灰我さんの瞳を見続けてしまう。
灰我さんの瞳の奥がぼぉと青く光っている。そしてその青い光が揺らめきだした。
「えっ!?」
灰我さんの瞳が潤んだ。途端、一筋の滴がこぼれ、灰我さんの頬をつたって落ちていく。
(涙……)
そう、それは紛れもなく涙だった。それからすぐ灰我さんの瞳からは、大量の涙が溢れ出て、しかし彼女はそれを拭おうともせずにぼくを見たまま涙を流し続ける。
「は、灰我さん、大丈夫ですか?」
「あなたは灰我さま。わたくしが敬愛する灰我さま!」
「へ?」
「いえ、わかっております。あなたが灰我さまではないということは。あなたは灰我さまより幾分か声が高いし、身長もあなたの方が二センチほど高いようです。髪型も違う。眼鏡もかけている。でも眼鏡を外した顔は、灰我さまに瓜二つ。瓜二つなのですっ!」
灰我さんはそう言うと両手でぼくの両手を勢いよく包み込むように取ってぎゅっと強く握りしめた。
「霊座のメンバーは先ほどもちらっと伝えましたが、ファンとの交流を一切しておりません。ファンクラブはないし、手紙贈り物の類いを受けとることもしません。彼らと逢えるのはライブやギグだけ。そのときも彼らは演奏するだけで軽いトークさえしません。わたくしたち霊座のファンは、彼らと見えない障壁で隔てられているのです。それでもファンは構いません。わたくしたちは彼らの神がかった曲が聴けるだけで良いのです。でもわたくしたちファンは――いいえ、少なくともわたくし個人は、霊座のメンバー、特に灰我さまに伝えたい。わたくしが霊座の曲で救われたこと、霊座の曲によって現実から逃れられるということ、それらを伝えたい。わたくしの想いを一つでもいいから伝えたい。でもそれは叶わない。叶わないけれどもわたくしは、その可能性が1パーセントでもあればと、OTQをプレイし続けた。し続けたのです。そして神は、わたくしの想いの一端を叶えてくれた。つまり、灰我さまに瓜二つのアーロという人物をわたくしの目の前につかわせてくれたのです。わたくしの想いの一端は今日、成就したのです」
「灰我さん?」
瞳孔が開きまくっているぞ灰我さん!
「神よ、感謝します!」
灰我さんはぼくの手を握ったまま夜空を見上げた。
彼女は夜空を見上げたまま涙を流し続け何度も「感謝します、感謝します」と囁いている。
なんだか怖い。これは怖すぎる。ぼくはテラス席に座る人々の目も気になった。灰我さんの声がところどころ大きかったからだ。
恐る恐るテラス席に目を向けるとシルエットではあったが、全員が全員確実にこちらの様子を伺っているのがわかった。
ぼくは、この状況から逃れたくなり、
「灰我さん!」
と大声で呼びかけた。
「感謝します、感謝します」
まだ彼女は神へ感謝の気持ちを連呼している。
「灰我さん!」
次は握られている手を動かしながら呼びかけてみた。
「はっ」
灰我さんは息を吐いた。
「大丈夫ですか、灰我さん?」
囁きは止まった。でも灰我さんは夜空を見上げたままだ。
「灰我さん?」
さらに声をかけると彼女はゆっくりとぼくの方へ顔を戻した。
「大丈夫ですか?」
ぼくの声かけに彼女はパチパチと何回かまばたきし、ぼくの手を握りしめていることに気がつくと、パッと手を離した。
「わたくしわたくし――」
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。少し興奮してしまいました」
少しではない。大いに興奮してた、灰我さんは。
「――――あ~、こんなとこにいた~」
SOWさんの声だ。
「も~、二人だけでこんなとこに~」
SOWさんはぼくと灰我さんの間に割って入ってきた。
「今さっき、注文したワインが来て、みんなでシメの乾杯しよ~としたらお二人いないんですも~ん。トイレかなって思って行ってもいないしどこに行ったのかな~て思ってたらこんなとこいて~」
「ごめんなさい。ぼく少し酔ったみたいで、それで灰我さんがこのテラスで外の空気を吸ったら気分がマシになるかもって連れて来てくれたんです」
「そうなんですか~。とにかく部屋に戻りましょ。たちゃねさんとしるヴぃあさんがお待ちかねですよ~」
そう言うとSOWさんは、ぼくの手首を持って自動ドアへ引っ張っていく。
「は、灰我さんも急ぎましょう」
引っ張られながらぼくは灰我さんに声をかける。
灰我さんは頷き、ゆっくりとした足取りで歩き出した。