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「おいおいおい、灰我ぁこぼれとるでぇ!」
たちゃねさんが大声で指摘する。でも灰我さんは、左手をテーブルから十センチほどの高さに保ったままたちゃねさんの大声に反応しない。左手の下には倒れたワイングラス。グラスからはワインがこぼれ出ている。グラス自体は、割れていたりひびが入っているということはパッと見受けられない。このときテーブルには、各人の飲み物の他に、各人の取り皿と、追加注文して運ばれてきた大皿に盛られたサラダしかなく、こぼれたワインは、灰我さんから扇状に広い範囲まで広がっていた。
その光景も視界に入っていないのか、灰我さんはぼくの方をまっすぐ向いたまま口を半開きにして今だけ微動だにせずにいる。
「灰我、大丈夫カ?」
しるヴぃあさんが、灰我さんに近づき肩を揺らす。
「え? あっはい。はっ!」
ここで漸く我にかえったのか、灰我さんは眼下に広がるワインを確認すると事態を理解し、倒れたグラスを起こすと、こぼれ出たワインを傍らにあったおしぼりで拭き取り始めた。
しるヴぃあさんもぼくもSOWさんも各々のおしぼりを持って加勢する。
こぼれ出たワインの量は結構あり、四人のおしぼりはどれもビチョビチョになってしまった。灰我さんは代わりのおしぼりを持ってきてもらうためチャイムを押した。
「みなさま、申し訳ありません」
灰我さんはみんなにむかって頭を下げ謝罪した。
「大丈夫か灰我? 飲み過ぎか?」
心配げにたちゃねさんが言葉をかける。
「いいえ、少しぼぉとしておりました。本当に申し訳ありません」
再び灰我さんは頭を下げた。
すぐに店員さんがやってきて濡れたおしぼりを回収し、すぐに折り返し新しいおしぼりを持ってきてくれた。
「マジ大丈夫か灰我?」
「ええ、大丈夫です。飲み直しましょう」
「そっか。ところでここって何時まで飲み食いできるの?」
「時間は無制限です。閉店時間が22時までなのでそれまではいつまでも飲食できます」
「ええっと、今七時半過ぎか。ここでまだまだ飲んでてもいいけど、場所かえて飲むのもアリやな」
「二次会ってやつですか~。さんせ~」
「イイネ、ソウシヨウ!」
(げっ! お開きじゃないの?)
「おーし、じゃあこの店でラスト一杯ずつ飲んで二次会いこか。灰我もアーロも行くやろ、次?」
「アーロさまはどうなされますか?」
なぜか灰我さんはぼくに尋ねてきた。
「ぼく、ですか……」
「明日も書店休みで予定ないんやろ? じゃあもちろん来るわな?」
片方の眉を吊り上げ、片肘をテーブルに置いて身をのりだしたたちゃねさんがぼくに促す。
しまった。三十分前ぐらいの会話でたちゃねさんは、明日の全員の予定を聞いており、ぼくは仕事は休みと正直に答えてしまっていた。
「行きますよね~、アーロさん?」
SOWさんが横で甘い声を出す。
「そうですね、ちょっとだけ参加――」「――わたくしも参加いたします」
ぼくの返事を遮るように灰我さんも行く旨を承諾。
「よっしゃ、みんなで二次会いこけ」
「いえ~い!」
「ベリッシマ!」
SOWさんとしるヴぃあさんは喜びの声を上げた(しるヴぃあさんの発した言葉の意味は不明。でもとても喜んでいることは表情で一目瞭然)
「よっしゃあ! ここのシメにみんなでワインで乾杯や。すまん灰我、ワイン五杯頼む」
灰我さんが注文を言うためにチャイムを押すと、店員さんは部屋まですぐにきてくれた。本当にぼくたちの担当のこの店員さんは、チャイムを押すと間髪入れずやってきてくれていた。何回この人は部屋と厨房を往復したことだろう。店員さんは最後の注文を聞くとワインを持ってくるため退室した。
「――ぼく、トイレ行ってきます」
ここしかタイミングがないと踏んだぼくは、トイレに行くためそぉと立ち上がった。先ほどから尿意を感じていたのだか、SOWさんとの会話が滞るなく続いていたので実行する機会を失っていた。でも今SOWさんは、たちゃねさんとしるヴぃあさんと二次会をどうするかという話し合いに夢中だ。
「――アーロさま、お手洗いの場所はお分かりになりますか?」
「ああ、この部屋の真向かいにあるのがトイレですよね?」
「そうです」
灰我さんはぼくの声を拾ってくれていたようだ。ぼくは彼女に会釈し襖の方へ進んだ。だけどまっすぐに歩けない。なんだか足元がおぼつかないのだ。
(酔ってるのか?)
ぼくは立ち止まって考える。
まだワインをグラスで五杯しか飲んでいない。これはぼくが酔うには少ない量だと思うのだが、場の雰囲気がぼくをより酔わせているのだろうか。
「――大丈夫ですか?」
と、灰我さんがいつの間にかぼくの隣に来てぼくの肘と背中に手を添え支えてくれている。
「ははは。どうしたんだろ、ちょっと酔っぱらったかな?」
「お手洗いまでお供します」
「いいえ大丈夫ですよ、ひとりで行けます」
「遠慮なさらず。さぁ行きましょう」
灰我さんに付き添われぼくはトイレに行く。