098_堕落したソフィア(Падшая София)
――人に喰わるる獅子は幸いなり。さすれば獅子は人たらん。獅子に喰わるる人は禍なり。さすれば人は獅子たらん(『トマスによる福音書』、第七章)。
「ジイクから聞いたよ」
そう言いながら、ペルガーリアは、リンゴのかけらを口にくわえる。
「『イリヤを騎士にしてほしい』と、準騎士たちに詰め寄られた、って。クニカに恥をかかせてしまったって、そのことを心配していた」
ジイクとアアリの姉妹を前にして、四人の準騎士たちが立ちはだかっていたときの様子を、クニカは思い出す。
――すまんね、クニカ。内輪ネタばっかりでさ。
イリヤの騎士昇叙を認めるべきかどうか――話が鋭く対立したとき、ジイクはそう言った。軽い口調だったが、その場には似つかわしくなく、クニカの記憶には、却って深く刻まれていた。
――私は大丈夫だよ。
あのときは、最後にイリヤがやってきて、ほかの準騎士たちを励まし、その場を収めた。クニカはイリヤに声をかけようとして、それができなかった。
「イリヤはどうなるんですか?」
準騎士のひとりが――エリカがしたのと同じ質問を、クニカは投げかける。浴槽の縁に肘をついたまま、ペルガーリアは物憂げな様子だった。
「ペルジェ――」
「あいつは騎士にはしない。この戦争に勝つまでは」
ペルガーリアの言葉に、クニカはドキリとする。
「それって――」
「南部の治安維持は、騎士たちに任せている。星誕殿に残っているのは、オレと、使徒騎士たちと、あとは準騎士以下の若い衆だ。若い衆は、今夜一斉に南に送るつもりなんだ。――あ、だれにも言うなよ?」
クニカはうなずく。
「オレだけで決めたワケじゃない。使徒騎士も、だれも反対しなかった。準騎士は未熟だけれど、それは可能性の裏返しだ。未来に向かって、可能性は常に開かれていなければならない。この戦争で、みすみすその芽を摘む必要はない」
リンゴの皮を手で掬うと、ペルガーリアは、それを浴槽から押し流した。
「身内びいきだと思われるかもしれないけれど、クニカ。イリヤはな、いずれ巫皇になれる人材だと思ってる。本人は一人前のつもりで――まだまだ全然だけれど。どう思う?」
「その言葉をイリヤが聞いたら――きっと、すごく喜ぶと思います」
そう言いつつも、クニカはペルガーリアの言葉が、自分のことのように嬉しかった。
「あいつに死んでもらっちゃ困る。だから、あいつは準騎士のままにして、南に送る。イリヤは、あの子は“希望”なんだ」
ペルガーリアは、ここで言葉を切った。
「最近さ、クニカ。オレは未来のことばかり考えるようになった。それも、自分の将来じゃない。他人の未来だ。笑っちまうよな」
笑うペルガーリアの横顔を、クニカは見つめる。
「オレが巫皇になって、ニフリートが死んだとき……オレは漠然と、次の巫皇を、ニフシェにしようと思ってたんだ」
「ニフシェ?」
「あいつは庶子だが、ダカラーの血筋だ。家柄だけなら、俺の家系と同格だ。魔術もジイクやアアリに引けをとらない。ちょっと頼りないが、周りは支えるだろうし、立場が人を作ることもある」
ため息をつくと、ペルガーリアは肩まで水に浸かる。
「ニフシェの後は、アアリが半年やって……、その頃には、ミーシャも落ち着いてるだろうから、ミーシャも二年くらいやって、それで、イリヤが巫皇になる。結構いい歳かもしれないけれど、三年は張れるな。――とまぁ、そんな考えだった。今はもう、絵に描いた餅だけれど」
「今は、どうするつもりなんです?」
「今は――」
次の言葉を待ち受けていたクニカは、ペルガーリアが自分を見つめていることに気付く。
クニカの心を、冷たいものが走る。
「わたしは……そんな……」
「心配するな」
ペルガーリアは言った。しかしペルガーリアは、クニカを見つめたままだった。
「キミは巫皇に向いてない。オレにも分かる」
ペルガーリアの視線に恐れを抱き、クニカはうつむく。水面に映る顔の輪郭は、作り出される斑紋によって、絶え間なく揺らいでいる。
クニカの側まで近づくと、肩を並べるようにして、ペルガーリアは座り直す。
「俺の後をアアリが継ぐ。ミーシャが継いで、イリヤが継ぐ――その後だ」
「その後?」
「そうだ――」
ただならぬ雰囲気を感じ取ったクニカは、ペルガーリアから距離を置こうとする。しかし、クニカが動き出すよりも、ペルガーリアがクニカの腹部に腕を回す方が早かった。
クニカは身をよじろうとするが、ペルガーリアは容赦なく右腕を伸ばし、クニカの履くズボンの中へ手を突っ込む。ペルガーリアの指が、下着をまさぐり、クニカの脚の付け根をなでる。
「離して……」
ペルガーリアは黙ったまま、クニカに馬乗りになる。水槽は浅いが、クニカは水を呑んでしまい、激しく噎せる。しかし、クニカが苦しんでいることも、今のペルガーリアには関係がないようだった。
剃刀を差し込まれたかのような下腹部の痛みに、クニカは悲鳴を上げる。
「黙れ」
左腕を伸ばすと、ペルガーリアは、クニカの喉を押さえつける。ペルガーリアの右手の指が、クニカの内側で蠢く。痛みとは別の感覚を覚え始めていたクニカは、その感覚に、必死に抗おうとする。しかし、首を絞められているせいで、抵抗しようにも、力むことができない。
その感覚は最高潮に達する。それからすぐに、クニカは虚脱感に包まれる。全ての抵抗はむなしかった。喉を抑えるペルガーリアの腕から、クニカは両手を離した。
クニカの身体から離れると、水槽の中で、ペルガーリアは膝立ちになる。その右手からは、クニカの精液が滴っている。咳き込んだはずみで、涙目になっているクニカの目の前で、ペルガーリアは右手に口を近づけると、クニカの精液を飲み始める。
今見ている光景が、この瞬間までに起きていた全てのことが、幻なのではないかという錯覚に、クニカはとらわれる。しかし、早鐘のように高鳴っている自分の心臓も、水槽の水のぬるさも、脚の付け根の痛みも、そこにこびりついている精液も――それらは全て現実だった。
「今はそのときじゃない」
精液を飲み干すと、ペルガーリアは言う。
「この戦争が終わったら、オレはお前と番になる。オレはお前の子供を産んで――その子は将来の巫皇になる。今の使徒騎士たちも、そうだ。全員に、お前の子を産んでもらう――」
ペルガーリアの瞳の奥を、クニカは見る。しかし、狂気の光はそこになかった。
「嫌だ」
「認めろ。お前は救世主だ」
水槽の縁から身を乗り出すと、クニカは床に転がった。
「『覚悟はできている』、そう言ったろう?」
「来ないで!」
魔力を込めて、クニカは右腕を突き出す。“竜”の念動力に揺さぶられ、ペルガーリアの身体は吹き飛んだ。
しかし、壁に叩きつけられる瞬間、ペルガーリアの身体は発光し、七色の光に拡散して、部屋全体に飛び散った。眩しさに目を細めていた刹那、クニカの正面に光は収束して、ペルガーリアの実像が、たちどころに空間に結びつけられる。
「お前なら耐えられる」
次の瞬間にはもう、クニカは“花嫁の間”から抜け出すために、ペルガーリアの反対方向に、全力で駆け出していた。服は水を吸って重く、下腹部の辺りは痛く、心臓は張り裂けそうだった。それでもクニカは、逃げること以外には、何も考えることができなかった。
鉄扉に向かって手を突き出すと、クニカは魔力をふりしぼる。鉄扉は途中まで開いたが、再び閉まろうとする。クニカは背後に目を向ける。ペルガーリアが、クニカと同じようにして、鉄扉に向かって腕を突き出していた。
戦うか? 迷いかけたクニカだったが、すぐに切り替えて、扉に向かって飛び込んだ。両足が地面から離れると同時に、クニカは“祈り”の力を使って、みずからの身体が扉を透過する様子を、クニカはイメージした。クニカは扉を突き抜け、“花嫁の間”の外、星誕殿の廊下に叩きつけられる。
「息を吸え、クニカ」
立ち上がりかけた矢先、クニカの耳元で、ペルガーリアの声がする。ペルガーリアはすでに、クニカの側に立っていた。
ここにきて、クニカもペルガーリアの能力を理解する。獣王は力の象徴であり、神の威光の象徴なのだ。ペルガーリアは光を操り、みずからの姿を光に託し、自由自在に動き回ることができる。速さでペルガーリアに勝てる者はいないのだ。
「やめて!」
「受け容れるんだ――」
「離して……!」
「――クニカ?」
そのとき、廊下の向こう側から、声がした。クニカははっとなって、声の方を振り向く。そこには、リンがいた。リンは目を丸くして、ずぶ濡れになったクニカと、真裸のペルガーリアを、交互に見つめていた。
「何だよ、どうしたんだよ?」
「リン……」
クニカから手を離すと、ペルガーリアはリンをじっと見つめる。それから踵を返すと、“花嫁の間”へと戻っていった。
「どうしたんだ?」
鉄扉の方を見ながら、リンがクニカに尋ねる。
「何があったんだよ」
クニカは答えようとする。しかし、何て言えばいい? クニカの心は、汚れてくしゃくしゃになった、紙切れのようだった。だからクニカは、リンに対してさえも
「何でもない」
と言うしかなかった。
「何でもないわけないだろ……?!」
「ほっといてよ……!」
激昂に襲われ、クニカは叫ぶ。本当は、そんなことをリンに言いたかったわけではなかった。そんなことを、リンに言うべきでないことだって、クニカは分かっていた。
分かっていても、それでもクニカは、叫ばずにはいられなかった。どこか遠くへ、自分のことをだれも知らない、どこか遠くへと、クニカは行きたいと思った。
「どうしたんだよ?」
リンの声は震えている。
「ごめん」
クニカは泣いていた。
「ありがとう。でも、大丈夫だから……」
私は大丈夫――そう言っていたイリヤのイメージが、クニカの脳裏をよぎる。あのとき、イリヤが本当には何を言いたかったのか、クニカには分かるような気がした。そんなことが分かってしまう自分が、ますますみじめだった。
立ち上がると、クニカはそのまま、リンとは反対の方向へと去っていく。リンは、クニカを追わなかった。




