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ラヴ・アンダーウェイ(LOVE UИDERW∀Y)  作者: 囘囘靑
第5章:時間と自由(Опыт о непосредственных данных сознания)
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097_花嫁(Невеста)

――数多(あまた)の者戸口に佇めども、花嫁の部屋(ニユンフオーン)に入るる者は、ただ一者(モナス)のみなり。(『トマスによる福音書』、第75節)

 疼痛とともに、脚の付け根に生暖かいものを感じ、クニカは歯を食いしばる。頭は痛く、少しでも身じろぎしようものなら、内臓が体内から滑り出してしまいそうな、そんな感覚だった。


「ハァ、ハァ――」


 痛みが退潮していくのを感じ取ると、クニカはそっと、便器の中に視線を落とす。視界の中では、精液が渦を巻いている。リエゴーイだった。それは、クニカが魔法を使い過ぎたときに生じ、そうでなかったとしても、天体の公転のように、周期的にクニカを襲った。


 この世界に転生してからというもの、クニカは女性の身体で生きている。にもかかわらず、リエゴーイで流れ出るのは、まぎれもなく精液だった。ウルトラへ向かう途中の、カプセルで培養されていた、大量の自分自身の似姿を、クニカは思い出す。自分は誰かの子供ではなく、どこかから創られ、その代償として、このリエゴーイがある――生まれの秘密を知っているのは、ニコルとペルガーリアと、自分だけだ。ニコルは遠くチカラアリにいて、ペルガーリアは余計な穿(せん)(さく)しようとはしない。奇妙なことを、奇妙なこととして、クニカは抱え続けている。


 その奇妙さの代償として――クニカは、自分は救世主なのだと、否が応でも自覚しなければならなかった。みずからが背負う透明な十字架の大きさと重さを、だれと分かち合えば良いのだろう? クニカには、それが分からなかった。


 だれかが、トイレに入ってくると、クニカのいる個室の前に立ちはだかった。(ブーツ)のつま先が、クニカの位置からでも見える。


「だれ……?」


 外にいる人物に向かって、クニカは声を掛ける。返事はなかった。


「もしもし?」

「分かるでしょう、あたしよ」


 クニカの声を遮るように、女性の声が響く。リテーリアの声だったが、導火線が火花を散らしているかのような、いら立ちに似た響きを、リテーリアの声は帯びている。だからクニカは、


「リテーリア……?」


 と尋ねはしたものの、尋ねるべきかどうか、直前までためらってしまうほどだった。リテーリアは、何かにいら立っている。その理由が分からず、クニカは怖れを覚えた。


「怒ってるの?」

「ウウン。怒ってない」


 クニカの言葉を、リテーリアは打ち消した。


 扉の向こう側にいるはずのリテーリアに、クニカは目を細める。クニカは、他者の感情を、“心の色”として、読み取ることができる。声が怒気を(はら)むほどであれば、胸の辺りに、赤色の光を読み取れるはずだった。


 しかし、リテーリアのいる辺りからは、何の色のほのめきもなかった。リテーリアは怒っていない。ただ、声はリテーリアの怒りを示している。それは、まぎれもないクニカの直感だった。外面的には明らかに怒っていて、しかしその内面では怒っていない。その不整合を前にして、クニカは足がすくんだ。


「出てきてちょうだい」


 押し黙ったまま、クニカはトイレから出る。クニカはそっと扉を開けたが、目の前にはリテーリアが立ちはだかっていた。リテーリアの目は真っ赤で、腫れぼったくなっていた。


「どうしたの?」

「泣いてたの」

「どうして?」


 リテーリアは答えない。


「ええっと、その、どうして」

「ミカが死んだでしょう? ミカイアが。親友だったのよ」


――親友だ……って、あたしは思ってる。


 チカラアリの浴場で、ミカイアと交わした言葉の断片が、クニカの記憶の中に蘇ってくる。クニカの背筋に、冷たいものが走った。


――けれどさ、あるとき、そいつに怒鳴っちまったんだ……


 あのとき、ミカイアは何かを悩んでいた。何を悩んでいたのか、クニカは記憶を呼び戻そうとしたが、思い出すことができなかった。


「その、ごめんなさい」


 いたたまれない気分になって、クニカは口を開く。


「ミカが……あんなことになってしまって」

「ごめんなさい?」

「ええ」

「クニカがミカを殺したわけではないでしょう」

「それは、そうですけれど……」


 クニカは言いよどむ。リテーリアにそう指摘されると、確かに自分が謝ったことは、おかしなことのように、クニカには感じられた。


「ペルジェがあなたを呼んでるわ」


 リテーリアの後をついていきながら、クニカはトイレを抜ける。


「ペルジェの部屋まで、“花嫁の間(ニユンフォーン)”まで、あなたを案内する」

「“花嫁の間(ニユンフォーン)”?」

「そうよ。聖別された乙女は、神の前に、その花嫁となる」


 前を歩きながら、リテーリアはその懐からタバコを取り出した。タバコは、口に咥えられたとたん、先端から煙を放ち始める。発火念力(パイロキネシス)で、リテーリアはタバコに火を灯したのだろう。


「それで……何だっけ?」

「え?」


 不意に尋ねられ、クニカは訊き返す。


「話してたじゃない、ミカのことを」

「ええっと……その……ミカが死んでしまって……」

「そうね。死んでしまった」


 リテーリアは、鼻から紫煙を噴き出す。


「人は生きてりゃ死ぬわ。騎士ならば、なおさら。後輩たちを庇おうとして、“黒い雨(ドーシチ)”で、何人も死んだ」


 会話が途切れる。リテーリアはきっと、ミカイアの死に、大きな打撃を受けているに違いない――クニカはそう考えていた。だからこそ、リテーリアは泣きはらした目をしていたのではないか?


 しかし、今のリテーリアはあっけらかんとしている。ただ、ミカイアの死を乗り越えられたために、そのような態度を取っているようではなかった。まるでリテーリアは、もっと大きな関心事に熱中している間に、ふと外界に関心が戻って、ミカイアの死を思い出したかのような、そんな様子だった。


 ミカイアが気にかけていたほどには、リテーリアはミカイアを気にかけていない。クニカは、ミカイアが気の毒になった。


「ここよ」


 両開きの、緑色の鉄扉の前に立つと、リテーリアは扉をノックする。リテーリアのノックは、扉を叩きつけているかのようで、クニカはリテーリアが怖くなる。


「クニカを連れてまいりました、(シン)(シア)

〈通せ〉


 ペルガーリアの声が、クニカの脳裏に直接響いた。と同時に、鉄扉がひとりでに開いた。


 薄暗い部屋の中心には、円形の浴槽がある。ペルガーリアはその中にいて、腕を組んでいる。浴槽の周囲に灯された蠟燭が、淡い光を投げかけているために、ペルガーリアの姿は、まるで幻か何かのようだった。


「リティ、下がってくれ。あとはオレひとりで十分だ」


 “花嫁の間”にクニカを引き入れると、リテーリアは黙ったまま、扉を閉めて出て行ってしまった。


「おいで」


 ペルガーリアに呼ばれ、クニカは中心の浴槽まで歩み寄る。ここにきてクニカは、浴槽の内側が黄金でできていることに気付いた。ペルガーリアの白い肌は光沢に照らされ、その肢体はなまめかしかった。


 浴槽の中で、ペルガーリアが身体をよじる。背中に彫られている墨色の刺青が、クニカの眼前に顕わになる。


「入れよ」

「え……?」


 我を忘れて、ペルガーリアの刺青に見入っていたクニカは、思いがけない誘いに、変な声を出してしまった。


「でも……」

「いいから!」


 腕を伸ばすと、ペルガーリアはクニカを引っ張る。ペルガーリアの腕を()()る力が強かったために、ほとんど頭から飛び込むような格好で、クニカは浴槽に潜り込んだ。水しぶきが上がり、浮かべられていたバラの花びらが、周辺に飛び散る。


「ハハハ」


 服を着たままで、ずぶ濡れになっているクニカを見て、ペルガーリアが笑う。


「顔から飛び込むなんて……」

「ひどい……」

「悪かったよ。服は乾かさないとな。オレは(クパニエ)で出られないから。大目に見てくれよな」


 怒ってみせようとしたクニカだったが、いたずらっぽくウィンクをするペルガーリアを見るうちに、怒りたいという気持ちもしぼんでしまった。


「ずるい」


 ペルガーリアの内側には、シャンタイアクティの巫皇(ジリッツァ)としての王者然としたところと、子供のような純粋さとが同居しているようだった。これが、ペルガーリアが星誕殿(サライ)の騎士たちから慕われる理由であり、恐れられる理由でもあるのだと、クニカは思った。


「ずるい……」

「驚いた。クニカも、そんな顔するんだな」

「え?」

「ずっと、我慢しているように見えた」


 近くにあった小さなテーブルから、ペルガーリアはリンゴを手に取る。それから、もう一方の手で小刀を手にすると、ペルガーリアは器用にリンゴを剝き始める。


「初めて、夢の中で会ったときから。(ドラクォン)の魔法使いで、だれもが思いもよらなかった魔法が使えて――今は救世主としての役割を期待されていて、場合によっては、命を狙われている……かもしれない」


 小刀で切り取られたリンゴの皮が、水の中に落ちる。


「いきなりそんな状況に追い込まれたら、だれだって嫌になる。正気を失ったって、おかしくない。それなのに、クニカ、キミは耐えている。尊敬してるんだ、クニカ。キミのことを。口開けて。アーン、って」


 切り出したリンゴを摘まみ上げると、ペルガーリアはクニカの口の前に、リンゴの切れ端を持ってくる。


「あーん……」

「ハハ、いい表情!」


 ペルガーリアは愉快そうだった。


 自分は、何かに耐えている。――リンゴを咀嚼しながら、クニカは考える。他人の目を通してみれば、今の自分は、何かに耐えているように見えるのかもしれない。しかしクニカには、「耐えている」という意識はみじんもなかった。


「ペルガーリア、その――」

「ペルジェ、でいい」

「――ペルジェ、別にわたしは、何かに耐えているつもりはないです。それに、リンや、フランや、エリーに……ほかにも色んな人に、支えられてるから……」

「偉いな、クニカ」


 切り出したリンゴの一かけらを、ペルガーリアは自分の口に放り込む。


「キミは偉い」


 リンゴを咀嚼する音が、花嫁の間(ニユンフォーン)に、静かに響く。

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