097_花嫁(Невеста)
――数多の者戸口に佇めども、花嫁の部屋に入るる者は、ただ一者のみなり。(『トマスによる福音書』、第75節)
疼痛とともに、脚の付け根に生暖かいものを感じ、クニカは歯を食いしばる。頭は痛く、少しでも身じろぎしようものなら、内臓が体内から滑り出してしまいそうな、そんな感覚だった。
「ハァ、ハァ――」
痛みが退潮していくのを感じ取ると、クニカはそっと、便器の中に視線を落とす。視界の中では、精液が渦を巻いている。リエゴーイだった。それは、クニカが魔法を使い過ぎたときに生じ、そうでなかったとしても、天体の公転のように、周期的にクニカを襲った。
この世界に転生してからというもの、クニカは女性の身体で生きている。にもかかわらず、リエゴーイで流れ出るのは、まぎれもなく精液だった。ウルトラへ向かう途中の、カプセルで培養されていた、大量の自分自身の似姿を、クニカは思い出す。自分は誰かの子供ではなく、どこかから創られ、その代償として、このリエゴーイがある――生まれの秘密を知っているのは、ニコルとペルガーリアと、自分だけだ。ニコルは遠くチカラアリにいて、ペルガーリアは余計な穿鑿しようとはしない。奇妙なことを、奇妙なこととして、クニカは抱え続けている。
その奇妙さの代償として――クニカは、自分は救世主なのだと、否が応でも自覚しなければならなかった。みずからが背負う透明な十字架の大きさと重さを、だれと分かち合えば良いのだろう? クニカには、それが分からなかった。
だれかが、トイレに入ってくると、クニカのいる個室の前に立ちはだかった。沓のつま先が、クニカの位置からでも見える。
「だれ……?」
外にいる人物に向かって、クニカは声を掛ける。返事はなかった。
「もしもし?」
「分かるでしょう、あたしよ」
クニカの声を遮るように、女性の声が響く。リテーリアの声だったが、導火線が火花を散らしているかのような、いら立ちに似た響きを、リテーリアの声は帯びている。だからクニカは、
「リテーリア……?」
と尋ねはしたものの、尋ねるべきかどうか、直前までためらってしまうほどだった。リテーリアは、何かにいら立っている。その理由が分からず、クニカは怖れを覚えた。
「怒ってるの?」
「ウウン。怒ってない」
クニカの言葉を、リテーリアは打ち消した。
扉の向こう側にいるはずのリテーリアに、クニカは目を細める。クニカは、他者の感情を、“心の色”として、読み取ることができる。声が怒気を孕むほどであれば、胸の辺りに、赤色の光を読み取れるはずだった。
しかし、リテーリアのいる辺りからは、何の色のほのめきもなかった。リテーリアは怒っていない。ただ、声はリテーリアの怒りを示している。それは、まぎれもないクニカの直感だった。外面的には明らかに怒っていて、しかしその内面では怒っていない。その不整合を前にして、クニカは足がすくんだ。
「出てきてちょうだい」
押し黙ったまま、クニカはトイレから出る。クニカはそっと扉を開けたが、目の前にはリテーリアが立ちはだかっていた。リテーリアの目は真っ赤で、腫れぼったくなっていた。
「どうしたの?」
「泣いてたの」
「どうして?」
リテーリアは答えない。
「ええっと、その、どうして」
「ミカが死んだでしょう? ミカイアが。親友だったのよ」
――親友だ……って、あたしは思ってる。
チカラアリの浴場で、ミカイアと交わした言葉の断片が、クニカの記憶の中に蘇ってくる。クニカの背筋に、冷たいものが走った。
――けれどさ、あるとき、そいつに怒鳴っちまったんだ……
あのとき、ミカイアは何かを悩んでいた。何を悩んでいたのか、クニカは記憶を呼び戻そうとしたが、思い出すことができなかった。
「その、ごめんなさい」
いたたまれない気分になって、クニカは口を開く。
「ミカが……あんなことになってしまって」
「ごめんなさい?」
「ええ」
「クニカがミカを殺したわけではないでしょう」
「それは、そうですけれど……」
クニカは言いよどむ。リテーリアにそう指摘されると、確かに自分が謝ったことは、おかしなことのように、クニカには感じられた。
「ペルジェがあなたを呼んでるわ」
リテーリアの後をついていきながら、クニカはトイレを抜ける。
「ペルジェの部屋まで、“花嫁の間”まで、あなたを案内する」
「“花嫁の間”?」
「そうよ。聖別された乙女は、神の前に、その花嫁となる」
前を歩きながら、リテーリアはその懐からタバコを取り出した。タバコは、口に咥えられたとたん、先端から煙を放ち始める。発火念力で、リテーリアはタバコに火を灯したのだろう。
「それで……何だっけ?」
「え?」
不意に尋ねられ、クニカは訊き返す。
「話してたじゃない、ミカのことを」
「ええっと……その……ミカが死んでしまって……」
「そうね。死んでしまった」
リテーリアは、鼻から紫煙を噴き出す。
「人は生きてりゃ死ぬわ。騎士ならば、なおさら。後輩たちを庇おうとして、“黒い雨”で、何人も死んだ」
会話が途切れる。リテーリアはきっと、ミカイアの死に、大きな打撃を受けているに違いない――クニカはそう考えていた。だからこそ、リテーリアは泣きはらした目をしていたのではないか?
しかし、今のリテーリアはあっけらかんとしている。ただ、ミカイアの死を乗り越えられたために、そのような態度を取っているようではなかった。まるでリテーリアは、もっと大きな関心事に熱中している間に、ふと外界に関心が戻って、ミカイアの死を思い出したかのような、そんな様子だった。
ミカイアが気にかけていたほどには、リテーリアはミカイアを気にかけていない。クニカは、ミカイアが気の毒になった。
「ここよ」
両開きの、緑色の鉄扉の前に立つと、リテーリアは扉をノックする。リテーリアのノックは、扉を叩きつけているかのようで、クニカはリテーリアが怖くなる。
「クニカを連れてまいりました、星下」
〈通せ〉
ペルガーリアの声が、クニカの脳裏に直接響いた。と同時に、鉄扉がひとりでに開いた。
薄暗い部屋の中心には、円形の浴槽がある。ペルガーリアはその中にいて、腕を組んでいる。浴槽の周囲に灯された蠟燭が、淡い光を投げかけているために、ペルガーリアの姿は、まるで幻か何かのようだった。
「リティ、下がってくれ。あとはオレひとりで十分だ」
“花嫁の間”にクニカを引き入れると、リテーリアは黙ったまま、扉を閉めて出て行ってしまった。
「おいで」
ペルガーリアに呼ばれ、クニカは中心の浴槽まで歩み寄る。ここにきてクニカは、浴槽の内側が黄金でできていることに気付いた。ペルガーリアの白い肌は光沢に照らされ、その肢体はなまめかしかった。
浴槽の中で、ペルガーリアが身体をよじる。背中に彫られている墨色の刺青が、クニカの眼前に顕わになる。
「入れよ」
「え……?」
我を忘れて、ペルガーリアの刺青に見入っていたクニカは、思いがけない誘いに、変な声を出してしまった。
「でも……」
「いいから!」
腕を伸ばすと、ペルガーリアはクニカを引っ張る。ペルガーリアの腕を手繰る力が強かったために、ほとんど頭から飛び込むような格好で、クニカは浴槽に潜り込んだ。水しぶきが上がり、浮かべられていたバラの花びらが、周辺に飛び散る。
「ハハハ」
服を着たままで、ずぶ濡れになっているクニカを見て、ペルガーリアが笑う。
「顔から飛び込むなんて……」
「ひどい……」
「悪かったよ。服は乾かさないとな。オレは禊で出られないから。大目に見てくれよな」
怒ってみせようとしたクニカだったが、いたずらっぽくウィンクをするペルガーリアを見るうちに、怒りたいという気持ちもしぼんでしまった。
「ずるい」
ペルガーリアの内側には、シャンタイアクティの巫皇としての王者然としたところと、子供のような純粋さとが同居しているようだった。これが、ペルガーリアが星誕殿の騎士たちから慕われる理由であり、恐れられる理由でもあるのだと、クニカは思った。
「ずるい……」
「驚いた。クニカも、そんな顔するんだな」
「え?」
「ずっと、我慢しているように見えた」
近くにあった小さなテーブルから、ペルガーリアはリンゴを手に取る。それから、もう一方の手で小刀を手にすると、ペルガーリアは器用にリンゴを剝き始める。
「初めて、夢の中で会ったときから。竜の魔法使いで、だれもが思いもよらなかった魔法が使えて――今は救世主としての役割を期待されていて、場合によっては、命を狙われている……かもしれない」
小刀で切り取られたリンゴの皮が、水の中に落ちる。
「いきなりそんな状況に追い込まれたら、だれだって嫌になる。正気を失ったって、おかしくない。それなのに、クニカ、キミは耐えている。尊敬してるんだ、クニカ。キミのことを。口開けて。アーン、って」
切り出したリンゴを摘まみ上げると、ペルガーリアはクニカの口の前に、リンゴの切れ端を持ってくる。
「あーん……」
「ハハ、いい表情!」
ペルガーリアは愉快そうだった。
自分は、何かに耐えている。――リンゴを咀嚼しながら、クニカは考える。他人の目を通してみれば、今の自分は、何かに耐えているように見えるのかもしれない。しかしクニカには、「耐えている」という意識はみじんもなかった。
「ペルガーリア、その――」
「ペルジェ、でいい」
「――ペルジェ、別にわたしは、何かに耐えているつもりはないです。それに、リンや、フランや、エリーに……ほかにも色んな人に、支えられてるから……」
「偉いな、クニカ」
切り出したリンゴの一かけらを、ペルガーリアは自分の口に放り込む。
「キミは偉い」
リンゴを咀嚼する音が、花嫁の間に、静かに響く。




