096_生の価値(Ценность жизни)
結界を張るための儀式が、着々と進められている。“歳星の間”の床一面に、魔法陣が描かれようとしている。ジイクの設計図を基に、事務総長のリテーリアが、準騎士たちを指揮している。
東西南北、それぞれの方位を占める四人の巫皇は、所定の位置に立って、みずからの魔力を解き放つことになる。
――ロゴスの魔力よ。
フランチェスカは、アアリからそう説明を受けた。
――ロゴス?
――そう。魔力の、もっとも抽象的な形態。
ロゴスの魔力は、普通に展開される魔力とは、別種のものなのだ――と、アアリは言っていた。
控室の小部屋で、フランチェスカとエリッサは、椅子に座って待っていた。部屋は、巫皇ひとりびとりにあてがわれていたのだが、エリッサは、フランチェスカのところにやって来たきり、そのままそこにいた。
「緊張しますね……」
「あ、うん」
そう返事をしてから、今の返事は、あまりにもそっけなかったのではないか、エリッサから嫌われてしまうのではないか、と、フランチェスカは内心焦る。
先ほどから、フランチェスカは、エリッサと手をつないでいた。手汗が気になって、フランチェスカは仕方なかった。手を振りほどいてしまえば、エリッサと手をつなぐ機会は、もう二度と巡ってこないように、フランチェスカには思われた。その一方で、このまま手を握り続けていると、手汗のせいで、エリッサに嫌な思いをさせてしまうかもしれないとも、フランチェスカは思った。
少しでも長く、エリッサと手をつないでいたい。そのためにできることは、自分の意識を、手に集めないようにすることだ。――そう思い至り、フランチェスカは努力してみる。しかし、関心を遠ざけようとすればするほど、エリッサの手のぬくもりが気になって、フランチェスカは落ち着かなくなるのだった。
「お待ちください」
そのとき、部屋の外から、声が聞こえた。部屋の前に控えていた準騎士が、誰かを呼び止めたようだった。
「フランはここ?」
フランチェスカは、声に聞きおぼえがある。チャイハネの声だ。
「エリッサ様とご一緒です。ただ、今は誰も通すなと、リテーリア先輩に言われていて――」
「そう? まあでも、“キミはきっと、あたしを部屋に通すよ”」
チャイハネの言い方は、言葉を知らない者に対して、その意味を伝えようとするかのような、はっきりとした言い方だった。
「わ、私はきっと……」
上の空のような言い方で、準騎士はチャイハネの言葉をくり返す。
「私はきっと、チャイハネを部屋に通す……」
「そうそう」
扉が開き、チャイハネが入ってくる。ドアノブに手をかけたまま、準騎士は遠い目をしている。
「ありがとさん。“キミは自室に戻り、人生について考える”」
「わ、私は自室に戻り……人生について考える……」
呟きながら、おぼつかない足取りで、準騎士は去っていく。
「よお。元気?」
準騎士を見送ると、チャイハネはフランチェスカに言った。
「あ――」
フランチェスカは口を開いたが、言葉が出てこなかった。将棋の申し合わせをしたときとはうって変わって、チャイハネはあっけらかんとしており、身のこなしも軽やかだった。これまで自分を悩ませていたものは霧のように消え去ってしまい、今はただ、明日何をして遊ぶのかを楽しみにしているだけなのだ、とでも言わんばかりだった。
「チャイさん、どうしてここが分かったんです?」
フランチェスカに代わって、エリッサが尋ねる。
「ミーシャに教えてもらったんだよ。すごいんだよ、カノジョ。人の顔を描くように、魔法陣が描けるんだって。似顔絵も上手なんじゃないかな? 今度、一緒に描いてもらったら?」
「一緒に?」
エリッサはフランチェスカを見やる。フランチェスカはドキリとした。
「そうさ。――そうだ、フラン。アレは?」
「え?」
「『おしゃべりプログラム』だよ。話してたじゃん。それ作ってるって」
「う、うん……」
「練習しよう」
「練習?」
「そう。プログラムが役立つかどうか。臨床試験ってヤツさ。大事だろ?」
「あ、うん。ええっと」
『おしゃべりプログラム:愛すべき人用』を、フランチェスカは取り出す。
「じゃあ、いくね」
「どうぞ」
「ええっと……えへん、えへん。『初めまして。私の名前は、フランチェスカ=オツヴェル』」
「キミ、今はもうオツヴェル氏じゃないでしょう」
眼鏡をはずし、レンズを服の袖で拭きながら、チャイハネが言った。
「ハッ?! そうだった」
「それにさ、『初めまして』から開始して、『あなたを愛してます』って言うまでに、どれだけ時間がかかると思ってんの? シュムにあいさつした覚えなんかないよ、あたしの場合は」
「ええっと」
「のっけからそれじゃあ、先が思いやられるよ」
肩をすくめると、チャイハネはエリッサを見る。
「ね、エリー。そう思うでしょう?」
「ええっと……。――あ! でも、でも! もしかしたら、これから良くなるのかも! あと、フランさんの頑張りも、きっと相手に伝わるかもって……!」
チャイハネとフランチェスカを代わる代わる見つめながら、エリッサは答える。慎重に言葉を選びながら、自分のことを励まそうとしてくれるエリッサを見て、フランチェスカは内心、ますます傷ついた。
「ぱおーん……」
「『ぱおーん』じゃないよ」
チャイハネはエリッサに向き直る。
「チャイさん?」
「あのさ、エリー。一度しか言わないから、よく聞くんだよ」
「は、はい……?」
「フランなんだけどさ――フランチェスカはさ、キミのこと、愛してるんだってさ」
「――ふぁい?!」
最後に素っ頓狂な声を上げたのは、フランチェスカ本人だった。『おしゃべりプログラム』が想定していない、予期せぬ現実が、フランチェスカの正面に立ちはだかって、フランチェスカをなぎ倒す。その上でもう一度、現実はフランチェスカを起き上がらせ、二本足で立たせ、またしてもフランチェスカをなぎ倒す。その上でもう一度、現実はフランチェスカを起き上がらせると、やはり二本足で立たせ、これでもかとばかりに、フランチェスカをなぎ倒す。最後にもう一度、現実はフランチェスカを起き上がらせ、二本足で立たせると、フランチェスカを起き上がらせて、二本足で立たせてから、改めてなぎ倒すことが、みずからの使命なのだと言わんばかりに、フランチェスカをなぎ倒した。喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、憎しみ、幸せ、慈しみ、恨み、憂鬱、耳鳴り、金縛り、発疹、めまい、動悸、息切れ、気付け、多重人格――ありとあらゆる感情と、ありとあらゆる症状が、一気にフランチェスカの周辺を取り囲み、これでもかとばかりに、フランチェスカをなぎ倒していく。
「あばばばば!」
フランチェスカは、叫んだ。
「あばば! あばばばば!」
「ははは、ぶっ壊れちまった」
ひとりの人格をこっぱみじんに粉砕しておきながら、チャイハネは面白がっているようだった。歯を見せて笑いつつ、チャイハネは隣にいるエリッサを、いたずらっぽく肘で小突いている。
エリッサはといえば――顔を真っ赤にして、うつむいていた。緑の瞳は、心なしか潤んでいるように見える。
「あ――」
そんなエリッサの様子に、フランチェスカをもみくちゃにしていた様々な感情と症状とが、一斉にちりじりになる。あとに残されたのは、「エリッサは何と言うだろう」という、不安と期待だけだった。
「エリー……?」
「フラン、キミに必要なのは、しゃべるためのマニュアルでも、しゃれた冗談でもないよ」
チャイハネはポケットをまさぐる。タバコを見つけようとし、チャイハネはそれに失敗したようだった。
「必要なのは、キミの代わりに、キミの気持ちを言ってくれるような、驚くほどお節介で、あり得ないほど近い人だよ。今回はあたしだけど。これからも身近に、そういう人がいてくれるといい。それで、エリー」
肩をすくめると、チャイハネはエリッサに向き直った。
「あ……えっと……」
「気持ちは?」
「その……」
エリッサは、耳まで真っ赤になっている。
「わたし、その……、フランさんに、その……大切な人って思えてもらえて……嬉しいです……」
フランチェスカは、じっとエリッサのことを見つめる。今の言葉と、目の前にいるエリッサとが、同一性を保っているのかどうか。それはナンセンスなようにも思えたが、その二つがちゃんと一致しているのかどうかを、フランチェスカは確かめなければならないような気がしていた。そのくらい、今のエリッサの言葉は現実ばなれしているように、フランチェスカには思われた。
フランチェスカとエリッサは、友だちである。
そして今、フランチェスカはエリッサを愛していて、エリッサはフランチェスカのことを受け入れている。展開した命題の片鱗から、穏やかな光が降りそそいでくるかのような感覚を、フランチェスカは味わった。
「フラン」
光から何が見出せるのかを、目を細めて眺めようとしていたフランチェスカのことを、チャイハネが肘で小突く。
「え?」
「え、じゃないよ。今度はさ、自分で言ってみるんだ。ほら!」
「あ……えっと……」
改めて、フランチェスカはエリッサの前に立ゆ。エリッサと目が合うだけで、フランチェスカは、耳までのぼせあがってしまうような気がした。
「え、エリー……」
一言一言を確かめるようにして、フランチェスカは言った。単純な言葉であるというのに、喉から単語をしぼり出すことが、こんなにも大変だとは、フランチェスカは思ってもみなかった。
「その……私は……。エリーのことを……愛して……います……」
「わ、わたしも……」
エリッサのうわずった声が、フランチェスカの耳に届く。しかしフランチェスカは、今度はちゃんと、エリッサの言葉なのだと、それを待つことができた。
「フランのこと……愛してます……大好きです……」
即位灌頂の儀式のことが、鮮やかにフランチェスカの脳内に蘇ってくる。あのときに感じた世界の広さと、今、エリッサから受容されたことが、フランチェスカの中で、ひとつになった。
フランチェスカは、エリッサに手を差し伸べる。エリッサは、おずおずと手を伸ばしてきたが、フランチェスカは、みずからその手を引き寄せ、にぎりしめた。光から浮かび上がってきたものが何かを、フランチェスカは知った。それは、この世界で生きていていい、この世界には、生きる価値があるのだという、確信だった。
「チャイ……?」
夢見心地だったフランチェスカは、ふと我に返って、後ろにいるはずのチャイハネに呼びかける。しかし、そのときにはもう、チャイハネはいなかった。




