095_新常態(Новая норма)
――セツは、忘却によって暗闇にある人々を照らした。彼は彼らを照らした。彼は彼らに道を与えた。この道が、彼が彼らに教えた真理なのである(『真理の福音』、第6章)。
フランチェスカが去っていった後も、チャイハネはその場に留まり続けた。椅子に腰掛け、将棋の駒をいじっている間も、シュムのこと、シャンタイアクティ騎士団のこと、自分の未来のことを、チャイハネは考え続けた。
そのとき、
「いたいた」
と、遠くから声がした。オリガが近づいてくる。
「探したぞ、チャイ」
僧兵の駒を、チャイハネは盤に戻す。
「探す?」
「そうさ。こっちへ」
すぐ側の扉を開くと、オリガはチャイハネを招き入れる。星誕殿の、無数にある小部屋のひとつだった。部屋には、机と、椅子と、一台の本棚があるだけだった。本棚は、埃を被った、かび臭い経典で埋め尽くされている。
「これから、”黒い雨”を封印するために、結界を張り直す儀式が行われる」
外に面していないこの部屋は、扉を閉め切ってしまうと、真っ暗になる。天井から吊り下げられていた裸電球に、オリガは明かりを灯す。虫の羽音のような音に遅れて、室内が照らされる。
「”黒い雨”が止めば、南大陸は元通りになる。復興のために、前に進むことができる」
オリガとチャイハネは、空いていた椅子に腰掛ける。
「それでだ。その前に、ペルガーリアは全てを正常に戻したがっている」
「正常?」
「そう」
何がおかしいのか、チャイハネの「正常」という呟きに、オリガは小刻みに笑った。
「といっても、元に戻す、ってワケじゃない。戻ってきた”正常”は、これまでの日常とは違う。”新しい常態”ってところかな?」
「それで、あたしは?」
チャイハネは尋ねる。
「何をすればいい? それを知らせるために、あたしを探してたんだろ?」
「めずらしく前向きだな? 嬉しいよ」
懐から、オリガは何かを手に取ると、それを机に投げ出した。一丁の銃が、電球の光を受けて、鈍い光沢を放つ。その隣には、さび付いた古い鍵が並べられる。
「ニフシェを殺してほしい」
オリガは言う。
「アイツは今、星誕殿の地下牢にいる。――マァ、”地下牢”とは言っても、断崖に面しているから、実際は地上なんだけど。奴は魔法を封印されているし、収監されてからは大人しい。観念したのかもな。たぶん、慫慂として死を受け入れると思う」
「あたしが、ニフシェを殺すって?」
やっとの思いで、チャイハネは尋ねる。
「難しいことじゃない」
懐から、オリガは煙草を取り出す。
「アイツはもう魔法が使えないし、抵抗する気力もない。キミは銃をアイツのこめかみにあてがって、引き金を引くだけでいい。吸うかい?」
「『それだけでいい』んなら――」
煙草を断りながら、チャイハネは言った。
「あたしじゃなくたって良いワケだろ? 準騎士に任せたっていいはずだ」
「チャイ、これはキミへの試練なんだ」
「ハハハ」
初め、オリガは冗談を言っているのだと、チャイハネは思い込んだ。しかし、シャンタイアクティへと向かう道すがらで、オリガは、チャイハネが騎士団に入るものと考えてしまっている。
おまけにチャイハネは、シュムに対しても、「シャンタイアクティ騎士団に入るつもりだ」と言ってしまっていた。そもそもシュムとの訣別の原因は、そこから始まっているのだ。これらのことを思い出して、チャイハネの笑みは消え失せる。
「入隊前の試練だよ。普通は、入隊後に経験するものだろうけど」
煙草を咥え、発火能力で火を着けると、オリガは一服する。部屋に窓はないため、室内はたちどころに煙臭くなる。
「この試練を乗り越えたら、キミの入隊は正式に決まる」
押し黙ったままのチャイハネに対し、オリガは言った。
「まだ、迷っているようだけれど――チャイ、それは煩悩だ。煩悩は常にあたしらの影だけれど、影から逃げるか、受け容れるか、それを選択する機会は、いつだってあたしらに委ねられている。時が来たんだ、チャイ。受け容れるべき時が」
席を立つと、オリガはチャイハネの腕を掴み、机の上に乗せる。それから銃を取ると、チャイハネの手に銃を握らせた。
「びびるな。キミならできる。前に進むんだ。キミにはその資格がある」
「あたしは――」
言いかけたチャイハネだったが、本当は自分自身でも、何を言いたいのかが分かっていなかった。
結局チャイハネは、銃と鍵とを手に取り、椅子から立ち上がるしかなかった。
「地下牢へ続く階段は、この廊下をずっと奥まで進んだ先だ。ミーシャとカイがじゃれ合っている側の入口だから、すぐ分かる」
扉を出ようとしているチャイハネに向かって、オリガが声を掛ける。
「あと、入隊したら、腕の刺青をどうにかしよう。青い花のやつ。刺れっ放しはもったいない。もっと有用な魔法陣に――聞いてるかい?」
チャイハネは答えず、後ろ手に扉を閉めた。
◇◇◇
廊下の突き当たりを曲がってすぐに、オリガはお目当ての二人を発見した。カイとミーシャが、互いに手を取り合いながら、座り込んで笑みを交わしている。
「ウオーッ!」
「キャー!」
カイの声に合わせて、ミーシャが黄色い声を上げる。ミーシャの声は甲高かったために、そのすぐ側でぽっかりと口を開けている通路の奥まで、声が反響していた。開け放たれたその通路は、星誕殿の”地下”までつながっているようだった。
「おーっ、チャイ!」
チャイハネの姿に気付くと、カイは長い手を振り上げる。カイはなぜか、ゴーグルを被っていた。
「こんにちは」
「キャー。」
パーカーのポケットに入れている手が、汗で湿る。チャイハネは、そこに銃を隠していた。
「何してんの?」
「ニンゲンを捕る漁師!」
「え?」
「キャー!」
拳を振り上げるカイに、ミーシャが呼応する。カイは”鯱”の魔法属性で、ミーシャは”海豚”の魔法属性である。海棲類は独特のコミュニケーションを取るため、チャイハネはカイの言いたいことが分からなかったが、ミーシャには分かるようだった。
ウルトラに到着する直前、サンクトヨアシェでの一件を、チャイハネは思い出す。リンを助けるために、単身でサリシュ=キントゥス人のアジトへ乗り込んだクニカのことを、最初に追いかけようとしたのは、カイだった。そのときのカイも、今と同じように”ニンゲンを捕る漁師”と、しきりに叫んでいた。
「チャイも、ニンゲンを捕りに行くゾ!」
「いや、遠慮しとくよ、今回は」
「ウーン……。」
「みゅーん……。」
その言葉に、カイもミーシャも、途端にしおらしくなった。
「え、何?」
「カイ、嘘を吐かれるのは嫌だゾ。」
「キャー。」
その言葉に、チャイハネは押し黙るしかなかった。「嘘じゃない」――もし、そう言おうとしたとしても、自分の心に正直でない点は、カイの言うとおりだった。その一方で、チャイハネは本当のことを言う勇気が――「ニフシェを殺しに行く」と言う勇気が――ないのも事実だった。ニフシェはミーシャの相棒である。ミーシャを前にして、チャイハネはとても、そんなことを言う気にはなれなかった。
「ゴメンよ」
「ウオーッ!」
「キャー!」
分かっているのか、いないのか。カイとミーシャの二人は、大きな声を上げてはしゃぐばかりだった。嘘をつくことによってできた、心の奥のふやけた何かを感じ取りながらも、チャイハネはただ、地下に向かって進むしかなかった。
◇◇◇
地下へと続く階段を、チャイハネは降りていく。通路は、ちょっとした鍾乳洞のようであり、手で掘り進められたかのように歪だった。チャイハネはたびたび立ち止まっては、足下に注意しなければならなかった。
しばらく前に進むうちに、チャイハネの視界が、突然開ける。強い海風にチャイハネの髪がなびく。通路を抜けた先には土壁があり、等間隔で穴が空いていた。穴は窓の代わりなのだろう。その向こう側には、水平線が広がっている。
壁へ近づくと、チャイハネはそっと、眼下の様子を眺める。切り立った断崖の下には、海が横たわっている。地下牢へと続くこの通路は、地盤の軟らかいところを掘り進める形で、下へ下へと伸びていったのだろう。そうするうちに、海に面したところにまで到達したのだ。
潮風を嗅ぎながら、チャイハネは進む。風の音以外には、何も聞こえてこない。土をくりぬいて造られた、簡素な地下牢の部屋が複数並んでいたが、人の姿はない。
通路を曲がり、高さの均一でない土の階段を下りながら、チャイハネは部屋を一つびとつ確かめていく。とうとうチャイハネは、ニフシェのいる牢屋にまでたどり着いた。
初めニフシェの姿を見たとき、チャイハネは心臓が止まってしまうかのような驚きを覚えた。海風の音は、ここまでは聞こえてこない。静寂さの中で、ニフシェはチャイハネに背を向ける格好で、座禅を組んでいた。張り詰めた空気を感じ、チャイハネは息を呑む。
「来たな」
ニフシェが口を開く。逡巡していたチャイハネは、ニフシェの言葉に、とっさに反応できなかった。そんなチャイハネの様子が伝わったのか、背を向けたまま、ニフシェが笑い声を漏らした。
「キミが思うほど、この世は悪いところじゃない。じきに分かる。入れ」
無言のまま、チャイハネは牢屋の鍵を取り出す。鉄格子の扉が開け放たれ、チャイハネは中へ入った。
「ボクを殺しに来た。そうだろ?」
ニフシェの言葉に、チャイハネは顔を上げる。
「ビビるなよ。ボクは抵抗しない。キミ自身の心に従うとき、キミは自由になる」
ニフシェの態度には、怯えた様子も、怒りの様子もない。むしろニフシェは、自由を感じ、喜んでいるようにさえも、チャイハネには思えた。
「何かが違う気がするんだ」
チャイハネは言った。
「何かが違う気がする。自分でも分からないけれど」
「それで良いじゃないか」
ニフシェはゆっくりと、チャイハネを見上げる。ニフシェは目をつぶっており、まぶたの辺りには、青い痣のようなものができていた。――オリガの銃撃を受けて飛び込んだランタンの破片が、ニフシェの眼球を傷つけてしまっている。チャイハネの見立てどおり、ニフシェはもう、目が見えないのだろう。にもかかわらず、チャイハネはニフシェに射すくめられたような気がした。
上着のポケットから、チャイハネは銃を取り出す。裸電球の下で見たときには、あれほど重苦しく見えた銃も、こうして自然の光の中で見ると、おもちゃのようだった。
「ボクたちはいつだって、違うことをすることができる。何度でも間違うことができて、何度でもやり直すことができる。そのたびに生まれ変わって――もう一度生きることができる」
「もう一度生きる?」
「そう」
肩を震わせながら、ニフシェは笑う。
「昔のことだけれど、ボクも誰かを処刑しなければならないときがあった。そのとき、相手の最期の言葉の途中で、ボクは剣を振り下ろして、その人を死なせてしまった。ボクは今、こうして喋っているけれど、もしかしたら話の途中で、キミに殺されるかもしれない。全てを語り尽くせるか、殺されるのが先か。そう考えると、面白いんだ」
「教えてほしいんだ」
ニフシェと銃とを交互に見ながら、チャイハネは尋ねる。
「キミは、本当の裏切り者なのかい? どうなんだ?」
「ボクは裏切っちゃいない。だけどさ、チャイ。よく考えてみれば、裏切りの逆をしたことだって、これまで一度もなかった」
「”逆”?」
「真実に仕えること。ボクは一度もなかった」
ニフシェは、深くため息をついた。
「このくらいにしよう。これ以上何かを語るには、世界は鮮な過ぎる。ただ、最期に言えるとしたらさ、チャイ」
「何?」
「これだよ、これ」
そう言いながら、ニフシェは頭を傾けて、右耳をチャイハネに見せる。
「今はもう、痛くない。治してもらったおかげさ」
その言葉を聞いた瞬間、チャイハネの脳裏に、これまでの一切の記憶が、津波のようになって押し寄せてくる。それは圧倒的で、避けることができなかった。「権威ある医者」を演じていた父親の、青ざめた顔。シュムの父親を手当てしたときに感じた安堵の気持ち。トレーラーの奥で、ニフシェの怪我を治したとき。オリガの怪我を治したとき。
自分は、誰かを生かしたいと思うから、医者になりたかったのではなかったか? 自問自答の中で、チャイハネは自分が、銃把を握り締めていることに気付く。
「ついでに、ひとつ約束してほしい」
ニフシェは続ける。
「ボクが死んだ場合には、この世界を良くすると、約束してほしい」
「約束するよ」
チャイハネは撃鉄を起こす。心は既に決まっていた。銃の引金に、チャイハネは指をかける。
「ありがとう。ボクは嬉しい」
ニフシェは笑う。
銃声。
◇◇◇
「ウオーッ!」
「キャー!」
チャイハネが地下へ潜っていった後も、カイとミーシャの二人は、相変わらずじゃれ合っていた。
「おーっ?! チャイ!」
チャイハネが戻ってきたことに、カイが気付く。送り出したときと同じように、腕を大きく広げて、カイはチャイハネを迎え入れる。
「やあ、元気?」
「ウーン。……ワカンネ!」
「え? 『ワカンネ』ぇの?」
チャイハネは笑う。
「そりゃ困っちまうね。で、ミーシャは……聞くだけ野暮かな?」
「キャー。」
ミーシャも黄色い声を上げる。
「あのさ、カイ。さっきキミは、“ニンゲンを捕る漁師”って言ってたよね? 半年くらい前だけど、おんなじこと、クニカにも言ってたよな?」
「ン!」
「そうか。ハハハ。分かってるじゃん」
そう言うと、チャイハネはおどけて、カイのことを肘で小突く。カイはくすぐったそうに微笑んだ。
「とするとさ、カイ、あたしがどうしたいか……分かるよね?」
「ン!」
「ありがとうね。あたしはさ、そのときが来るまで、逃げるような行動を取る。生まれ変わって――もう一度生きるためかな? 受け売りなんだけどさ。それでだ、ミーシャ、キミにお願いしたいことがある」
「キャー。ミーシャ、頑張ります。」
「ありがとうね。具体的にはさ――」
ミーシャの側に身を屈めると、チャイハネは耳元で囁く。
「ダイジョウブそう?」
「キャー。」
「ありがとう。あと、ひとつ教えてほしいんだけれど、フランがどこへ行ったか、分かる?」
「キャー。にぎってくださーい!」
ハイタッチを求めるようにして、ミーシャはチャイハネの前に左手を突き出す。
「おおっ?!」
ミーシャの手に触れた途端、チャイハネは声を上げた。触れ合った手を通じて、ミーシャの影像が、チャイハネに殺到する。
――彼女、人の顔を描くように、魔法陣が描ける。いいセンスだろう?
以前、トレーラーの中でニフシェから聞いたことを、チャイハネは思い出す。ミーシャが手を離したときにはもう、チャイハネは、フランチェスカがどこにいるのか、すっかり頭の中で思い描くことができるようになっていた。
「すごいよ、ありがとう」
「キャー。」
「ウオーッ!」
早足でその場を離れていったチャイハネの背中を、ミーシャとカイは見送る。




