094_サイダーの泡(Пузырьки сидра)
シャンタイアクティへ――その言葉を思い出した瞬間、何かが津波のようになって、自分の心へと到来してくることに、チャイハネは気付いた。それは、チャイハネの前に屹立し、しかし同時に、チャイハネを刺し貫くものでもあった。
将来を語っていたシュムの姿が、脳裏によみがえる。あたしだ。最初に言ったのは、あたしだったじゃないか――チャイハネは自分を責めた。
チャイハネは目を開く。星誕殿にある、広くて長い廊下。その一角には、小さな円卓と、二脚の椅子がある。椅子に座って、物思いにふけっているうちに、チャイハネはうたた寝をしてしまっていた。
身を起こしたはずみで、円卓に置かれていた将棋盤が揺れる。船の駒が床に落ちる。駒は転がり、もうひとつの椅子に座っていた、だれかのつま先に当たる。
「やあやあ」
駒を拾うと、その人物は、コッドネック・ボトルからサイダーをコップに注ぎ、レモンを搾って、汁も注ぎ込んだ。
眼鏡を外し、目をこすってから、チャイハネはもう一度、その人物を見つめる。その人は、亜麻色の長い髪をツインテールに結わえ、青色の瞳を持ち、赤い長衣を身にまとっていた。
「私の名前は、フランチェスカ」
少女は――フランチェスカは告げる。
「俗氏はオツヴェル。先にチカラアリの臺位を継ぎ、フランチェスカ・トレ=チカラアリとなった。私は神前で聖別された」
コップに注いだレモネードを、フランチェスカは飲み干す。それから再び、フランチェスカはサイダーをコップに注ぎ、レモンを搾る。その間に、フランチェスカは何度も、首を勢いよく傾げてみせた。今度は、二つ目のコップにもサイダーを注ぎ始める。
フランチェスカ・トレ=チカラアリ。クニカとともにチカラアリで戦い、シャンタイアクティまでやって来た少女。チカラアリの巫皇の地位の、正当な後継者。
「終わったの?」
レモン搾りが気に入らなかったのか、素手でレモンを握りつぶそうとしているフランチェスカを見ながら、チャイハネは尋ねる。チャイハネの目の前で、フランチェスカはレモンを机に取り落とし、飛び散ったレモンの汁が、テーブルとチェス盤、それからフランチェスカの身につける赤い衣を濡らした。
チッ、と舌打ちしながら、机に飛び散ったレモンの汁を、フランチェスカは衣の袖で拭き取る。
――フランチェスカ様は、天才肌で、とっつきにくい人らしいです。
クニカたちがやってくる前、星誕殿の準騎士たちが、そんな噂話をしていたのを、チャイハネは思い出した。
「儀式は? 即位灌頂の――」
「私は元気です。しかし、最高にムカついている」
搾り尽くしたレモンの実を囓りながら、フランチェスカは言う。それから、レモン果汁を注いだコップのひとつを、フランチェスカはチャイハネに差し出す。しかしフランチェスカは、チャイハネに目を合わせようとしない。
「私がチカラアリ巫皇になると、早速、四人の巫皇によって、作戦会議が開かれた。私はこの街を棄てて、南部の要衝・ダカ市で迎え撃つべきと主張した。この街は開かれ過ぎていて、攻めるに易く、守るに難い。ところが、ペルガーリアは何と言ったか? それは、ダメだ、であった」
またしても、フランチェスカはレモネードを一気に飲み干す。
「昔者より、この街はシャンタイアクティの巫皇の膝元であり、歴代の巫皇たちの霊験が残っている。それが、ペルガーリアの主張であった」
レモンを囓ったあと、フランチェスカは露骨に渋い顔をする。フランチェスカは、レモンが好きなわけではなく、ただ頭にきているだけなのだということに、チャイハネも気付く。
「マァ、そういう考え方もあるだろう。私の心は広い。しかし、それでもシャンタイアクティで戦うより、ダカの街を拠点とした方が、差し引きの利益は大きい。私はその価値を力説したが、ペルガーリアは譲らなかった。ハ、ハ!」
ハ、ハ! という最後の発声が、笑い声なのだと気付くのに、チャイハネはかなり時間を要した。
「私は知っている、ペルガーリアが怖れる者――それは、私が怖れる者でもあるが――は、ニフリート・ダカラーであるということを。『ダカラー』とは『ダカ地方のラァ氏』の謂である。敵の故郷で敵を迎え撃つことが、ペルガーリアには堪えられない。それは戦術の問題ではなく、感傷の問題である。ゆえに私は、『ペルガーリアが堪えられない』という、その事実が堪えられなかった。かくして、私はペルガーリアの人格を否定し、怒りに身を任せて”四天女の間”を飛び出し、準騎士たちがこっそり飲もうとしていたコッドネック・ボトルに入ったサイダーとレモンの実を強奪し、こうしてうさを晴らしている」
「かわいそうに」
相手が巫皇ならば、準騎士たちも泣き寝入りするしかないだろう。楽しみにしていたレモネードをフランチェスカに奪われてしまった、名前も顔も知らない準騎士たちに、チャイハネは同情する。
「これが私のムカついている所以である。キミ、将棋はできるか?」
拾い上げた船を将棋盤に戻すと、フランチェスカはチャイハネに尋ねる。このときも、フランチェスカは目を合わせようとはしなかった。
「自慢じゃないけど、ウルトラの病院では負けなかった」
「ハ、ハ!」
フランチェスカの顎から、何かがすりつぶされる音が、チャイハネにも聞こえてくる。フランチェスカは、レモンの種を噛み潰しているようだった。
フランチェスカの駒は白、チャイハネは黒だった。フランチェスカが先攻である。
「歩兵をeの四」
フランチェスカが言う。フランチェスカは、自分で駒を動かすつもりがないようだった。面食らったチャイハネだったが、フランチェスカの手はレモンの果汁でベタついている。触らない方が、無難かもしれない、とチャイハネは思い直す。
定石どおりに、チャイハネは黒の歩兵をeの五に動かす。
「〇・四二」
そのとき、二個目のレモンを囓り始めていたフランチェスカが、唐突に口を開いた。
「何?」
「先手が白の歩兵をeの四に指したとき、先手の勝率は〇・五九。これに対して、定石どおり黒の歩兵をeの五に指したとき、後手の勝率は〇・四二」
手についたレモン汁を吸いながら、フランチェスカは語り始める。
「cの五を指しても同じく〇・四二。cの六を指すと〇・三八。私の趣味は、将棋と、数を数えることです」
チャイハネはのけ反りそうになる。
◇◇◇
「さっき、私は『最高にムカついている』と言ったが」
二個目のレモンを食べ終えると、フランチェスカはまたしても、いきなり語り始めた。
「ただ、これまでのムカつき方とは違っていたのも事実であった。私はよく怒る。これは、一般的なチカラアリ人の特性と言って差し支えない。しかし、奇妙な物言いになるが、私は怒っているとして、と同時に、『誰かに怒らされている』とでも言うような、そんな感覚があった。分かるかい?」
「いや、全然」
「そうだろう、そうだろう?」
チャイハネに否定されたというのに、フランチェスカはどこか嬉しそうだった。
「なぜならそれは、奇妙な話だからだ。何かの感情を覚えるとき、その感情の契機は、ほかならぬ感情を覚えた人そのものにほかならない。他人の感情を自分が覚えることはできないし、自分が覚えた感情を、そのとおりに誰かに覚えてもらうように、強いることもできない。にもかかわらず、私は、自分の怒りの感情は、自分に由来するものであるとともに、その感情は――運命? によって、既に遠い昔から決まっていたかのような、あるいは未来における必然として決まっていたかのような、そういう感覚も同時に味わっていた」
フランチェスカは、机に頬杖をついて、回廊の窓から見える景色を眺める。
「思えば、ペルガーリアと対峙しているときもそうだった。ペルガーリアの人生も、私の感情も、おそらくは運命として決まっている。俗に『運命にあらがう』と言われるが、そういう類いの『運命』ではない。それは水車のように回っていて、何度も繰り返されるが、運ばれる水は常に古く、そして新しい。ペルガーリアは、即位灌頂の儀式を通じて、私にそのことを伝えたかったのだろう。そんな彼女の気持ちも、今ならば分かる。これはどれだけ説明しても、語り得ない」
フランチェスカは、ため息をつく。
「そんな体験が存在することを知れただけでも、私には良かった。ところで、気分はどう?」
「え?」
「負けた気分」
対局の終了した将棋盤に、チャイハネは視線を落とす。八手目にして、チャイハネは死に陥ってしまった。奇抜な言動の割に、フランチェスカは定石どおりに駒を動かしてきたため、チャイハネもそれに倣った。しかし、これから、というところで、チャイハネのキングは頓死していた。何が起きたのか、チャイハネには分からなかった。
「さぁ。何が起きたのか分からない」
チャイハネは白状する。
「フフン、そうだろう」
フランチェスカは得意げだった。
「五手目に指した騎士がハメ手で、真意は気付かれにくい。なぜなら、クイーンを獲れる格好の機会のように見えるから。その判断は非合理的ではない。こうして理性的な対局者であっても、ハメ手に乗ってしまう。ましてや、その人物が動揺している場合には、なおさら」
そう言いながら、フランチェスカは、チャイハネに向かって身を乗り出してきた。
「その人物が動揺している場合には、なおさら」
「え?」
「キミは、心が地獄に落ちている――ように、私には見える。対局の間、私はキミの瞬きの回数を数えていた。私の趣味は、数を数えることです。キミの瞬きの頻度は、一分間に一定していなかった。次にどのような手を指すか、その判断も一定ではなかった。ただ、定石どおりに指しているというにもかかわらず」
「ハハ。そうか」
チャイハネは苦笑する。隣にフランチェスカが座ったときにはもう、チャイハネの運命は決まっていたようだ。
「嘘を断念したって良い。真実を語っても良い」
空のコップを覗き込みながら、フランチェスカは言った。
「そうかい。それなら、話すよ。恋人の話さ」
「恋人?」
「そうさ。シュム、って名前なんだけどね。あたし、彼女と喧嘩してるんだ」
「喧嘩?」
フランチェスカの眉間に、しわが寄った。
「あたしが原因なんだ」
チャイハネは、話を続ける。
「会ったとき、彼女は追い詰められていて、あたしは逃避行を続けているところだった。それで、追い詰められている彼女のことを詳しく知ったとき、あたしは、彼女と自分のこととを重ね合わせるようになった。そんで、彼女に提案したんだ、『共に生きよう』、『シャンタイアクティへ行こう』って。だけど、この”黒い雨”だろ? それに追われている間に、あたしは自分で言ったことを、完全に忘れちまってた。彼女は覚えていて、ずっと待ってくれていたっていうのにさ。謝んなきゃいけないんだけどさ、勇気がない。ハハハ」
照れ隠しのために、チャイハネは笑ってみせる。しかしながら、考えていたことを誰かに話すことができて、少し心が晴れたことも、チャイハネにとっては事実だった。
「ありがとう、フランチェスカ。困るよな、人ののろけ話聞かされるのって」
フランチェスカは口元を手で覆い、神妙な表情をしている。
「もしもし?」
「恋人……」
「そうだよ」
「恋人と喧嘩……」
「そう」
「愛すべき人と喧嘩。――いいな!」
ややあってから、フランチェスカはそう言った。その口調は、あっけらかんとしていた。
「いい?」
「そう。羨ましい、と思う。恋人がいて、その人と愛し合ったり、喧嘩をしたりすることができる。それはとても羨ましいと、私は思う。私には、そんな人はいない」
チャイハネが返事をする前に、フランチェスカは懐からノートを取り出した。ノートの表題には『おしゃべりプログラム:愛すべき人用』と書かれている。
「仮に愛すべき人を特定した場合において、その人に対して語り得ることを明晰に語るために、このノートを作成している。パターンは既に網羅しており、完璧なプログラムではあるけれど、問題は愛し合う人がいないという、このことなのであった――」
「あー……そう?」
「愛し合う人がいない」と言ったときのフランチェスカは、非常に落ち込んでいるようだった。どのような言葉を掛けて良いのかが分からず、チャイハネは生返事をするしかなかった。
そのとき、
「あっ!」
と、廊下の遠くから、誰かの声が上がる。振り向いてみれば、褐色肌で、黒い長髪に、緑の丸い瞳を持った少女が、フランチェスカに手を振っている。ビスマーの巫皇・エリッサだった。
「あ」
エリッサの姿を見た途端、フランチェスカは、気の抜けたサイダーのように声を漏らした。
「もう、心配したんですよ! 怒って出て行ってしまうんですから――」
駆けつけると、エリッサは頬を膨らませる。
「あ、うん」
「もう一度、ちゃんと話し合いましょう!」
「あ、うん」
「それから、これから四人で、結界を張り直すんですって。一緒に頑張りましょう!」
「あ、うん」
今度は、チャイハネがフランチェスカを観察する番だった。エリッサを前にしたフランチェスカは、別人のようにたどたどしかった。先ほどから「あ、うん」しか言っていない。
「それじゃ、私、『フランさんを見つけました』って、みんなに報告しに行きますからね!」
「あ、うん。……あ」
フランチェスカは腕を伸ばすと、チャイハネが手をつけずにいたレモネードのコップを、エリッサに差し出した。
「レモネード、どう?」
「わあ、ありがとうございます。でも、わたし、炭酸ニガテなんです」
「そう。ぱおーん……」
「ゴメンナサイ」
「ぱおーん……」
申し出を断られ、フランチェスカはしょげきっているようだった。
「それじゃ、私、先に”四天女の間”に戻ってますからね! 必ず来てくださいね!」
「あ、うん」
足早に去って行ったエリッサの背中を、フランチェスカは見送る。フランチェスカは、エリッサともっと話をしたがっているようだったが、何を話せば良いのか、自分でもよく分かっていないようだった。
「フラン、あのさ、愛する人がいるんでしょう?」
「え、エリッサのことが――」
フランチェスカの頬が、赤くなる。
「エリッサのことを……その……愛すべき人として、念頭に置いています」
フランチェスカの告白は、訥々としていた。




