093_今日、キミは死んだ(Сегодня ты умер.)
死にかけている父親の首を、必死の形相で締め上げているシュムを目撃してから、何をどうしたのか。――チャイハネは全く覚えていなかった。気付いたときにはもう、チャイハネは市営プールでの中にある、シャワールームの一画にいた。
シュムの父親はどうなったのか? 救急隊はやってきたのか? 自分は逃げ出したのか? チャイハネは、覚えていないこと、分からないことに取り囲まれていた。唯一理解できたのは、ポケットの中に入っていたなけなしの小銭を、チャイハネは市営プールの入場料として、使い果たしてしまっていたということだけだった。
左手にぬくもりを覚え、チャイハネは隣を見る。隣にシュムがいたことを、チャイハネはようやく思い出す。
家を脱出する際に、その場にあった服を、シュムはとりあえず身に付けたのだろう。青いシャツと、赤いズボンの取り合わせは、派手で、ちぐはぐで、ともすれば滑稽だった。
むき出しになったシュムの二の腕や太ももは、みみず腫れや、痣で覆われている。たどり着いた真実を前にして、チャイハネは息を吞むしかなかった。
自分の手と、シュムの太ももに血がこびりついていることを、チャイハネは認識する。シュムに掛けるべき言葉が見いだせず、チャイハネは黙ったまま右手を伸ばし、シャワーの栓をひねるしかなかった。ところが、蛇口は固く、管の向こう側で水の唸る音は聞こえてくるものの、肝心の水が出てこない。
栓を両手で捻るために、チャイハネはシュムから左手を離そうとする。しかし、シュムは手を固く握り締めていた。無理に手を振りほどくことも気が引けたため、チャイハネは仕方なく、片手で悪戦苦闘する。
力んだ弾みで、チャイハネはふと、正面の鏡に映る自分自身と目が合う。鏡に映った自分の表情は、見るからに不機嫌そうだった。
「ハハハ」
照れ隠しのために、チャイハネはシュムに声を掛ける。
「ひどい顏だよ」
「――って、言ってました」
消え入りそうなほどに小さな声で、シュムが言う。
「え?」
「『この子、生理だから』って。ここに入場するときに」
血に汚れた、異様な二人の少女を前に、窓口の係員は神妙な表情をしていたのだろう。それで、取って付けたように、チャイハネはそう言い訳したのだろう。しかし、チャイハネは全く思い出すことができなかった。
どう反応して良いか分からず、唖然としていたチャイハネの頭上に、水が滴り落ちてきた。何かの弾みで、シャワーの栓が開いたようだった。チャイハネも、シュムも、まだ服を着たままだった。
「シャワー浴びようよ」
身体をよじって水をかわすと、チャイハネは言った。シュムは黙りこくったまま、チャイハネから手を離す。その隙に、チャイハネはシャツとズボンを脱ぎ、眼鏡を外す。
裸になったチャイハネの側で、シュムは立ち尽くしたままだった。ノズルからほとばしった水が、シャツを濡らしているというのに、シュムは水を避ける素振りも、服を脱ぐ素振りも見せなかった。
「シュム!」
仕方なくチャイハネは、シュムの着るシャツを手で掴む。脇腹の辺りに指を入れると、シュムの腕を持ち上げ、チャイハネは片一方ずつ、袖から脱がしていく。シュムのシャツを完全に持ち上げたとき、チャイハネは、シュムが下着を身に着けていないことに気付いた。手近にあった服で間に合わせたために、下着のことまで、考えが回らなかったのだろう。
シュムのシャツが捲られ、乳房がチャイハネの前にあらわになる。チャイハネは、奇妙な感覚を味わっていた。これまでチャイハネは、長袖の制服に身を包んだ姿しか、シュムのことを知らなかった。今、チャイハネはシュムの服を脱がして、その肌を晒そうとしている。シュムの秘密を、みずからが強引に明らかにしているようで、チャイハネは後ろめたい感情を覚えるとともに、心のどこかで興奮していた。
シュムの腰に手を回すと、チャイハネはズボンを脱がせる。チャイハネの眼前に、シュムの肢体と、褐色の肌があらわになる。初めから真裸でいたときと、服を脱がせて真裸にすることとは、チャイハネにとってはまるで違うことだった。
みずからの鼓動の早まりに戸惑いながらも、チャイハネは、シュムを近くに引き寄せる。シュムは、頭から水を被る。シュムの身体にこびりついていた血の痕は、澱のようになって、排水口へと吸い込まれていく。
「その刺青……」
シャワーから放たれる水を、ぼんやりと眺めていたチャイハネの耳に、不意にシュムの言葉が届いた。
「え?」
「刺青」
あァ、と生返事をしてから、チャイハネは、腕に彫られた青い花の刺青を眺める。
「見せなかったっけ?」
チャイハネの問いかけに、シュムは頷いた。
「そっか。地元の風習なんだ。ウチの母親も彫ってたよ。年頃の娘はみんな彫る。親父には反対されたけどさ」
おどけてみせようとしたチャイハネだったが、目に涙を浮かべているシュムを見て、はっとする。家族の話は、今のシュムをいたずらに傷つけるばかりだということに、チャイハネは気付いた。
「ごめん。悪かった」
「訊かないんですか?」
涙をぬぐいながら、シュムが尋ねる。
「何を?」
「私の……家族のこと……」
「話してよ」
すすり泣くシュムに、チャイハネは言った。
「話して。何もかも」
◇◇◇
チャイハネの見立てどおり、シュムの家系は、この近辺の土地所有者の家系だった。しかしながら、近年の開発の波に乗ることができず、シュムの父親の代の頃には、すっかり零落してしまったのだという。
シュムの父親は、状況を挽回しようと、所有していた土地を担保にして投資に乗り出した。しかし、これもことごとく失敗し、土地は差し押さえられ、その最中に母親は病に倒れ、亡くなった。シュムへの虐待が始まったのは、その頃からだという。
「お酒が――お父さんを変えてしまいました」
居間に転がっていた大量の酒瓶と、机に積まれた請求書とを、チャイハネも思い出す。空になった酒瓶を片付けてくれるはずの使用人は、暇を出され、全員出て行ってしまったのだろう。チャイハネの中で、記憶の断片がより合わさっていく。
“お父さん”――シュムの言葉を、チャイハネは心の中でくりかえす。自分の父親を「お父さん」と呼ぶ機会は、チャイハネにはなかった。“父親”なる者の存在は、チャイハネにとっては常に遠く、無機的で、冷たかった。その事情は、シュムとは異なる。
「好きだったんだね? お父さんのこと」
「お父さんは死んだんです……」
首を振りながら、絞り出すようにして、シュムは言った。
「あの日から……お母さんが死んだ日に……お父さんも一緒に……」
シュムの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
初めてシュムとあった日のことを、チャイハネは思い出す。市内でも有名な私立の進学校の制服を身にまとい、澄ました顔をして勉強するシュムを、チャイハネは羨ましいと思った。
しかし、実際はどうだったか。シュムは勉強がからっきしだったし、家庭の問題を抱えていた。母親は死に、父親も事実上死んでいた。シュムの境遇は、まるっきり自分の境遇と同じように、チャイハネには感じられた。それどころか、家から逃げ出すことのできた自分の方が、もしかしたらシュムよりも、よほど幸せなのかもしれないと、チャイハネは考えるようになった。
「戻れない」
肩を震わせて、シュムは泣いている。
「戻れないよ……」
身を震わせて泣くシュムを見ているうちに、チャイハネの心の中に、これまでとは全く違った感情が芽生え始めていた。それは、シュムのことを憐れむ気持ちでもなければ、安易に共感し、悲しみを分かち合おうとする気持ちでもなかった。
手を伸ばすと、シュムの肩に手を掛け、チャイハネはその身体を抱き寄せる。スポーツが得意なシュムは、チャイハネよりもたくましい体つきだったが、その肩に手を掛けたとき、シュムが弱々しい存在であるかのように、チャイハネには感じられた。
「チャイ?」
「よく聞いて」
チャイハネは言う。
「逆に考えるんだ。戻らなくていいんだ、って。自由に、どこにでも行くことができる、元の場所に戻らなくていい。お母さんが死んで、お父さんも死んで……それで今日、キミが死んだ」
話すうちに、自分自身の気持ちも固まっていくことに、チャイハネは気付く。それは、シュムに話していることは、自分が家を出たときに考えていたことと、全く同じなのだという確信だった。
自分たちは、前に進むことができる。
「キミをひとりにはしない」
シュムの泣く声が、チャイハネの耳に届く。シャワーの音に紛れ、外から雷鳴と、雨の降る音も聞こえてきた。雨の中で、世界全体が静まり返っている。その静寂の重心で、チャイハネは、シュムと共にいるのだと実感した。
「一緒に暮らそうよ、シュム。あたしと一緒にさ。嫌かい?」
「側にいてください」
チャイハネの言葉に、シュムは思い切り首を振る。
「わたし、わたし……」
「ありがとう。約束するよ、ずっと側にいる」
再び、外から雷鳴が響き、開け放たれていた小窓から、冷たい風がシャワールームへと流れ込んできた。――それが、ワーティヒンド市に降り始めた最初の“黒い雨”だったが、そのことに二人が気付いたのは、ずっと後になってからだった。
「キミをひとりにはしない」
シュムの頬に手を当てると、チャイハネは自分の唇を、シュムの唇に重ねる。
「一緒に生きよう。街を目指すんだ」
チャイハネは何といったか?
「街を目指すんだ――」
シャンタイアクティへ。




