092_ガチャ・ゲーム(Игры гача)
――あの者たちは私に懲罰を加えたが、私が現実に死んだのではなく、見かけにおいてのみ死んだのである。私はかれらによって恥辱を被ることはなかった。なぜなら、かれらは私の一部なのだから。(『大いなるセツ第二の教え』、第18節)
短くなったタバコを、チャイハネは投げ捨てる。塀の下の側溝に、吸い殻は落ちた。
とある家の、クリーム色の塀の前に立ってから、チャイハネはすでに、三本のタバコを吸い潰している。ワーティヒンドの市内でも、この地区は、いわゆる“地元の名士”層が居住する地区だった。シュムの家は、そんな高級住宅街の一画にある。
鉄格子の門の隙間から、チャイハネは向こう側を眺める。庭の先にある建物は、大きくて古い。
シュムに勉強を教えるようになってから、半年の歳月が流れようとしていた。本人の努力にもかかわらず、シュムの成績は低空飛行だった。シュムは、体育以外はからっきしダメで、基礎的な単元ができていなかった。このためチャイハネは、古典の解釈の前に文法を、極限の概念を教える前に微分を、改めて教え直さなければならなかった。
これまでのどの生徒、どの案件よりも、シュムを教えることは、チャイハネにとって難題だった。にもかかわらず、シュムに教えることには、チャイハネにとっては楽しかった。それは、シュムが素直に勉強に励んでいたためでもあったが、それ以上の何か、うまく言葉にできない何かが、自分たちの関係性にあるということを、チャイハネは感じ取っていた。
今日は、中間考査が返却される日である。言い換えれば、シュムの運命が決まる日でもあった。いくつかの科目が赤点を免れ得ないことを、チャイハネは理解している。それでも、被害は最小限に抑えられている必要がある。想定以上に赤点の科目が多ければ、シュムは追試を乗り越えられずに落第、留年の憂き目に遭うだろう。
しかし、予定の時刻になっても、シュムは図書館に来なかった。――これが今、チャイハネがシュムの家の前に立っている理由である。もっともチャイハネは、これまでにシュムから、家の住所を聞いたことはなかった。にもかかわらず、チャイハネがこうして、シュムの家にたどり着けたのは、シュムの鞄からはみ出したバスの定期券を、チャイハネは見たことがあるためだった。
最寄りのバス停の情報と、他愛もないシュムとのおしゃべり――「二階の自分の部屋から、塀の側に立つ棕櫚の樹が見える」とか、「以前は西日が眩しかったが、道を挟んだ向かいに、最近建物ができたので、それが解消された」とか――から、チャイハネはバス停の周辺を少し歩いただけで、シュムの家をすぐに特定できた。
どうしてシュムは、図書館に来ないのか。チャイハネは自問する。思いがけず成績が良くて、チャイハネに頼る必要が無くなったから? しかし、シュムの成績が良くなる可能性よりも、無作為に海から引き上げた鯨が、陸上生活に適合する可能性の方が、まだ望みがある。成績が悪すぎて、ショックで家から出られないとしたら? それもあり得るだろう。
だがチャイハネには、もうひとつ考えられることがあった。それは、考えられる限りで最も怖ろしいことだった。しかしチャイハネは、一度考え出すともう、その可能性を頭から振り払うことができなくなってしまった。
シュムは家から出たがっている。しかし、家族がそれを許さない。
シュムは、家族に虐待されている。
唾を呑み込む音が、チャイハネ自身の耳に大きく響く。昨日までの酷暑は止み、市中は雲に覆われ、涼しいくらいだった。それでもチャイハネは、汗が止まらなかった。
シュムは、家族から虐待されているのではないか。――チャイハネが、そのような疑念にたどり着いたのは、三か月ほど前になる。どれほど暑い日であっても、シュムが必ず長袖を着ていたのが、そのきっかけだった。
悪いとは思いながら、シュムとのお喋りの中で、チャイハネはたびたび、「ほら、キミだってお母さんと刺繡を縫ったりとか――」や、「この時代のお父さんの仕事は一般的に――」のように、わざと“お父さん”や“お母さん”の語を入れながら話をした。それで分かったのは、シュムの母親は三年前に他界しており、家にいるのはシュムと、父親だけということだった。
それからチャイハネは、シュムと会うたびに、彼女の体に外傷がないか観察するようになった。だが、チャイハネの見るかぎりでは、わずかな傷も確認できない。チャイハネが図書館で読む本は、いつしか医療に関する本よりも、児童保護や虐待に関する本の方が、多くなっていった。
そこでチャイハネは、新たな知識を得た。親は、虐待の発覚を怖れる。したがって、顔や手といった、人目に触れる箇所を傷つけたりはしない。しかし、虐待の発覚を怖れるのは、子供も同じなのだ。したがって、身体に傷を負った場合、被服によって、その部位を周囲から分からないようにしてしまう――。
人の家庭に深入りするつもりは、チャイハネにはなかった。しかし、「お父さんが」と話すたびに、長袖の裾を親指で押さえるシュムの様子を見るうちに、堪えられなくなっているのは自分の方だということに、チャイハネは気付いた。
だから、チャイハネは、こうしてシュムの家の前に立っている。これは、チャイハネにとっても賭けだった。シュムが虐待されていることに関する、目に見える証拠はない。全てが、チャイハネ自身の激しすぎる思い込みという可能性もある。そうであれば、今からチャイハネが行おうとしていることは、不法侵入以外の何ものでもない。
「最低だよ」
チャイハネの後ろから声がした。心臓を鷲掴みにされたようになって、チャイハネは後ろを振り向く。どこかの学校の制服を着た、二人組の少年がいた。二人とも、手には丸い形をした、プラスチック製のカプセルを持っている。
「ハハハ――」
げんなりした表情のひとりを見ながら、もうひとりの少年が笑う。二人の持つカプセルは、ガチャガチャの景品のようだった。
「やるじゃん! お笑いのセンスがあるよ! 昨日と同じものを引くなんて。あんなに種類があるのに」
「どうせ欲しいものは、出回っちゃいないのさ」
つまらなそうに言うと、少年は景品を、地面に叩きつける。金属の乾いた音とともに、景品は地面を転がって、側溝に吸い込まれていった。結局チャイハネは、少年の引き当てた景品が何か、分からずじまいだった。
少年たちが去るのを確かめると、チャイハネは覚悟を決め、門を押した。覚悟とは裏腹に、門はあっけなく開いた。
◇◇◇
庭の下草は生え放題で、地面の落ちくぼんだ場所には、錆びた空き缶が転がっている。
虫を払いのけながら、チャイハネは建物まで近づく。一階の窓が開いているのを確かめると、チャイハネはそこから家の中に入る。たどり着いた先は、台所だった。整頓は行き届いていたが、生活感がない。
テーブルに、チャイハネは人差し指の腹を這わせる。埃がびっしりと、指に付着した。使われているのは冷蔵庫と、流しだけのようだった。
自分の鼻息が妙に耳につき、チャイハネは顔を上げる。家は、嵐の前のように静まり返っている。これほどの邸宅ならば、使用人の一人や二人くらい、いてもおかしくはない。にもかかわらず、チャイハネは、この邸宅には使用人がいないであろうことを、確信できるほどだった。
となると、チャイハネがやるべきことはひとつだけである。シュムの父親と鉢合わせないようにしながら、シュム本人に会うことである。
――二階の部屋から、棕櫚の樹が見えるんです。塀の側に立っていて……。
シュムの話を、チャイハネは思い出す。台所に通じる窓へ向かう途中、チャイハネはそれらしき棕櫚の木々を見た。シュムの部屋がどこにあるのか、見当はつく。
チャイハネは廊下に出る。その途端、大勢の笑い声が聞こえてきた。一瞬身を固くしたチャイハネだったが、すぐにそれが、居間から聞こえてきたラジオ放送と分かった。
抜き足で、チャイハネは居間の脇を通る。居間には誰もいない。灰皿には大量のタバコの吸い殻が捨ててあり、酒の瓶が床に転がっていた。掃除をする者はいないのだろう。タバコの脂と、飲み残されて乾いた酒の臭いで、チャイハネは息が詰まりそうだった。
〈ニュースをお知らせします。本日、チカラアリの新市街、キオウの大聖堂におきまして、先日に崩御したチカラアリの巫皇である――〉
すりガラスのはめられたテーブルに、チャイハネは視線を落とす。酒でべたついた一連の書類は、全て請求書のようだった。差出人は、銀行、不動産事業者など、様々だった。「抵当」や「払出」、「償還期限」といった単語が、用紙に踊っている。
そのとき、チャイハネの頭上から、大きな音が響いてきた。初めはガラスの割れる音で、次に聞こえた音は、大きなものが床に叩きつけられる音だった。音が聞こえなくなった後も、チャイハネはその場で、しばらく身を固くしていた。それからチャイハネは、天井を見つめながら、階段へ向かった。
音は、居間の真上から聞こえてきた。見立てが正しければ、シュムの部屋はそこにある。父親の姿は、一階では確認できていない。考えられることは、それほど多くない。
シュムがいるであろう部屋の前まで来ると、チャイハネは息を整え、扉に耳を当てる。扉の向こう側は、静まり返っていた。
ドアノブを回すと、チャイハネは部屋に入る。チャイハネは見た。部屋の中央には、シュムが立ちすくんでいた。シュムは真裸で、乳房から腹部、足のつけ根の辺りは、血で染まっていた。右手には、割れた酒瓶が握り締められており、瓶の破片が、部屋に散乱していた。
床の中央に、チャイハネの目は釘付けになる。一人の男性が、頭から血を流して倒れていた。シュムの姿と、横たわっている男性の姿を見たのは、一瞬の間だったが、それでもチャイハネは、永遠の時間が流れているかのような、そんな気分を味わった。
「チャイ……?!」
シュムは言った。声が震えていた。
「シュム」
シュムの全身を、チャイハネは見つめる。シュムの身体に付いた血は、返り血で、シュム自身が怪我をしているわけではないようだった。応急処置が必要なのは、床にのびてしまっている男性の方である。
「手ェ貸して」
部屋にあったシーツを奪い取ると、チャイハネは男性の真横に膝立ちになる。頭の傷口にシーツを押し当て、チャイハネは止血を試みる。
「シュム、救急車を――」
「い、嫌です……」
そう言うと、シュムは酒瓶を取り落とす。足のつけ根にこびりついていたはずの血が、シュムの足下まで流れ落ちる。シュムは失禁していた。
「嫌……」
「分かったよ」
血が止まったのを確かめると、チャイハネは男性の身体を横にする。
「大人しくしてるんだよ――」
扉を開け放つと、チャイハネは一階まで降りる。居間に着くと、酒の空き瓶をかき分け、フックに掛かった受話器を取る。
「もしもし――病院につないでください――はい――もしもし? ――救急車を寄越して欲しくて――住所は――」
机に打ち捨ててあった請求書から、チャイハネは住所を知った。
「中年の男性です。頭部に外傷があって――止血は行いました。意識はないです――回復体位は取っています。はい、はい――よろしくお願いします」
受話器を戻すと、チャイハネは溜息をつく。ここから病院まで、距離は遠くない。まもなく、救急車は来るだろう。血の量はおびただしかったが、チャイハネの見る限りでは、静脈血だった。もともと頭部は、血管が集中している。幼児や老人でもない限り、失血死の可能性は低い。
できることはやった。チャイハネは満足だった。倒れていた男性は、シュムの父親だろう。何が起きたのかは、シュムから聞かなければならない。ただ、それは別として、自分の学んだことで、誰かを助けることができた。子供じみた話だったが、チャイハネにはそれが、素直に嬉しかった。
手についた血を落としながら、チャイハネは二階へ戻る。
「シュム――」
「し、死ね……!」
部屋の中央では、シュムが裸のまま、男性に馬乗りになっていた。シュムは腕を伸ばし、ぐったりしている男性の喉を、力任せに締め上げていた。




