091_アドバイス(Стрела, которая никогда не летит)
「どうしてここに?」
そう問われ、クニカは立ち止まる。
即位灌頂の儀式は終わった。フランチェスカは、名実ともにチカラアリの巫皇となった。巫皇たちは今、“四天女の間”で、作戦会議を行っている。サリシュ=キントゥス帝国の軍勢を、シャンタイアクティの街で、いかにして迎え撃つかが、会議の議題だった。
「忌憚のない意見を徴したい」
というペルガーリアの意向のために、会議に使徒騎士たちは呼ばれなかった。クニカも呼ばれなかった。
クニカは今、“歳星の間”から離れたところ、中庭を通り抜けた先にいた。回廊を歩いた先には、打ち捨てられた城壁がある。城壁の隅には、木製の小屋があった。告解室だった。
告解室から声を掛けたのは、シノンだった。告解室に窓はない。クニカの姿を見て、シノンは声を掛けたわけではないようだった。にもかかわらず、シノンはクニカに気付き、驚いている。使徒騎士の“直感”だろう。
「どうしてここに?」、シノンの言葉に他意がないことは分かっていたが、それでもクニカは、責められているような気がした。
「その、回廊を渡ってみて……」
背後の回廊を、クニカは振り返ってみる。
「向こう側に何があるんだろう、って。ハハハ」
――嘘をついてるな?
――使徒騎士相手に嘘をつくとは、ずいぶんな度胸だ
かつてミカイアから言われた言葉が、クニカの脳裏をよぎる。
ミカイアと同じく、シノンも自分のごまかしを、簡単に見透かしてしまうだろう。そしてシノンは、クニカのごまかしを怒ったり、咎めたりはしないだろう。その代わりに、シノンはクニカをたしなめたり、諭したりするだろう。なぜかクニカには、これらのことが分かった。怒られることよりも、咎められることよりも、たしなめられたり、諭されたりすること方が、今の自分には堪えられないように、クニカには思えた。
「ごめんなさい、嘘です」
「では、どうして?」
実際にシノンが尋ねてくるまでには、間があった。その間クニカは、中庭の草木の合間から聞こえてくる、虫の音を聞いていた。
「読んだんです、キーラの心を」
クニカは答える。
「キーラ、ずっと動揺していて。だれかに相談したがっているようでした。心を覗いたとき、わたしの頭の中に、ここが浮かんだんです」
「キーラが?」
シノンが腕を組む様子が、クニカには分かった。
「イリヤのことで、キーラは悩んでいました」
「あの子は優しい。優しい分、心を欠くときがある」
イリヤが、使徒騎士になれなかったこと。頭の中で、それをどう整理したらいいかで、キーラは悩んでいた。クニカは一瞬、そこまで言ってしまおうかと思ったが、結局はしなかった。
「優しい子なんだと思います。ちゃんと話をしたことはないけれど」
告解室から、クニカは目線を反らす。人の悩みを第三者に話すのは、告げ口をしているようで、クニカは気分が悪かった。
「キーラの悩みは、本人から直接聞きましょう」
シノンは続ける。
「クニカ、本来ならば、私があなたから教えを乞うべきだと思います」
「どうして?」
「あなたが救世者だからです」
シノンの問いも、シノンの答えも、クニカが予期したものだった。にもかかわらず、クニカは、落ち着かない気分になった。身体の正面で所在なく手を組んでから、クニカは、そのようにしている自分が情けなくなった。
それでも、相談させてほしい。そう言おうとした矢先、クニカの記憶に、この世界に転生する前の出来事が蘇ってきた。高校の授業で習った、洗礼者ヨハネの説話だった。
「洗礼者ヨハネの話を知っていますか?」
「洗礼者?」
シノンには、耳慣れない言葉のようだった。
クニカの世界で正典とされているものは、この世界では異典とされている。反対に、クニカの世界で異典とされているものが、この世界では正典とされている。洗礼者ヨハネの説話は、こちらの世界では異典のようだった。
「寡聞にして知りません。遺憾ですが」
「キリスト――大いなるセツに、洗礼を施した人の名前です」
「奇妙ですね?」
シノンが訊く。「自分の知らない教説は、異説である。したがって、話はしない」と、話すことそのものを断られてしまうのではと考えていたクニカは、シノンが説話の実質に関心を示したことに、ホッとしていた。
「大いなるセツは、一者、すなわちみずから生まれた者です。地上の洗礼を受けずとも、一人で立ち、世を救済することができるはず」
「『私が、あなたから洗礼を受けるべきなのに』と、ヨハネも言いました。たぶん」
記憶を思い起こしながら、クニカは話す。
「それでキリストは、『今は止めないでほしい。正しいことを全て行うことが必要だ』と、そう言ったそうです。それで、ええと、わたしが何を言いたかったかというと――」
「洗礼者から洗礼を受けずとも、セツは大いなる者であり続けたでしょう。なぜなら一者であるということが、セツの本質のためです」
シノンが言った。シノンの口調はゆっくりしていて、クニカの説明を、頭の中で反芻しているようだった。
「にもかかわらず、セツは洗礼者から洗礼を受けることを、正しいとした。それは、洗礼を与えられることを通じて、洗礼を与える者、この場合においては洗礼者ヨハネのことを、みずからと同様に高貴なものとした――うん。そういうことか」
「ええっと……」
「『我は真の声なり。而して我は万物の裡にて呼ばるるものなり。彼ら声を知れり』、『三体のプローテンノイア』の第二章です。霊は万物の内側にあって、見ることも、計測することもできない。しかし、『万物の内側にある』というその遍在性のために、我々の裡にある霊に呼応する。すなわち、霊は万物の内側にあって、呼びかけられることを通じて、呼びかけるものを聖別している……と考えることができる」
滔々とシノンが語る間、告解室の内側では、指を鳴らす音が連続して聞こえてきた。何か考えごとをするとき、シノンは指を鳴らす癖があるようだった。
「だから、本来であれば教えを説く者であるはずの救世者が、逆に私に相談することで、救世者と相談者とは、共に高貴なものとなる。そういうことですね?」
「そう、そうです」
「だとすれば、ありがたいことです。入ってください」
告解室の扉が、ひとりでに開いた。
履物を脱いで、クニカは告解室に入る。籐製の椅子が、ひとつ置かれていた。壁もまた、その一部が籐でできている。声を通すための仕掛けだろう。向こう側には、シノンが座っているようだった。
籐製の椅子に、クニカは腰かける。
「聞きましょう、クニカ」
シノンの声に呼応して、壁がふるえた。
「ここを知ったとき」
クニカは語り始める。
「わたしは、イリヤの姿を、キーラの心に見ました。そのとき、初めて知ったんですけれど、イリヤって、普段はダメな子みたいですね?」
「“みたい”というより、“そのもの”です」
シノンが鼻を鳴らす。
「星誕殿に入る前、何度夏休みの宿題を手伝わされたことか。最後の一日になって、泣きながら皆にすがるんです。人たらしですよ」
シノンの手厳しさに、クニカは吹き出しそうになる。
「だけど、わたしは同時に、イリヤの勇敢な姿も、キーラの心に見ました。普段はドジで、ダメ人間かもしれないけれど、いざというとき、ここぞというときは、絶対に筋を通す。だから、イリヤの周囲の人たちは、イリヤを慕っているんだと思います」
「ええ、そうです」
シノンは言った。
「それは間違いない」
「そのとき、わたしは思ったんです。イリヤは、わたしが持っていないものを――勇気を持っているんだ、って。使徒騎士の座に就くことで、わたしは覚悟を決めようと思ったんですけれど……結局、心が揺らいでしまって……」
シノンは秘密を守るだろう。そう分かっていても、クニカは、あけすけに告白することが恥ずかしかった。
「だれかを救おうとするより前に、だれかに救われたいって、そう思ってしまう。だから、教えてほしいんです。どうすればわたしは、勇気を持てますか?」
いつしかクニカは、告解室の壁に、無意識のうちに手を当てていた。
クニカは使徒騎士になった。もう後戻りはできない。覚悟はできていたつもりだった。しかしイリヤを見るうちに、クニカは、自分よりもイリヤの方が、使徒騎士に相応しいのではと思えてならなくなった。
イリヤを差し置いて、自分がその地位にいることが、星誕殿の人々にとって、この世界の人々にとって、本当に良いことなのか。救世者としての役割を引き受けて、人々を導くことが、本当にできるのか。
「教えてほしいんです。お願いします」
「クニカ、あなたは苦しんでいますか?」
「はい」
「生きるということは……苦しみの連続だと思います」
シノンは続ける。
「苦しみや悲しみ、怒りや憎しみ――この世に生を享けた者が、必ず通過しなければならない感情の一部です。ただ、感情はそれ自体根拠を持ちません。感情が発生するところ、必ず煩悩が、平たく言えば、欲がある」
煩悩。星誕殿にやって来てから、クニカは騎士たちが、何度もその言葉を口にするのを聞いている。
「欲から逃れるための手段は、究極的には死になってしまうでしょう。ですが、『欲から逃れたい』と考えることさえ、それ自体が欲と言える。こう考えると、本当に大切なのは、欲から逃れようとするのではなく、欲を受け入れることにある」
「欲を受け入れる?」
「欲望している自分を、まずは自覚すること。欲するものが、本当に手に入れられるかどうかは別として」
シノンは話を続ける。
「クニカ、あなたは『どうすれば勇気を持てるか』と、私に尋ねた。勇気を持ちたいというのが、あなたの欲であり、苦しみの源です。勇気を欲する自分自身のことを、クニカ、まずはいたわってあげてください。他人に与えるべき思いやり、気配りを、まずは自分に与えるべきときです」
わたしは勇気を欲しがっている――心の中で、クニカはそう唱えた。ちょうどフランチェスカが、「クニカとフランチェスカは友達である」と、手ごろな命題を口ずさんだのと同じように。
クニカは、勇気を欲しがっている――“わたし”を“クニカ”に換え、クニカはもう一度唱えてみる。勇気を欲する自分の姿が、ずっと卑近になり、その代わりに、自分自身の関心事から遠ざかっていくような感覚を、クニカは覚えた。フランチェスカが知らず知らずのうちに実践していて、シノンが伝えようとしていることは、このことなのだと、クニカは漠然と感じ取る。
それでも、心の別の方向から、もうひとつの声が届くのを、クニカは感じていた。勇気を欲望する自分を客観視できたとして、落ち着きを取り戻せたとして、迫り来る脅威を、ニフリートを、あの“青白い光”を、止めることはできないのではないか――声はそう囁いてくる。
本当に欲しいものは、シノンが言うような教えではなかった。こう考えたとき、クニカはまた何かを欲望してしまっている。では、改めてシノンの教えを受け入れて、本当に欲しいものを欲しがっている自分を、受け入れてみれば良いのだろうか? それはきっと、無限の退行をクニカに強いるだろう。
無限の退行を繰り返すうちに、いつか本当に欲しいものを手に入れるときが到来するのだろうか?
悩み抜くクニカを見て、通りすがった誰かが、親切にも答えを教えてくれたりするのだろうか?
それを知ったとき、クニカは?
自分は――幸せなのだろうか?
クニカは、わけが分からなくなりそうだった。
「少しは……前に進めそうですか?」
「ええ」
そう言いながらも、クニカは上の空だった。それでも、もし教えに納得できない素振りを見せたら、シノンを失望させてしまうだろうという気持ちが、クニカの心にはあった。
「ありがとうございます。もう少し、自分の中で考えてみたいと思います」
そう告げると、クニカは告解室を抜け出て、回廊を戻っていった。




