090_一者(Я не могу себя выносить.)
――生命の霊がその上に到来する者たちは、あの力と結びつけられたのであるから、救われ、完全な者たちとなるであろう。(『ヨハネのアポクリュフォン』、第70節)
オリガに手を引かれ、フランチェスカは“一者の間”を進む。足首が、脛が、膝が、水に浸されていく。水は透明で、冷たかった。
オリガが手を離す。目の前には、ジイクとアアリの姉妹が立っている。アアリが手を伸ばし、フランチェスカの着る白い衣を取り去った。みすからの肢体が露わになり、フランチェスカは羞恥心を覚える。オリガ、ジイクそしてアアリが、裸で平然としていられることが、フランチェスカには奇妙なことに思えた。
アアリと入れ替わりに、ジイクが進み出る。ジイクはその手に、銀製の大きな盃を抱えていた。盃の中の、白く濁った液体を口に含むと、ジイクは霧のようにして、それをフランチェスカに噴きつける。周囲に漂う甘い匂いを、フランチェスカは嗅ぐ。酒の匂いだった。
フランチェスカの全身が酒に濡れたのを認めると、更に奥まで進むよう、ジイクはフランチェスカを促す。
奥には、最後のひとり――シャンタイアクティの巫皇・ペルガーリアが立っていた。
ペルガーリアのところまで、フランチェスカは歩きだす。腿まで水に浸かっていたが、それ以上深くはならないようだった。
フランチェスカが近づくと、ペルガーリアは更に奥まで進む。ペルガーリアも真裸で、緑の黒髪に背中は隠れていたが、髪の合間から見える白い背中は、墨色の刺青に覆われていた。
儀式の間、フランチェスカは喋らなかった。それが儀式の慣わしであったが、喋らなくて済む分、心は鋭敏になった。ミカイアの死と、ニフリートの復活が、フランチェスカの心に去来する。ペルガーリアは、ニフリートを怖れている。その怖れは、フランチェスカにも分かる。
では、「万全を期すため」を理由として、見殺しにされてしまったミカイアはどうなる? フランチェスカの考えは、どうしてもそことにたどり着いた。自分がもしペルガーリアと同じ立場だったとして、同じ決断をするだろうか? これから自分も、ペルガーリアに見殺しにされるのだろうか? そのときが来たら、自分にも分かるのだろうか? しかし分かるとして、何を? 見殺しにされたミカイアの気持ち? それとも、見捨てたペルガーリアの気持ち――?
「生きている間に、人は多くを忘れる」
そのとき、ペルガーリアがおもむろに口を開いた。ペルガーリアの低い声は、“一者の間”の静けさの裡に、染み入っていくかのようだった。
フランチェスカは逡巡する。何かを答えるべきなのかもしれない。しかし口を開くことは、典礼担当のルフィナから禁じられている。
「昔に、恩人から言われた。だけど、忘れるのと同じくらい、人は多くを失うのかもしれない。そんなことは、恩人は言っていなかった」
“一者の間”の最奥に、二人はたどり着く。突き当りには石壁がそびえているだけで、ほかには何もない。
「本当はさ」
壁の頂点を見上げていたフランチェスカに対し、ペルガーリアが言う。肩を小刻みに震わせ、ペルガーリアは笑っていた。
「儀式で口を開くのはマナー違反さ。ルフィナに叱られる。オレとお前以外、誰も聞いちゃいないけれど」
フランチェスカに向かって、ペルガーリアは手を差し伸べる。フランチェスカはおずおずと、その手を取った。
「ひとつ聞かせてくれ、フラン」
ペルガーリアは言った。
「お前、オレが嫌いだろ?」
ペルガーリアの言葉に、フランチェスカは顔を伏せる。怒りの感情はすばやく、静かにやって来て、しかし避けることはできなかった。「いいえ」と言えば、自分の気持ちに嘘をついたことになる。フランチェスカには我慢できないことだった。しかし「はい」と答えてしまえば、ペルガーリアに自分の気持ちを言い当てられたような気持ちになり、これも我慢できなかった。
となると、フランチェスカに残された道は、答えないことだけだった。そして、「答えない」という態度が、ペルガーリアに対してひとつの答えを示してしまうために、フランチェスカはそれが腹立たしかった。
「ハハハ、そうだよな」
鼻を鳴らすフランチェスカに対して、ペルガーリアが笑う。
「最近オレも、自分が堪えられない」
自分が堪えられない――その言葉に、フランチェスカは顔を上げる。ペルガーリアの緑の瞳の奥に、どのような心理が宿っているのか、フランチェスカは、それを確かめたいと思った。
どういう意味ですか――思わずそう尋ねようとしたフランチェスカだったが、それはできなかった。フランチェスカの手を握りしめたまま、正面に広がる水辺へと、ペルガーリアが身を投じたためである。
フランチェスカは、声を上げる。“一者の間”は薄暗く、足元は見渡せない。そのためフランチェスカは気付かなかったが、ペルガーリアが踏み出した先は、断崖のように切り立っていて、水深が深かったのだ。
水面に顔を出そうと、フランチェスカは脚をばたつかせる。しかしペルガーリアは、フランチェスカの手を離さない。それどころか、ペルガーリアはフランチェスカを、水の底まで引っ張っていこうとする。
水の中で目を見開いたフランチェスカは、目の前に広がる闇に怯んだ。足がつかないほどの深みが、フランチェスカを待ち受けている。
しかしそれと同時に、ペルガーリアが自分にまなざしを送っていることにも、フランチェスカは気付いていた。澄み渡った水の中で、ペルガーリアのまなざしは、地上と変わらず鋭かった。
奥へ潜るんだ――。ペルガーリアの瞳は、はっきりと、フランチェスカにそう呼びかけていた。これが儀式なのだと、そして、これこそが本当の儀式なのだと、フランチェスカも理解する。
誘われるようにして、フランチェスカは深みへ潜る。水圧が全身を締めあげ、耳鳴りがフランチェスカを襲う。
これ以上は進めない、もうダメだ。フランチェスカがそう思った矢先、突然、フランチェスカの正面から、まばゆい光が漏れ始めた。
驚いたフランチェスカは、息を吐き出してしまう。しかしフランチェスカは、地上にいるときと同じように、自分が呼吸できるということに気付いた。耳鳴りも、水圧も止み、まるで空中を漂っているかのようだった。
光の中心に、フランチェスカは手を伸ばす。フランチェスカの指先が、光の“源”に触れる。
そのとき。――ペルガーリアの姿は、既に見えなかった。その代わりに、光の周縁に立ち現れたのは、様々な生命の姿だった。無数の人々が、フランチェスカの眼前に現れては消え、傍らを通り過ぎていく。すべては同時に存在するかのようであり、すべては生成され、すべては流転していく。
フランチェスカは魚の顔を見た。魚はフランチェスカに向かって口を開き、世の苦しみを前にして、息ができない、と訴えていた。
フランチェスカは嬰児の顔を見た。顔を真っ赤にして、嬰児は泣いていた。皺だらけの顔の裡に、嬰児が生きる生と、嬰児が死ぬ死の輪郭が映りこむのを、フランチェスカは見て取った。みずからの生を生きることにおいて嬰児は泣いており、みずからの死を死ぬことにおいて嬰児は泣いている。それがフランチェスカにはわかった。
人殺しの歪んだ顔を見た。彼が他人の身に匕首を突き立てるさまを見た。この者は縄に縛られて跪き、その首が大鉈の前に斬り落とされるさまを見た。
裸でもつれ合う男女の群れを見た、静かに身を横たえている、冷たくなった獣の死骸を見た――そして、それらすべての相が、互いに混じり合い、互いに離れ、互いを憎しみ、互いを愛しているのを、フランチェスカは見た。それらはすべて無常を告げていたが、しかし何ひとつ、本当には死にはしなかった。
死は複製され得ない。ただ見ることができるばかりである。ちょうど、生がそうであるのと同じように。一切は姿を変え、姿を変えるたび、新たな命を得る。命の諸相を前にして、フランチェスカは、みずからの命もまた、その諸相に連なるものであるということを覚知した。時が存在するのかを知らず、この覚知が須臾のものであったのか、千年のものであったのかを知らず、みずからの何者であるかを知らず、自己の内奥を光によって射抜かれ、ただフランチェスカは、その光に全身を包まれていた。
光が収まる。自分の身体が“一者の間”の水槽に投げ出されていることに、フランチェスカは気付く。耳鳴りと、水圧とが、フランチェスカを再び襲う。
手足でもがき、フランチェスカは水面まで向かう。ペルガーリアの姿はない。しかし、今はひとりで戻るべきときだということが、フランチェスカには分かっていた。
「来た、来た!」
水面へと顔を出したフランチェスカに、ペルガーリアの声が掛かる。続いて歓声が上がった。オリガ、ジイク、アアリが、ペルガーリアの後ろで喜んでいる。
そんな四人の様子を、フランチェスカはじっと見つめた。“一者の間”も、四人のことも、四人の喜びも、フランチェスカには、世界の何もかもが真新しいことのように思えた。
「新チカラアリ巫皇、フランチェスカ・トレ=チカラアリ臺下、万歳!」
「良かった、よくやったよ。お前はよくやった」
使徒騎士たちの歓声と、耳元でささやかれるペルガーリアの声を聞きながら、フランチェスカは、自分が新しく生まれたのだということ、巫皇として、この世に改めて生を享けたのだということを、遅ればせながら理解した。




