089_即位灌頂(Баптизм)
「全き者、みずからの神性の裡にみずからを見いだしたる者、みずから生まれ出でたる者の前に、我らその覚知を致さんことを願うものなり――」
プヴァエティカの祝詞が、フランチェスカのもとまで響いてくる。
“歳星の間”に通されたフランチェスカは、その中央に誘われ、静かに頭を垂れていた。“歳星の間”は競技場の構造を取っており、中心は一番低く、周縁に向かい、観覧席が取り付けられていた。中心から離れるにつれ、観覧席の位置は高くなっている。
日はすでに暮れている。燭台から投げられた灯火は、ちりばめられた星のように瞬いていたが、すべてを見晴るかすことができるほど、明るいものではない。フランチェスカの視界は、自分の周りと、一段目の観覧席に、自然と限定された。
「我ら昔者の啓示に倣い、茲に、フランチェスカ=オツヴェルの王国に至るを言祝ぎ、その霊に不死の徴を刻むものなり。フランチェスカは、その肉体の雲を離れ、永遠に、永久に、父の御許に憩うものなり。これらのことは、世の礎の据えらるるより先に、大いなる霊により定められたるものなり――」
即位灌頂の儀――。チカラアリの巫皇としての臺位を、フランチェスカが引き継ぐための儀式だ。
通例であれば、ウルトラの臺位も、チカラアリの臺位も、前任者の一存によって、後任者に引き継ぐことができる。今回のような儀式が必要となるのは、後任者の指名が行われないままに、前任者がその任を退いたとき――例えば、不慮の事故によって、前任者が没したときなど――である。
(姉さん――)
前任のチカラアリ巫皇は、フランチェスカの姉だった。ある日突然、何の前触れも、予兆もなく、フランチェスカの姉に死が訪れ、その死は長くはかからなかった。姉の訃報にフランチェスカが接したのは、その死から、ずいぶん経ってからのことだった。
その日まで、フランチェスカは姉と喧嘩をしていた。今となっては、何をめぐって喧嘩をしていたのか、喧嘩をしてまで、何を守りたかったのか、フランチェスカは思い出すことができなかった。
儀式が終わったとき、フランチェスカ=オツヴェルは、姉の役割を引き継ぎ、俗世を離れ、その身は聖別される。――フランチェスカ・トレ=チカラアリとして。
「我ら、フランチェスカの姉妹として、共に倶に憩いし者たらん。而してその諸天の上に属するを見いださん。プヴァエティカ・トレ=ウルトラ」
祝詞が結語を迎える。プヴァエティカは原稿を折りたたみ、フランチェスカに手を差し伸べる。プヴァエティカの手を取って立ち上がると、フランチェスカはその合間に、目玉だけを動かして、周囲の様子を一瞥した。
フランチェスカの視界の範囲、一番手前の観覧席には、使徒騎士たちが座っていた。儀式のために、皆が白衣を着ているからか、室内の薄暗さにもかかわらず、使徒騎士たちの姿は目立った。
事務総長を務めている、使徒騎士“徴税人”のリテーリアは、みずからが座る椅子の脇に準騎士を呼びつけ、何かを囁いている。儀式の動線を指示しているのだろう。
“白鷹”の異名を取る、使徒騎士“熱心党”のシノンは、じっと腕組みをして、フランチェスカの方を見つめていた。生真面目な性分からか、シノンは、儀式の全てをつぶさに観察しようとしているようだった。“鷹”の魔法属性であるシノンの眼光は、射すくめるかのようであり、目が合いそうになったフランチェスカは、反射的にシノンから目線を反らした。
その反対側には、典礼の総括者である、使徒騎士“檮衣者”のルフィナがいた。ルフィナは膝に手を当て、背もたれに背を預けることなく、背筋を伸ばしている。
ルフィナの身に着ける白衣は、ほかの使徒騎士の白衣に比べても、やや分厚く、重ね着をしているように見える。典礼担当の場合は、衣装が異なるのだろう。“歳星の間”の空気は湿気で重たく、蒸し暑いにもかかわらず、ルフィナは涼しい顔をして、まるで意に介していないように、フランチェスカには見えた。
残りの使徒騎士たちを、フランチェスカは探ろうとする。筆頭“双子”の使徒騎士を襲名し、騎士団長を務めるオリガと、“天雷”の使徒騎士を襲名するジイクとアアリの姉妹は、この即位灌頂の儀式において役割があるため、観覧席にはいない。また、もう一人、フィリポを襲名する、ミーシャという名前の使徒騎士がいるらしかったが、他の使徒騎士に比べて年少であるために、この儀式には参列しないと、フランチェスカは聞いていた。
使徒騎士の枠は、このほかに五つある。うち、“覚者”は永久欠番で、“盤台”も原則として欠番、とフランチェスカは聞いていた。残りは、アンデレと、バルトロマイと、タダイである。アンデレを襲名しているニフシェは、今は星誕殿の地下牢に幽閉されている。バルトロマイを襲名していたミカイアは、もう亡くなっている。タダイの地位は、空位になっている。
使徒騎士の称号は、星誕殿の騎士の中でも、特に優れた者にのみ許される称号である。定員は十二人であるが、適任者がいなければ空位になるとの話だった。オリガ、ジイク、アアリ、ニフシェ、シノン、ルフィナ、ミカイア、リテーリア、ミーシャの九名が、ペルガーリア麾下の使徒騎士の体制である。
にもかかわらず、フランチェスカの正面、これからフランチェスカが向かおうとしているところの付近には、もう二人の人物がいた。まだ会っていない使徒騎士がいたのかと、フランチェスカは驚く。
プヴァエティカに促され、フランチェスカは少しずつ、その人物たちの下に近付いていく。
一人目が誰なのかは、フランチェスカもすぐに分かった。大陸の南、ビスマーの巫皇である、エリッサだ。
ビスマーの巫皇は、伝統的に、ほかの法域の巫皇よりも格下として扱われている。この即位灌頂の儀式において、エリッサに役割が与えられていないのも、そのためだろう。
褐色肌のエリッサは、この“歳星の間”の薄暗がりに、その輪郭が溶け込んでしまっていた。そのため、エリッサのつぶらで、大きな緑色の瞳が、不安そうに震えているのが、却って目立った。
もう一人は――。その人物の姿が明らかになって、フランチェスカは目を見開いた。
もう一人は、クニカだった。クニカは、白衣こそ着ていなかったものの、観覧席にいるほかの使徒騎士たちと同じように、紫檀の椅子に座っていた。
クニカの様子が気になり、フランチェスカは我を忘れた。クニカは青ざめていて、心なしか、手が震えているように見えた。それは、堅苦しい儀式の場において緊張しているというよりも、一人で背負うにはあまりにも重すぎる“何か”を前にして、それに圧し潰されかけている、といった様子だった。
フランチェスカの視線に、クニカも気付いたようだった。クニカの唇は、固く引き結ばれたままだった。
プヴァエティカに手を引かれ、フランチェスカは“歳星の間”を通り抜ける。通り抜ける段になって、フランチェスカは、クニカからの反応を、自分が知らず知らずのうちに期待していたのだと気付く。フランチェスカは、振り向きたい衝動に駆られたが、状況がそれを許さなかった。
フランチェスカが向かう先は、“一者の間”と呼ばれている。一者とは、見えざる大いなる霊、測りがたき霊、世界の全てを超越しており、みずから生まれた者、つまりはキリストの父である霊を指す。フランチェスカは、儀式を通じて霊に触れ、みずからの裡に眠る神性を覚知し、諸天に君臨する者として――巫皇として――生まれ変わる。
プヴァエティカの手を、フランチェスカが離した。“一者の間”は、“歳星の間”に比肩しうるほどの大きさと広さを備えている。その広さに見とれていたフランチェスカは、歳星の間と、一者の間との境界に白線が引かれていることに気付いた。そしてプヴァエティカのつま先は、その白線の前でぴたりと止まっていた。
名残惜しい感情を覚え、フランチェスカは、プヴァエティカのつま先を眺める。そのとき、フランチェスカの手が、別の誰かに捕まれる。心が留守になりかけていたフランチェスカは、差し込まれた手の感触にぎょっとする。
顔を上げてみれば、オリガが立っていた。“双子”の使徒騎士であり、騎士団長でもあるオリガは、儀式のために真裸だった。しかし、オリガの全身は色鮮やかな刺青に覆われているために、まるで服を着ているかのようだった。
“一者の間”は、奥に向かって、緩やかな下りになっている。フランチェスカの足は、くるぶしの辺りまでが水に浸っているが、オリガは足首まで水に浸かっていた。
オリガの後方には、ジイクとアアリの姉妹が控えている。二人とも、オリガと同じように真裸で、ツインテールに結わえている髪を降ろしていたために、いつもとは印象が異なった。
またしても振り向きたい衝動に駆られ、しかしフランチェスカは、振り向くべき“どこか”が、今はどこにもないということに気付いた。見知った人々は皆、自分から隔絶されているか、距離がある。
宇宙と天体の存在を、フランチェスカは思い浮かべる。巫皇は大いなる天体にして、恒星である。恒星は他の星々を従え、偉大なものとして屹立し、みずからの重力をみずからに引き受ける。今の自分の感情は、天体の孤独に根差すものなのだとフランチェスカが気付くのに、そう時間はかからなかった。




