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ラヴ・アンダーウェイ(LOVE UИDERW∀Y)  作者: 囘囘靑
第5章:時間と自由(Опыт о непосредственных данных сознания)
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087_誰も悪くはない(Никто за это не отвечает.)

――世界は一つの過誤から生じた。(『フィリポによる福音書』、第99a章)

 フランチェスカの即位灌頂(バプテスマ)の儀式が始まるのを、クニカは部屋で待つことになった。


 網戸越しに、クニカは外を眺める。一階の部屋からは、小さな池が見える。池に咲いた蓮の花を、クニカは見つめる。


 雨は止んでいたが、風は冷たい。星誕殿(サライ)を照らす陽の光は、既に薄紅色に(かげ)り、雲は藤色に染め抜かれている。夜は、まもなくやって来るだろう。


――クニカ様から、祝福の秘跡を賜りたく……。


 イリヤの言葉が、クニカの脳裡によみがえる。祝福をめぐる一連の騒動で、クニカは自分自身につまずいた。友達のためにまっすぐだったイリヤのことが、クニカにはまぶしかった。


 イリヤと目が合いそうになったとき、クニカは反射的に目を反らした。イリヤの澄みわたった、緑色の瞳の奥に、みずからの卑屈な影が映り込むような気がして、クニカは堪えられなかったからだ。


 蓮の花に影がよぎる。一匹の黒い蛾が、池を横切り、どこかへと飛んでいった。


「あのね、リン」


 昔の記憶を、クニカは思い出す。先ほどから、部屋の隅で、リンはナイフを研いでいた。ナイフを研ぐのに集中しているようで、リンは実のところ、自分に関心を向けているのだと、クニカには分かっていた。


「どうした?」

「昔のこと、思い出したんだ。ヤンヴォイの街の、モールでさ」


 クニカは話し続ける。


「あの日の夜ね、わたし、夢を見たんだ。ソファに座っていて、わたしはテレビの天気予報を見てた」

「テレビ?」


 クニカの言葉を、リンは繰り返す。この世界の文明は、地球世界より百年遅れている。ラジオはあるが、テレビはない。リンに怪しまれる――そんな恐れの感情が、クニカの心の(ふち)をむしばむ。しかしクニカは、それに気付かないふりをする。続きを離すことを、クニカは何よりも欲していた。


「それでね、気象予報士の人が、『もし地球の地軸が傾いていなかったとしたら、赤道は、ちょうど日本列島の真下に来るんですよ。』って言ったんだ。それでわたしは、『ちがう』って言ったんだ」


 神妙な表情をして、リンは黙って聞いている。


「そしたらさ、画面が切り替わって、葉っぱを(かじ)(かいこ)の姿が映ったんだ。音が聞こえなくなったから、わたし、画面に近付いてね、それで、(かいこ)が桑の葉を(かじ)る音が聞こえたとき、蚕がね、テレビの向こう側にいるわたしに、頭を動かしたんだ」


 クニカは話し続ける。


「リン、今思ったんだ。わたしは夢から覚めちゃったけれど、あの(かいこ)は蛾になれたのかな、って。何だか急に、そう思っちゃったんだよね」


 どうして、このような話をリンにしようと思ったのか。その理由は、クニカにもよく分からなかった。


 伏し目がちに、クニカはリンを見る。リンは困惑しているに違いない。クニカはそう考える。しかしリンは、握り締めていたナイフと砥石を傍らに置くと、無言でクニカの方へ近づいてくる。


 リンはしゃがみ込み、クニカの前に膝立ちになる。それからそっと、リンはクニカを抱きしめる。


「リン?」

「ウルトラにいたときさ、オレはいつも、お前より早く出かけるだろ? だからさ、たまに考えちまうんだ。これまでは全部夢で、目が覚めたら、お前はどこかに消えちまうんじゃないか、って」

「リン、わたしはどこにも行かないよ」

「お前は必ず、そう言うだろうさ」


 クニカは口をつぐむ。クニカが、自分のもとを離れるつもりなどないことくらい、リンだって理解している。


 しかし、見えない力が腕を伸ばし、クニカの頭を鷲掴みにして、どこか遠くへ引きずっていこうとしたら? それを止めさせる力は、リンにはない。その腕に抗う力は、クニカにはない。


 黒い巨人、“霊長”と“竜”、青い光、鉛色の光――そうした光と、実像とが入り混じり、クニカの心に影がたなびく。


「怖いんだ、わたし」


 目を閉じると、クニカはリンの肌の臭いを嗅いた。


「そばにいてくれる、リン?」

「当たり前だろ」


 リンが言った。


「ずっとそうだったろ」

「ありがとう」


 リンの心臓の鼓動に、クニカは聞き入る。そのとき、扉のノックされる音が、部屋に響き渡った。


 不意を突かれ、クニカもリンも、とっさにお互いから身を離す。冷や水を浴びせられたような気分になって、クニカは思わず、シャツの胸の辺りを手で握り締める。


 リンが扉を開けた。外には、“天雷(ボアネルゲス)”の姉妹・ジイクとアアリが立っている。二人は白衣に身を包み、姉のジイクは赤い宝珠を、妹のアアリは()(でん)の装飾が施された短剣を、それぞれ持っていた。


 リンには気にも留めず、ジイクとアアリは、クニカの下までやってくる。これから儀式が始まろうとしており、その主体が自分なのだということを、クニカは直感する。


「おめでとうございます、クニカ・カゴハラ」


 (ひざまず)くと、(うやうや)しく頭を垂れ、ヨハネの使徒騎士であるアアリが言った。


「ミカイア・ナオエの後任として、あなたは使徒騎士に昇叙されました」


 ジイクが続ける。


「使徒騎士の証として、この短剣をお受け取りください」


 クニカの目の前に、アアリは短剣を捧げる。鍔の中央に嵌められた瑪瑙(めのう)は、赤い光を放っていた。


「待ってくれ」


 リンが声を上げた。


「使徒騎士になる? クニカが?」

「さっきまで、会議があったわ。使徒騎士たちのね」


 アアリが言った。


「それで、クニカ・カゴハラを使徒騎士とし、ミカイアの後任する(しん)()(くだ)すことについて、総員が同意した」

「お前たちの決定なんて知るかよ」


 リンが鼻を鳴らす。


「言ってないだろ? クニカは一言も『使徒騎士になりたい』だなんて」

(しん)()(しん)()よ。没した日を(まきもど)すことなんてできない」

「それが何だよ。クニカは言ってないんだ」

「ええ、あたしたちも聞いていない」

「何だって」


 リンが拳を握り締める。クニカは焦った。だが、リンの行動は、怒りのためというよりも、驚きのためのようだった。


 そんなリンの(きょ)()に、ため息に似た微笑を、アアリが漏らした。どうにもならないことは確実に存在するのだと、アアリは言いたげなように、クニカには見えた。


「使徒騎士はさ、巫皇(ラ・ワン)の手足として、その職を担わなければならない」


 ジイクが答える。ジイクの口調は落ち着き払っていたが、言葉の端々には、本意ではないような響きがあった。


巫皇(ラ・ワン)の意思と、騎士たちからの不満との間で、折り合いを付けなくちゃいけないときが、どうしても出てくる。内輪の理由なんだけれどね? たまにこうやって、外の人が巻き添えを喰うこともある」


――クニカ、キミにもお願いしたい。

――救世主として、キミの力が必要だ。


 “異邦人の間”で、ペルガーリアがはそう言っていた。


「おい、クニカ……」


 宝剣に手を伸ばしたクニカに、リンが声を掛ける。


「いいのか?」

「止めないで」

「戻れなくなるぞ」


 リンの声は震えていた。戻れなくなるとして、どこから? その答えを、クニカもリンも知っていた。知っていて、二人とも口に出すことができなかった。


「リン……わたし、このままじゃダメなんだと思う」


 手を伸ばすと、アアリから捧げられた宝剣を、クニカは握り締めた。握る力が強かったために、クニカの手の甲には青筋が浮いた。


 手の裡にあるものを、クニカは見つめる。宝剣は羽のように軽い。その軽さを前にして、クニカの心はさ迷う。リンとともに、ウルトラを目指した旅に、クニカの精神は誘われる。ヤンヴォイの街で野盗と対峙したとき、クニカは弾みで、人を死なせてしまった。


――忘れるんだ、何もかも。


 あのとき、泣きじゃくるクニカに、リンはそう言った。遠い過去として追いやられていたものが、クニカの記憶にありありとよみがえってくる。あのときの感情と今の感情とは、限りなく近いように、クニカには感じられた。


 もう戻ることはできない。


「ありがとう、クニカ」


 アアリは立ち上がった。


「ごめんね、二人とも」


 宝玉をしまいながら、ジイクが鼻をすする。


「何て言えば良いのやら」

「オレは尊重するよ」


 ばつ悪そうに、リンはポケットに手を突っ込む。叱られた後の子供のように、リンの声は小さかった。


「クニカが決めたことなんだから。誰も悪くはない――」

「立ち去るなら今よ」


 突然、アアリが言った。クニカは顔を上げる。アアリの声は怒気をはらんでいたが、それはクニカたちに向けられたものではなかった。


「覚悟があるから、そこにいるのよね?」


 アアリの声が大きくなる。


「どうなるか分からないような、あなたたちではないはずよ? 私は今、かなり辛抱強く、この話をしているのよ」

「じっと待とう、アアリ」


 ジイクがたしなめる。ジイクは目を伏せており、身じろぎをしなかった。


「じっと待つんだ」


 その声は、みずからに言い聞かせるようでもあった。


 扉の外で、無数の“心の色”が、灰色に瞬く。扉の外にいた者たちが、儀式を盗み見ていたのだと、クニカは気付く。


 クニカの正面を乱暴に横切ると、アアリがおもむろに、扉に手を伸ばした。


 扉が開け放たれる。


 準騎士たちが立ちすくんでいた。

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