087_誰も悪くはない(Никто за это не отвечает.)
――世界は一つの過誤から生じた。(『フィリポによる福音書』、第99a章)
フランチェスカの即位灌頂の儀式が始まるのを、クニカは部屋で待つことになった。
網戸越しに、クニカは外を眺める。一階の部屋からは、小さな池が見える。池に咲いた蓮の花を、クニカは見つめる。
雨は止んでいたが、風は冷たい。星誕殿を照らす陽の光は、既に薄紅色に翳り、雲は藤色に染め抜かれている。夜は、まもなくやって来るだろう。
――クニカ様から、祝福の秘跡を賜りたく……。
イリヤの言葉が、クニカの脳裡によみがえる。祝福をめぐる一連の騒動で、クニカは自分自身につまずいた。友達のためにまっすぐだったイリヤのことが、クニカにはまぶしかった。
イリヤと目が合いそうになったとき、クニカは反射的に目を反らした。イリヤの澄みわたった、緑色の瞳の奥に、みずからの卑屈な影が映り込むような気がして、クニカは堪えられなかったからだ。
蓮の花に影がよぎる。一匹の黒い蛾が、池を横切り、どこかへと飛んでいった。
「あのね、リン」
昔の記憶を、クニカは思い出す。先ほどから、部屋の隅で、リンはナイフを研いでいた。ナイフを研ぐのに集中しているようで、リンは実のところ、自分に関心を向けているのだと、クニカには分かっていた。
「どうした?」
「昔のこと、思い出したんだ。ヤンヴォイの街の、モールでさ」
クニカは話し続ける。
「あの日の夜ね、わたし、夢を見たんだ。ソファに座っていて、わたしはテレビの天気予報を見てた」
「テレビ?」
クニカの言葉を、リンは繰り返す。この世界の文明は、地球世界より百年遅れている。ラジオはあるが、テレビはない。リンに怪しまれる――そんな恐れの感情が、クニカの心の縁をむしばむ。しかしクニカは、それに気付かないふりをする。続きを離すことを、クニカは何よりも欲していた。
「それでね、気象予報士の人が、『もし地球の地軸が傾いていなかったとしたら、赤道は、ちょうど日本列島の真下に来るんですよ。』って言ったんだ。それでわたしは、『ちがう』って言ったんだ」
神妙な表情をして、リンは黙って聞いている。
「そしたらさ、画面が切り替わって、葉っぱを齧る蚕の姿が映ったんだ。音が聞こえなくなったから、わたし、画面に近付いてね、それで、蚕が桑の葉を齧る音が聞こえたとき、蚕がね、テレビの向こう側にいるわたしに、頭を動かしたんだ」
クニカは話し続ける。
「リン、今思ったんだ。わたしは夢から覚めちゃったけれど、あの蚕は蛾になれたのかな、って。何だか急に、そう思っちゃったんだよね」
どうして、このような話をリンにしようと思ったのか。その理由は、クニカにもよく分からなかった。
伏し目がちに、クニカはリンを見る。リンは困惑しているに違いない。クニカはそう考える。しかしリンは、握り締めていたナイフと砥石を傍らに置くと、無言でクニカの方へ近づいてくる。
リンはしゃがみ込み、クニカの前に膝立ちになる。それからそっと、リンはクニカを抱きしめる。
「リン?」
「ウルトラにいたときさ、オレはいつも、お前より早く出かけるだろ? だからさ、たまに考えちまうんだ。これまでは全部夢で、目が覚めたら、お前はどこかに消えちまうんじゃないか、って」
「リン、わたしはどこにも行かないよ」
「お前は必ず、そう言うだろうさ」
クニカは口をつぐむ。クニカが、自分のもとを離れるつもりなどないことくらい、リンだって理解している。
しかし、見えない力が腕を伸ばし、クニカの頭を鷲掴みにして、どこか遠くへ引きずっていこうとしたら? それを止めさせる力は、リンにはない。その腕に抗う力は、クニカにはない。
黒い巨人、“霊長”と“竜”、青い光、鉛色の光――そうした光と、実像とが入り混じり、クニカの心に影がたなびく。
「怖いんだ、わたし」
目を閉じると、クニカはリンの肌の臭いを嗅いた。
「そばにいてくれる、リン?」
「当たり前だろ」
リンが言った。
「ずっとそうだったろ」
「ありがとう」
リンの心臓の鼓動に、クニカは聞き入る。そのとき、扉のノックされる音が、部屋に響き渡った。
不意を突かれ、クニカもリンも、とっさにお互いから身を離す。冷や水を浴びせられたような気分になって、クニカは思わず、シャツの胸の辺りを手で握り締める。
リンが扉を開けた。外には、“天雷”の姉妹・ジイクとアアリが立っている。二人は白衣に身を包み、姉のジイクは赤い宝珠を、妹のアアリは螺鈿の装飾が施された短剣を、それぞれ持っていた。
リンには気にも留めず、ジイクとアアリは、クニカの下までやってくる。これから儀式が始まろうとしており、その主体が自分なのだということを、クニカは直感する。
「おめでとうございます、クニカ・カゴハラ」
跪くと、恭しく頭を垂れ、ヨハネの使徒騎士であるアアリが言った。
「ミカイア・ナオエの後任として、あなたは使徒騎士に昇叙されました」
ジイクが続ける。
「使徒騎士の証として、この短剣をお受け取りください」
クニカの目の前に、アアリは短剣を捧げる。鍔の中央に嵌められた瑪瑙は、赤い光を放っていた。
「待ってくれ」
リンが声を上げた。
「使徒騎士になる? クニカが?」
「さっきまで、会議があったわ。使徒騎士たちのね」
アアリが言った。
「それで、クニカ・カゴハラを使徒騎士とし、ミカイアの後任する星旨を降すことについて、総員が同意した」
「お前たちの決定なんて知るかよ」
リンが鼻を鳴らす。
「言ってないだろ? クニカは一言も『使徒騎士になりたい』だなんて」
「星旨は星旨よ。没した日を転すことなんてできない」
「それが何だよ。クニカは言ってないんだ」
「ええ、あたしたちも聞いていない」
「何だって」
リンが拳を握り締める。クニカは焦った。だが、リンの行動は、怒りのためというよりも、驚きのためのようだった。
そんなリンの挙措に、ため息に似た微笑を、アアリが漏らした。どうにもならないことは確実に存在するのだと、アアリは言いたげなように、クニカには見えた。
「使徒騎士はさ、巫皇の手足として、その職を担わなければならない」
ジイクが答える。ジイクの口調は落ち着き払っていたが、言葉の端々には、本意ではないような響きがあった。
「巫皇の意思と、騎士たちからの不満との間で、折り合いを付けなくちゃいけないときが、どうしても出てくる。内輪の理由なんだけれどね? たまにこうやって、外の人が巻き添えを喰うこともある」
――クニカ、キミにもお願いしたい。
――救世主として、キミの力が必要だ。
“異邦人の間”で、ペルガーリアがはそう言っていた。
「おい、クニカ……」
宝剣に手を伸ばしたクニカに、リンが声を掛ける。
「いいのか?」
「止めないで」
「戻れなくなるぞ」
リンの声は震えていた。戻れなくなるとして、どこから? その答えを、クニカもリンも知っていた。知っていて、二人とも口に出すことができなかった。
「リン……わたし、このままじゃダメなんだと思う」
手を伸ばすと、アアリから捧げられた宝剣を、クニカは握り締めた。握る力が強かったために、クニカの手の甲には青筋が浮いた。
手の裡にあるものを、クニカは見つめる。宝剣は羽のように軽い。その軽さを前にして、クニカの心はさ迷う。リンとともに、ウルトラを目指した旅に、クニカの精神は誘われる。ヤンヴォイの街で野盗と対峙したとき、クニカは弾みで、人を死なせてしまった。
――忘れるんだ、何もかも。
あのとき、泣きじゃくるクニカに、リンはそう言った。遠い過去として追いやられていたものが、クニカの記憶にありありとよみがえってくる。あのときの感情と今の感情とは、限りなく近いように、クニカには感じられた。
もう戻ることはできない。
「ありがとう、クニカ」
アアリは立ち上がった。
「ごめんね、二人とも」
宝玉をしまいながら、ジイクが鼻をすする。
「何て言えば良いのやら」
「オレは尊重するよ」
ばつ悪そうに、リンはポケットに手を突っ込む。叱られた後の子供のように、リンの声は小さかった。
「クニカが決めたことなんだから。誰も悪くはない――」
「立ち去るなら今よ」
突然、アアリが言った。クニカは顔を上げる。アアリの声は怒気をはらんでいたが、それはクニカたちに向けられたものではなかった。
「覚悟があるから、そこにいるのよね?」
アアリの声が大きくなる。
「どうなるか分からないような、あなたたちではないはずよ? 私は今、かなり辛抱強く、この話をしているのよ」
「じっと待とう、アアリ」
ジイクがたしなめる。ジイクは目を伏せており、身じろぎをしなかった。
「じっと待つんだ」
その声は、みずからに言い聞かせるようでもあった。
扉の外で、無数の“心の色”が、灰色に瞬く。扉の外にいた者たちが、儀式を盗み見ていたのだと、クニカは気付く。
クニカの正面を乱暴に横切ると、アアリがおもむろに、扉に手を伸ばした。
扉が開け放たれる。
準騎士たちが立ちすくんでいた。




