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ラヴ・アンダーウェイ(LOVE UИDERW∀Y)  作者: 囘囘靑
第5章:時間と自由(Опыт о непосредственных данных сознания)
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086_心臓の鼓動、又は羊を数えること(сердцебиение, или подсчет овец)

「あの……」


 またしても立ち上がろうとした、そのとき。フランチェスカは、背後から誰かに呼び止められた。


「はっ?!」

「ひえっ?!」


 フランチェスカの驚いた様子が大げさだったためか、後ろにいた相手も悲鳴を上げる。振り向いてみれば、ひとりの少女が、胸の前で両手を合わせていた。少女は褐色の肌に、つぶらな緑の瞳を持っていて、長い黒髪は、羊の毛のように縮れている。


「誰?」

「あの、わたし、エリッサって言います! エリッサ・トレ=ビスマー。南の巫皇(ジリッツァ)です」

「あ……」

「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんです。クニカと一緒にいたときに挨拶できれば良かったんですけれど、わたし、ペルガーリアさんのことを呼びに行くために、シノンさんと出て行ってしまって――」

「えっと……」


 どこへ目線を向けるのが正解なのか、フランチェスカには分からなかった。初対面の人との会話に苦手意識があることを、フランチェスカは自覚している。だからこそフランチェスカは、『おしゃべりプログラム』と名付けられたマニュアルを作って、初対面の人との会話の標準化に努めている。


 しかし、『おしゃべりプログラム』は、自分から相手に話しかけることを前提として作成されている。今回のように、初対面の人が、いきなり自分に話しかけてくることを『おしゃべりプログラム』は想定していない。


「リテーリアさんから聞いたんです、『ペルジェもプヴァエも肉食系統だからアレかもしんないけど、フランはゾウさんだから、草食系統同士、親近感湧くかもね?』って。だから、フランチェスカさん――」

「あばばばば……」


 聞いたこともない国の言葉を聞き取った上で、それを書き写せと命じられているような状況に追いやられ、フランチェスカの脳内はパンク寸前だった。


「あばばばば! あばばばばばば!」

「フランチェスカさん?!」


 慌てふためいたエリッサの声が、次第にフランチェスカから遠のいていく。



   ◇◇◇



「そうなんですね」


 エリッサからコップの水を受け取ると、フランチェスカはそれを一気に飲み干した。


 しばらくの間取り乱していたフランチェスカだったが、ついさっき、ようやく落ち着きを取り戻したところだった。


「お喋りが苦手だなんて」

「ビックリした」

「ううっ、ゴメンナサイ」

「その……初対面の人と話をするのが……得意ではなくて」


 フランチェスカは今、エリッサと並んで、長椅子に腰掛けている。自分のことを心配そうに見つめるエリッサの視線を、フランチェスカは肌に感じる。しかし、目を合わせるべきなのか、気にするべきではないのか、相変わらずフランチェスカは、正解を持ち合わせていなかった。だからフランチェスカは、さきほどからずっと、コップに目をやったり、床に視線を落としたりしていた。


「初対面の人と話をするときは……いつも誰かが、私を紹介してくれた。そうか、『話しかけられたときに応答する』ための場合分けを、『おしゃべりプログラム』にも書いておかないと――」

「クニカと会った時は、どうだったんです?」

「クニカ? クニカのときは、“お母さん”と一緒だったから」

「“お母さん”?」

「そう。ぞうさんの名前で――」


 自分が飼育している象のことを、フランチェスカは話し始める。“お母さん”という名前の、群れのリーダーのこと。今はチカラアリで、ニコルに飼育を任せていること。クニカは“お母さん”からくしゃみを浴びせかけられたこと――。


「フフフ、そうなんですね!」


 クニカが“お母さん”のくしゃみを浴びたくだりで、エリッサが笑った。


「え……面白い?」

「はい。フフフ……後でクニカに、どんな気分だったか聞いてみますね」

「クニカ、驚いてたと思う」

「そうですよね……フフフ……」


――象に話しかけるような気持ちでいるのが良いんじゃないかな?


 “戦捷記念競技場”で、クニカはそう言っていた。エリッサの横顔を眺めるうちに、フランチェスカはふと、そのことを思い出す。象のこと、クニカのこと、それらを夢中になって話している間は、初対面の人であっても、臆することなく話ができる。それどころか、自分の話をエリッサが聴いてくれることに、フランチェスカは居心地の良ささえ覚えるようになっていた。


――イリヤだったら、クニカ様のことも、フランチェスカ様のことも、助けてあげられると思うから――。


 しかし、快感と一緒になって、心に這い寄ってきた冷たい影を、フランチェスカは感じ取っていた。楽しい気分は、長くは続かない。思い出すのは、先ほど聞き耳を立てていた、準騎士たちの会話である。


 “自由チカラアリ”の(プリンツェーサ)として、フランチェスカは、チカラアリの人たちとともに戦ってきた。今度はそれが、星誕殿(サライ)の騎士たちとともに戦うことへと、置き換わっただけのようにも思える。


 ただ、それらは全くの別物であると、フランチェスカは直感していた。何よりフランチェスカは、これからチカラアリの巫皇(ジリッツァ)として、ペルガーリアたちとともに、大陸の運命を背負わなければならない。


 それだけの覚悟が、今の自分にはあるだろうか? そう自問して、フランチェスカは、丹田の辺りに(うず)きを覚える。礼拝堂で、ニフリートに刺し貫かれた箇所だった。


 あのときクニカがいなければ、フランチェスカは死んでいた。事実、ミカイアは助からなかった。加えて、もしペルガーリアの言っていたことが本当だとすれば、ニフリートはまだ生きていて、シャンタイアクティに向かっている。クニカを奪い、“霊長の魔法使い”を復活させるためだ。


 それを阻止するために、星誕殿(サライ)の騎士たちは、全てを賭けてでも、クニカのこと、巫皇(ジリッツァ)のことを守ろうとするだろう。そのことを考えれば考えるほど、フランチェスカは、丹田に局在化されていたはずの疼きが、自分の全身に広がって、心臓を揺さぶってくるような錯覚を味わうのだった。


「フランさん?」


 エリッサに声を掛けられ、フランチェスカは現実へと引き戻される。


「大丈夫です? 顔色悪いですよ?」

「あ……ごめん」

「不安なんですよね?」

「え?」


 エリッサに尋ねられ、フランチェスカは訊き返した。


「不安?」

「はい。その……巫皇(ジリッツァ)になる、っていうことが」

「あ……」


 フランチェスカは、じっと手を見る。自分の全身をせり上がってくるかのような、奇妙な“疼き”の正体。それが不安であると知り、フランチェスカは打ちひしがれた。何より、自分が人並みに不安を覚えていることが、フランチェスカにとっては恥ずかしく、腹立たしいことのように思えた。


 エリッサは溜息をついた。


「実は、私も不安なんです。“黒い雨(ドーシチ)”でこんなことになってしまって。まだ巫皇(ジリッツァ)になってから一年も経っていないですけれど、今でも怖くて、眠れなくなるときがあるんです」

「え、そうなの?」


 フランチェスカは、エリッサの顔を覗き込む。それは、エリッサの目元に、隈があるかどうかを確認したいという、興味本位からの行動だった。しかしフランチェスカは、エリッサの目元を眺めた拍子に、ばっちりと目が合ってしまった。


 先ほどまで自分は、相手の目を見て話すべきかどうかで、悩んでいたはずではなかったのか――みずからの軽薄なふるまいをなじるかのような、もうひとりの自分の声が心の内から聞こえ、フランチェスカはドキリとする。それでもフランチェスカは、エリッサの瞳の奥にある、穏やかな光の匂いを嗅いだ。その光は、フランチェスカの心のまとわりついていたはずの不安の影を、穏やかに照らし、取り除いてくれるかのようだった。


「はい。そんなときは、(アフツァー)を数えるようにしています。ちょっと子供っぽいかもですけれど、実家で弟や、妹の子守りをしていたときは、いつもそうしていたから」

「羊を数える」


 長椅子の手すりに、フランチェスカは頬杖をつく。


「羊と自然数との一致を、無限回見ていく。濃度は同じだから、権利上は無限に数えられる――」

「ええっと、そうなんです?」


 数学に思いを馳せかけていたフランチェスカを前にして、エリッサはしどろもどろになる。


「だから……その、わたしが力になれるか分からないですけれど……フランさんが、巫皇(ジリッツァ)になることが不安だっていうのなら、わたし、力になってあげたいって、そう思うんです」

「力になりたい……」

「そうです。――あ、何だかわたし、偉そうですね……」


 フランチェスカは顔を上げる。このときフランチェスカは、覚悟を決めて、エリッサと目を合わせようとした。しかし、エリッサが俯いてしまっていたために、その試みは失敗した。しかしフランチェスカは、そんなエリッサの様子に、またしてもドキリとする。


 心臓の鼓動を、フランチェスカは数える。一回、二回という具体的な数字は、基数に抽象化され、今度は一匹、二匹と、羊の数に還元される。自分の心臓の鼓動は、数えるという行為を通じて、羊の数へと、それを数えるであろうエリッサへと、繋がっていく――。


「手――」


 フランチェスカの手が、エリッサに向かって、自然と伸びる。


「え……?」

「エリッサ、ええと、手、繋いでほしい」

「手、ですか?」


 差し出されたエリッサの手を、フランチェスカは握る。フランチェスカは、ここに来て初めて、エリッサの心臓が、自分と同程度には高鳴っているということに気付いた。


「緊張……しますよね?」

「あ、うん」


 窓の向こう側の景色を、フランチェスカは見つめる。雲に澱んでいたはずの空から、幾条もの光の筋が降り注ぎ、地面を照らしている。風のうねりが窓を震わせ、木々の合間からは、鳥たちが南の方角へと飛び去っていく。


「エリッサ、」


 フランチェスカは言った。


「友だちになれる?」


 心の片方で、フランチェスカは、それを尋ねることが至極自然なことのように感じていた。また心の片一方で、フランチェスカは、自分が尋ねたことについて、自分自身で驚いていた。


「もちろんです!」


 しかし、驚きの感情がフランチェスカの心を染め上げるよりも前に、エリッサが返事をする。その返事を聞いた瞬間、フランチェスカは、以前に自分が呟いた命題――クニカとフランチェスカは友達である――を思い出した。


 エリッサとフランチェスカは友達である――同じように命題を呟こうとして、フランチェスカはそれを止める。呟こうとした矢先、フランチェスカは、自分がエリッサと手を繋いでいること、繋いだ手を通じて、自らの鼓動が相手に伝わってしまうことに気付き、奇妙な感情を覚えた。これまでに感じたことのない情緒を感じ、フランチェスカはただじっと、指先から伝わってくるエリッサのぬくもりに、みずからの手を委ねていた。

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