085_位置を占める者(сиденье)
鉛筆の芯が折れ、フランチェスカは紙面から顔を上げる。愛用の鉛筆削りを取り出そうと、腰のポケットの辺りに手をやってから、衣類ごとルフィナに取り上げられてしまったことを、フランチェスカは思い出した。
――儀式が終わるまで、服は預かります。髪留めも。
儀式の準備のため、入浴を求められたフランに対して、ルフィナはそう言った。
クニカと離れ離れになってから、フランチェスカは落ち着かなかった。風呂に入っている間、ルフィナは入口で、フランチェスカをずっと見つめていた。湯船に張られた水は熱く、立ち込める湯気は、入口に正座しているルフィナに殺到していた。にもかかわらず、ルフィナは涼しい表情のままだった。汗を掻いている様子もなかった。暑さの感覚が鈍いのか、並外れた精神力で我慢しているのか。いずれにしても、彫像のように黙ったまま自分を見据えてくるルフィナの存在が、フランチェスカには気になって仕方がなかった。
フランチェスカが音を立てるたび、ルフィナは
「音を立てないで」
と忠告した。落ち着き払った声だったが、ルフィナの声以外に、一切の音は禁止されているために、声は別世界から闖入してきたかのような、異質な響きを帯びているように聞こえた。
音を立てないのも、即位灌頂の儀式の重要な要素なのだろう。頭では分かっていても、湯船に足を浸けるときも、身体を流すときも、濡れそぼった髪を絞るときも、細心の注意を払わなければならず、フランチェスカは生きた心地がしなかった。
――控室には、金属は持ち込めません。
入浴を済ませたフランチェスカに渡されたのは、白い長衣だけだった。フランチェスカは渋々、裸体の上からそれを羽織ると、持ち込みが許された紙と、控室に備え付けの鉛筆で、『おしゃべりプログラム:愛すべき人用』の続きを書きはじめた。
控室にフランチェスカが入ったのを見届けると、ルフィナはそのまま、儀式の準備のために出て行ってしまった。その意味で、フランチェスカは呪縛から解放されていたが、長衣のほかは一糸まとわぬ姿のために、人の気配がなくとも、終始辱めを受けているかのような、落ち着かない気分だった。髪にまとわりつく湿気と、肌の上を伝う汗の筋が、これほど生々しく感じられたことは、フランチェスカにはなかった。
芯の折れた鉛筆をビューローの上に投げ出すと、フランチェスカは脚を組んで、窓の外を眺める。窓の外には、暗く曇った空と、風で所在なく揺れる木々の群れと、くすんだ色の芝生とが広がっている。荒涼とした光景に、フランチェスカはますます気の滅入る思いだった。
「キーラ!」
窓の下側から、声が聞こえてきた。
フランチェスカのいる控室は、建物の二階に当たる。しかし、一階と二階は階段で接続されておらず、控室へ入るためには、別の建物から、中空に渡された回廊を通らなければならなかった。控室に渡された回廊は、ほかに一本あり、その回廊は、“歳星の間”までつながっている。
フランチェスカは思い出す。キーラ、と言えば、自分たちを星誕殿まで連れてきた、準騎士の一人だった。
「サーシャ!」
名を呼ばれた方の少女――サーシャが、窓の下まで駆け寄ってくる足音がした。二人は、この建物の一階で落ち合うことにしていたらしい。
「儀式の準備はどう?」
「うん。リティ先輩と一緒に、頑張った!」
キーラが答える。まもなく執り行われるはずの、即位灌頂の儀式。ほかならぬフランチェスカが、チカラアリの巫皇として立つための儀式である。“リティ先輩”とは、事務総長を務める使徒騎士・リテーリアのことだろう。
手持ち無沙汰のフランチェスカは、少しでも情報が欲しかった。窓の側までそっと近づくと、階下から聞こえてくる準騎士たちの会話に、フランチェスカは耳をそばだてる。
「そう。良かった」
「あのさ、サーシャ。イリヤの話って、ホント?」
「え?」
「イリヤがさ、オリガ先輩や、シノン先輩に、異議を唱えたって」
「あ……」
キーラの問いに、サーシャは声を詰まらせる。
「やっぱり、ホントなんだ……」
「誰から聞いたの?」
「聞いたんじゃなくて……その、ルフィナ先輩が、カンカンに怒ってたから……」
「ルフィナ先輩が?!」
(へえ、怒るんだ)
髪の毛のひと房を左手の人差し指に巻きつけながら、フランチェスカは思った。忠告をされたりはしたものの、怒るような人物には、フランチェスカは思えなかった。
「サーシャ、どうしたの? 泣かないでよ……」
「わたしのせいだ……」
サーシャの声の震える様子が、フランチェスカのところまで伝わってくる。
「わたしが……『祝福が欲しい』って……クニカ様に言ったから……」
「どういうこと?」
キーラの問いに、サーシャは訥々と答える。「祝福が欲しい」とクニカに言ったこと、使徒騎士のオリガとシノンが、それを拒んだこと、イリヤが進み出て、祝福の必要性を訴えたこと、使徒騎士たちの間でも意見が割れ、“歳星の間”がどよめいたこと、ペルガーリアがやって来て、論争を解消させたこと――。
「イリヤは、今どうしてるの?」
サーシャが尋ねる。話をするうちに、落ち着きを取り戻したようだった。
「自分の部屋に戻ってさ、ずっと泣いてる」
「そっか……そうだよね。ペルジェ先輩も、ルフィナ先輩も、イリヤのお姉ちゃんだもんね。堪えただろうなァ」
――使徒騎士で、オレの“元”妹だ。
“異邦人の間”でルフィナを紹介するとき、ペルガーリアがそう言ったことを、フランチェスカは覚えている。ペルガーリアもルフィナも、家は別々だ。イリヤという準騎士は、そのどちらかの家系に連なる者なのだろう。
「でも……話聞いたとき、わっ、って思ったよ。先輩相手に、真っ正面から異議を唱えるなんてさ。私、感心しちゃった」
「うん。わたしの味方をしてくれて、嬉しかったよ。『救世主様が来たら、みんなで祝福に預かろう』って、話してたもんね。わたしたちが思ってたこと、イリヤが言ってくれて」
「そういえばさ……」
キーラの声が、少し低くなった。
「儀式の中途で、使徒騎士の先輩たちに、ペルジェ先輩が号令をかけたんだ。あのウワサ、本当なのかも」
「騎士昇叙の話?」
サーシャの声音が、少し明るくなる。
「やっぱり! すると……もしかして、イリヤが……」
「うん。それもね、もしかすると、騎士を飛び越えて、いきなり使徒騎士になるかもだって!」
「えっ?!」
「サーリャ、声がおっきいよ!」
「でも、そんなコトってできるの?」
「昔もあったらしいんだ。百年近く前らしいんだけど、その時は準騎士から騎士になって、たった三日で巫皇になったんだって。確か、ヨ……ヨル……ヨルサン? っていう巫皇だったかな?」
「そうなんだ……驚いた。でも、わたし、イリヤだったら大丈夫だと思うんだ」
「やっぱりそうだよね?」
サーシャの言葉に、キーラは嬉しそうだった。
「うん。イリヤだったら、クニカ様のことも、フランチェスカ様のことも、助けてあげられると思うから――」
(私を助ける――)
窓の桟に手を掛けたまま、フランチェスカは俯いた。初めて会ったばかりの、それも、自分とさして年齢の変わらないはずの少女たちが、見ず知らずの自分のことを支えようとしている。もしかしたら、命までも投げ出す覚悟なのかもしれない。それはほかでもなく、フランチェスカが巫皇として立つためだ。
名状しがたい感情に襲われ、フランチェスカは窓枠から離れた。キーラとサーシャは、まだ階下でおしゃべりを続けていたようだったが、フランチェスカの関心は、既にそこから離れていた。
しかし、自分の関心をどこに向ければ良いのか、フランチェスカは混乱の坩堝にいた。座っているのももどかしく、立っているのももどかしい。しかし、立っているのに理由がないことに気付き、フランチェスカは再び座り直す。脚を組み直し、何かをしなければという衝動の裡にありながら、『おしゃべりプログラム』の続きを考えることも、数学の問題を考えることも、将棋の棋譜を考えることも、この場では全くふさわしくないように思え、手につきそうになかった。
「ミカ……」
去っていった戦友の名前をふと呟いたとき、フランチェスカの脳内で、ひとつの連想が線を描いた。その線はベクトルをなし、フランチェスカの思考全体を、特定の方角へと向かわせる。
使徒騎士のミカイアは死んでしまった。イリヤという準騎士が、使徒騎士になろうとしている。この二つの事実は、一つにつなぐことができる。使徒騎士のミカイアが斃れたからこそ、その後継として、イリヤがあてがわれたのだ、というように。
誰かがその座を去れば、別の誰かがその座を充足する。それはちょうど、自然が真空を埋め尽くさずにはいられないのと同じことだ。では、別の誰かが、またしてもその座を去ってしまったら? あるいは、埋め尽くされていたはずの座から、誰かが離れていってしまったら? その可能性が大いにあり得ることを、フランチェスカは理解した。そして、その可能性の中心に、みずからの存在が――巫皇としてのみずからの存在が――あるのだということを、フランチェスカは理解した。
自分のせいで、座から離れなければならない者が出てしまうかもしれない。
自分のせいで、新たに座に就かなければならない者が出てしまうかもしれない。
フランチェスカの額から、汗が流れ落ちる。流れ落ちた汗は、顎の先まで流れ、膝頭に置かれたフランチェスカ自身の手の甲まで落ちていく。
「あの……」
またしても立ち上がろうとした、そのとき。フランチェスカは、背後から誰かに呼び止められた。




