083_掴むことができるほどまぢかに(Па́уль Це́лан)
わたしたちはまぢかにいます、主よ、/掴むことができるほどまぢかに。(パウル・ツェラン「夜の祈り」、飯吉光夫訳)
稲光により、室内が明るくなる。
「失礼します」
雷鳴に遅れ、ひとりの女性が入ってくる。クニカよりは年上で、ペルガーリアよりは年下のようだった。女性は、ウェーブのかかった、亜麻色の長い髪を持ち、黒色の瞳の持ち主だった。
目を引くのは、女性の身なりだった。外套も、胴衣も、襦袢も、沓も、すべて純白だった。
「紹介するよ」
ペルガーリアが言った。
「カノジョはルフィナ。ルフィナ・トウイ=トイオカサン・エルミン。使徒騎士“檮衣者”で、オレの“元”妹だ」
「元?」
クニカは訊き返した。
「ペルジェは幼い時に、我がエルミンの家に、養女として出されました」
ペルガーリアの座る椅子の縁に手を乗せ、女性――ルフィナは言った。
「シャンタイアクティの貴族にとっては、男子も女子も欠かせない存在。当時、エルミンの家に女はいませんでした。しかし間もなく私が生まれ、ペルジェの生家・ホークハイエスト=ラァの女子が亡くなったので、結局ペルジェは生家に戻ることになった。そういう経緯です」
――階級社会なんだよね、あそこは。
――一口に『貴族』と言っても、ピンキリでさ。
大瑠璃宮殿でのチャイハネの講義を、クニカは思い出す。思えば、ジイクとアアリの姉妹も貴族で、ニフシェも貴族で、ミーシャも恐らくは貴族の出身だろう。生まれながらにして、身分の差異があるということは、クニカには馴染めそうもない感覚だった。
「フフフ、クニカ」
「は、はい?」
「似ていないでしょう?」
「あ……」
ルフィナに微笑を返され、クニカははっとする。自分でも気づかないうちに、クニカは、ペルガーリアとルフィナ容貌を、代わるがわる目で追っていたようだった。
「す、スミマセン」
「ホークハイエスト=ラァもエルミンも、血縁上は遠い親戚です。ただ、私は母に似て、ペルジェは父に似ている。だから、似ていない」
「おいおい」
ペルガーリアが、肩をすくめてみせる。
「オレは今でも、妹だと思ってるぜ」
「そうですね、“お姉様”」
「ハハ、心が死んじまうよ」
ペルガーリアは愉快そうだった。
「準備はできたか?」
「ええ」
そう言うと、ルフィナはフランチェスカに手を差し伸べる。
「え……私?」
「フランチェスカ・オツヴェル、“檮衣者”を襲る使徒騎士は、この星誕殿において、伝統的に儀礼を所掌しています」
フランチェスカを椅子から立たせながら、ルフィナは言う。
「あなたはこれから、即位灌頂の儀に入る。フランチェスカ・トレ=チカラアリとして立皇し、その法域に君臨する。湯殿へ案内します」
ルフィナに手を引かれ、フランチェスカは、“異邦人の間”を抜けようとする。
扉をくぐる直前、振り向いたフランチェスカと、クニカは目が合った。フランチェスカにしては珍しく、その瞳には憂いの色があった。だが、クニカが声をかける間もなく、フランチェスカは去ってしまった。
「さあ、オレたちも行こう」
残っていた茶を飲み干すと、ペルガーリアが言った。
「ミカの葬儀だ」
ペルガーリアの横顔を、クニカは思わず見つめる。ペルガーリアが自分に声を掛けてくれることを、あるいは、そうでなくとも、その表情から何かを読み取ることができるのではないかと、クニカは期待した。
しかし、ペルガーリアは真顔で、黙ったままだった。それでも反応を探ろうとするうちに、クニカの心の中に、冷たい疑問が噴き上がってきた。何かを読み取れたとして、何か声を掛けられたとして――それは自分の空虚を埋めてくれるのだろうか、という疑問だった。
ミカイアは戻ってこない。ミカイアを死なせたことの正しさを、誰も教えてはくれない。ミカイアが死んだことは正しくないからだ。では、何が正しかったのか? それを知ったとき、クニカはどうすればいいのか? 答えは出ないだろう。
錫杖を打ち鳴らしながら、ペルガーリアは部屋を抜けていく。そんなペルガーリアの後ろを、クニカも着いて行く。
◇◇◇
クニカとペルガーリアは、回廊を抜けた。回廊は磨りガラスの窓に覆われ、流れる雨の水滴が、ガラスの紋様を黒く象っている。回廊に照明がなければ、そして、外からの雷で光が差し込まなければ、クニカは恐らく、外を夜と見違えていたかもしれない。
「夜みたいだな」
クニカの気持ちを読み取ったのか、ペルガーリアが言った。
「だが大丈夫だ。夜になる前に、すべての儀式が終わる。止まない雨はない」
ペルガーリアは右手を払う。その動きに合わせて、正面の鉄扉が、ゆっくりと口を開ける。
扉が開くと同時に、クニカの鼻孔を、麝香の甘い香りがくすぐった。扉の向こう側には暗闇が広がっていたが、クニカはすぐに、向こう側が広間であると気付いた。広間の周縁では、無数の蝋燭の炎が揺らめき、その揺らめきのそれぞれが、人影を照らし出していた。人影は、広間の床にたなびいて、光の動きに合わせて、頼りなく揺れていた。星誕殿にいるすべての騎士たちが、この広間に集結しているようだった。
惑星の環のようにたなびく騎士たちの、中心に近い位置には、白衣の騎士たちが立っている。ジイクとアアリ、シノン――オリガもいた。白衣は、使徒騎士たちの正装のようだった。
使徒騎士たちに囲まれ、最大の天体が、広間の中央に座している。ミカイアの棺だった。
「歳星の間だ」
クニカの耳元で、ペルガーリアが囁く。
「星誕殿の心臓だ。多くの儀式が、ここで行われる。演武も、祝いも、弔いも」
ひとりの少女が、蝋燭を携えて、ペルガーリアに近づく。
「いや、いいよ」
少女から差し出された蝋燭を、手で制すると、ペルガーリアはクニカの方を向いた。
ペルガーリアの視線に導かれるように、周辺にいた少女たちの視線が、一斉にクニカに集まる。巫皇・ペルガーリアは、星誕殿において、紛れもなく最大の天体なのだと、クニカは直感した。ちりばめられた無数の星は、その引力に導かれずにはいられない。集まった視線に圧し潰されるような心地になり、クニカは気が気ではなかった。
「それより、カノジョを案内してほしい。ミカの近くに。そうだ。カノジョは“星”だ」
星――星だって――あの人が――。クニカのいる位置からでも、周囲の少女たちのざわめきが聞こえてくる。少女は、今度はクニカに蝋燭を差し出してきた。おっかなびっくりになってそれを受け取ると、周囲のざわめきに耳を貸さないようにしながら、クニカは敷物に腰を下ろした。
「人の狂気は天の正気。人道は勧善とともにあり。天道は大悲とともにあり」
経典の一節が、朗々と読み上げられている。アアリの声だった。ミカイアの棺を前にして、アアリは正座をしている。その周辺を、使徒騎士たちが、時計回りに回っている。彼女たちは、携えていた細い薪を、そっとミカイアの棺に添えていた。
「ミカを送り出してやれ」
身にまとっていた黒いローブを、別の少女に預けながら、ペルガーリアは言う。
「ペルジェ、どこへ?」
「即位灌頂の準備だ。ルフィとリティがオレを待ってる」
そう言い残すと、ペルガーリアは別の扉から、“歳星の間”を抜けていく。
取り残されたクニカは、ふと自分の真横に目を向けた。その方角にいた二人の少女が、慌てた様子で、クニカから目を反らす。居心地の悪さを覚えながらも、クニカはミカイアを見送ることに集中する。
「我ら、冥府に友たらん。共に俱に冥府を征かん。冥府を征きて、金色の雲の果て、王国においてその安息に浴し、四天の柱で天界を支えん――苦しみは一時、歓びは永遠。さらば」
アアリが立ち上がる。周囲にいた使徒騎士たちが、棺に一歩踏み出すと、手にしていた松明を、敷き詰められた薪にくべる。炎はたちどころにして大きくなり、ミカイアの棺を包む。
広間の中央で、炎は渦を巻きながら、煙を立ち昇らせる。天蓋の横に張り出された窓から、煙はそのまま、“黒い雨”のたぎる空へと吐き出されていく。
燃え盛る炎の暑さと、使徒騎士たちの白衣の眩しさに、クニカは顔を背ける。そのときクニカは、自分の側に座る少女の横顔が、偶然にも目に留まった。少女は、クニカよりも年下のようで、まだ幼く、見習いのようだった。クニカの視線に気付いていないのか、目元から溢れる涙を、少女は必死に拭っていた。
星誕殿において、少女はきっと、クニカよりも長い時間を、ミカイアとともに過ごしたのだろう。そう考えたとき、クニカは、ミカイアに代わって、自分が少女を慰めるべきなのではないかと、そんな気持ちにさえなった。
しかし、ここで声を掛けたところで、少女は戸惑うにちがいない。自分の慰めが、何になるというのだろう。掴むほどができるほど間近にいながら、自分の手は、永遠に少女には届かないのではないか。――そんな予感を前にして、クニカの心は震えた。
ミカイアの身体は、煙となって、ゆっくりと立ち昇っていく。




