081_獣の王(царь зверей)
「――裏切りだって?!」
“異邦人の間”から、リンの声が響いた。
その言葉に促されるようにして、チャイハネは部屋へ戻ろうとする。クニカは迷いながらも、結局のところ、チャイハネに続いた。“裏切り”とは何か、クニカも気になったからだ。
「そう。うちら使徒騎士の中に、裏切り者が混じっていた」
部屋の四隅を支える柱の一本に寄りかかりながら、リテーリアが言う。
「誰だよ」
「ニフシェさ」
クニカもリンも、顔を見合わせる。
「どうして?」
リンが尋ねた。
前置きが長くなるけれど、と言いながら、リテーリアは説明する。ニフリートとニフシェは、母親こそ異なれど、姉妹であるということ。魔法使いの常として、家族で、年が近く、なおかつ姉妹の関係にあれば、お互いの思念に感化されやすいということ――。
しかし、聞けば聞くほど、クニカは腑に落ちなかった。クニカもリンも、ニフシェと直接に関与したことはない。しかし、ニフリートのことは、嫌と言うほど分からされている。その経験を踏まえると、ニフリートの企てに、ニフシェが乗るとは、クニカには思えなかった。
まず、ニフリートとニフシェが姉妹であるということ。そもそも、リテーリアに言われるまで、クニカは二人が姉妹であるなど、全く考えなかった。それくらい、二人は似ていない。
次に、ニフシェが本当に裏切りに加担していたのだとすれば、ニフシェはもっと、ニフリートの片鱗に感化されていてもおかしくはないはずだろう、という疑問だった。そもそも、ニフリートとニフシェが姉妹で、年が近く、お互いの思念に感化されやすいとするのならば、それはニフリートにも言えるはずだ。ニフリートだって、ニフシェの思念に感化され、ニフシェに似ても、おかしくはない。
「その顔……。『信じてない?』ってカンジかな?」
「ええ……何て言えばいいか……」
「信じられないことは、いくらだってある」
近付くと、リテーリアはクニカの手を取った。相変わらず、リテーリアの手は冷たい。
「それでも、信じなければならない、受け入れなければならない。さもなければ、前へ進むことはできない」
「だけど――」
リンが口を差し挟みかけた、そのとき。鈴の音に伴い、誰かが廊下を駆けて、こちらまで近づいてくる音が響いてきた。
「巫皇だ」
リテーリアは、タバコを灰皿に投げ捨てる。
「リン、カイ、椅子に座っとき」
「いいよ、別に」
そう答えるリンは、籐製のダブルソファの背もたれに、腕を乗せて寄りかかっている。
「バスで座りっぱなしで、身体が凝ってんだ」
「そう?」
気の抜けたような笑い声を、リテーリアは漏らす。
「マ、ご自由に。ただ、言ったかんね? 『座っとき』って」
「ご臨星! ご臨星!」
そこへ、少女が入ってきた。少女は、エリカやキーラと同じように、準騎士の身分のようだった。
部屋に入るやいなや、少女はその場に跪く。
「星下が、こちらに」
少女が言い終わるよりも前に、周辺の空気が張りつめる。クニカの額から、汗が噴き出した。息を吸うことも、吐くことも、ままならなくなる。
目だけを動かして、横にいる人々を、クニカは見る。リンも、カイも、神妙な顔をして、床に膝をついていた。クニカが感じ取ったのと同じ気を感じ取り、二人とも立っていられないようだった。
すぐ隣では、チャイハネが丸椅子に腰かけていたが、やはり同じように、腰が抜けて座っている、といった様子だった。しかし、ソファに腰掛けているフランチェスカは、特に変わった様子もなく、ただじっと、開け放たれた扉の外を眺めていた。
やがて、巫皇・ペルガーリアが入ってくる。緑の黒髪に、緑の瞳を持ったペルガーリアは、黒いローブをまとっている。右手には、身長よりも長い錫杖が握られていた。錫杖の頭部は、真円に覆われた十字架が象られており、十二個の遊環が通されている。
ペルガーリアが入った途端、気が強くなった。ペルガーリアの露払いを務めていた準騎士さえも、浅い息を漏らしている。夢の中でも、大瑠璃宮殿でミーシャの身体を駆って話していたときでも、ペルガーリアの存在感は圧倒的だった。しかし、現実で、ここまで気圧されてしまうなど、クニカは考えなかった。
「ごきげんよう。悪いね」
これまでに耳にしたのと変わらない、男性の声でそう言うと、ペルガーリアはいたずらっぽくほほ笑んでみせる。と同時に、ペルガーリアから放たれていた圧倒的な“気”が霧散していくのを、クニカは感じ取った。身体も心も一気に軽くなり、クニカは溜息を漏らした。リンも、額からの汗を腕で拭いながら、何とか立ち上がっている。
「オレは獣王の魔法属性だ。通例じゃ、自分の魔法属性は明らかにしないのだが。おいおい、キツかったか?」
すみません、と謝る準騎士の腕を取ると、ペルガーリアは彼女を立たせてやる。
「こうやって、ほかの魔法属性を威圧する能力も、獣王の特性のひとつだ。効き目のある奴と、ない奴がいる。魔力が強かったり、特別な魔法属性だったりすると、効き目はあまりない。クニカは……少し効いたかな?」
ペルガーリアに尋ねられ、クニカは頷いた。
「ハハハ。ウチの若い衆でも、修練が足りていないとこうなる」
たじたじといった様子の準騎士に、下がるように手で合図をしながら、ペルガーリアが言った。
「キミは……効かなかったようだな、フランチェスカ?」
フランチェスカは、ペルガーリアの方を見つめるばかりで、返事をしなかった。
「星下、シノンに会いませんでしたか?」
壁に寄りかかっていたリテーリアが、ペルガーリアに言った。
「奴さん、エリエリと一緒にあなたを探してましたよ。それで来たのかと」
“エリエリ”とは、エリッサのことだろう。
「いや、会ってない。だけど、それでいい」
「あはん?」
ペルガーリアの言葉から、リテーリアは何かを読み取ったようだった。
「なら、とりあえず饗設けしますよ。あと、儀式の準備は“巻き”でやります」
「すまない。今日中にすべてを終わらせたい」
「随に。若い衆は全員借りますよ。ただでさえ人が少ない」
反対側の扉を、リテーリアは開ける。
「それじゃ、クニカとフランチェスカ――以外の人! は、こちらへ」
「二人は?」
「ここに残ってもらう」
リンの質問に答えたのは、ペルガーリアだった。
「個別に話したい」
リンはうろん気な様子だったが、リテーリアに誘われ、渋々と扉を抜けていった。
“異邦人の間”には、クニカとフランチェスカが残される。皆がいなくなってから、クニカは、“異邦人の間”が思いのほか広いことに気付かされた。
「本題から入る。話したいことは――」
「ペルガーリア、あなたに質問をしたい」
突然、ペルガーリアの話を遮って、フランチェスカが言った。その言葉は、クニカには不躾に聞こえた。
フランチェスカの方を向いたクニカは、その“心の色”が、赤く光っているのを見た。フランチェスカは、何かを怒っている。
「何だい?」
「儀式とは?」
「即位灌頂の儀だ」
一拍置いてから、ペルガーリアが答える。その口調には、安堵の響きが混じっているように、クニカには聞こえた。フランチェスカから厳しい質問が飛ぶことを予期して、ペルガーリアも身構えていたのだろう。
「キミが、正式にチカラアリの巫皇になるための儀式だ。“黒い雨”を防ぐための結界を張るには、チカラアリの巫皇を欠くわけにはいかない」
「それを急ぐ?」
「そうだ。事情が変わった」
“事情が変わった”、そのフレーズを、クニカは耳にしたことがある。大瑠璃宮殿において、オリガ、ニフシェ、ミーシャの三人が、クニカたちチカラアリへ向かう一行に加わらない、と宣言したときに、ペルガーリアは同じように言った。
今のクニカならば、その“事情”がよく分かる。“裏切り者”であるニフシェを、ペルガーリアは、クニカから引き離したかったのだ。ペルガーリアが裏切りを怖れる気持ちは、クニカにも理解できる。裏切り者の後ろには、ニフリートが控えている。ニフリートの実力がペルガーリアに比肩する以上、ペルガーリアは、裏切り者に背後から刺されることを避けたかったのだ。
「事情?」
大瑠璃宮殿で、プヴァエティカが尋ねたのと同じように、今度はフランチェスカが、ペルガーリアに尋ねる。何とはなしにペルガーリアの方を見たクニカは、目が合ってしまい、慌てて視線を逸らす。頭の中をよぎったことは、ペルガーリアも同じようだ。
「それはだな――」
「ミカイアが死んだこと?」
ペルガーリアが言うよりも前に、フランチェスカが畳みかける。フランチェスカの“心の色”が、ますます赤くほのめき、その輪郭に青が混じるのを、クニカは見て取った。
ペルガーリアもまた、フランチェスカの心の辺りに目を細めていることに、クニカは気付いた。初めて夢で会ったとき、ペルガーリアはクニカの心を読んでいた。クニカと同じように、ペルガーリアも、フランチェスカの感情を読み取っているようだった。
「私たちは、チカラアリの奪還のために動いていた。ミカイアもそうだった。遅れてクニカたちが来て、ジイクとアアリも来た。それからニフリートが現れて、死んで、ミカイアも死んだ。それはなぜ?」
「フラン、落ち着け」
「あなたは初めから、チカラアリの街なんて、どうでも良かった」
話をするときの癖で、首を何度も傾げながら、フランチェスカは言った。
「ニフシェの裏切りを怖れて、あなたは間違いを犯した。残りの騎士たちを連れてチカラアリへ向かえば、ミカイアは死ななかった。あなたは、ミカイアを見殺しにした」
「フラン……」
フランチェスカの強張った横顔を、クニカはじっと見る。そんな素振りを見せなかったから気付かなかっただけで、シャンタイアクティまで向かう道すがら、フランチェスカはずっと、ミカイアの死を考え続けていたのだろう。
「ミカが死んだのは、オレの責任だ」
ややあってから、ペルガーリアは言った。その言葉を聞いても、フランチェスカは唇を引き結んだままだった。ペルガーリアがみずからの過ちを受け容れたとして、ミカイアは戻ってこない。その虚しさを、フランチェスカは味わっているようだった。
「リカバーできるのならば、その方法もあったろう。まだるっこしいのは、オレも嫌いなんだ。多少のリスクを冒してでも、ニフシェ込みで、オレもチカラアリに乗り込んださ」
「じゃあ、どうして……」
「分かるだろ?」
ペルガーリアが目を閉じる。次の瞬間、クニカの脳内に白い光が溢れ、その中から、細い歯を見せて笑う、ニフリートのイメージが立ち現れた。
「あっ……?!」
クニカが悲鳴を上げたその隣で、フランチェスカが身をよじり、脇腹の辺りを手で押さえていた。ニフリートに刺された箇所だ。
「キミの命だけで精いっぱいだった」
肩で息をしているクニカとフランチェスカに対し、ペルガーリアが言った。
「それだって、クニカがいなければ、どうなっていたか分からない。キミがいるから、チカラアリ巫皇の即位のための儀式ができる。儀式ができれば、結界を張り直すことができる。結界を張り直せば、“黒い雨”は止む。少しはマシな状況で、ニフリートを迎え撃つことができる」
「え……?」
クニカは言った。止まったはずの額の汗が、再び噴き出してくる。
「ニフリートを迎え撃つ?」
「そうだ」
ペルガーリアが言った。
「アイツは生きている」




