080_星誕殿(Сарай)
バスの上を飛ぶシノンの翼のはためきに、周囲の雲が散りじりになる。
クニカたちを乗せたバスは、車体に描かれた魔法陣によって、空を飛んでいた。山小屋から一直線に、一行はシャンタイアクティを目指している。
一行は、しばらくは雲の上を飛んでいたが、今は高度を下げていた。目的地に近付いていた。雲を抜け、窓の向こう側がはっきりと見通せるようになると、クニカは窓枠に肘をつき、眼下に広がる名もない田野や、名もない街を目で追った。
外の様子が気になるのは、リンも同じようだった。リンは、バスの進行方向、運転席の側に立って、正面から、シャンタイアクティの街並みを見ようと努めていた。
「見えた!」
クニカの耳に、リンの声が響く。席を立つと、クニカはリンの下に駆け寄る。
「ほら、向こう」
リンの指さす先に、クニカは目を細める。青々とした山並みの、その向こう側に、平野が広がっている。平野は、無数の道と、無数の水路と、無数の建造物とで埋め尽くされている。
「あれが……」
それ以上の言葉を、クニカは続けることができなかった。眼下に広がるシャンタイアクティの眺望は、圧倒されてしまうほどに広大だった。
クニカはこれまでに、ウルトラ市とチカラアリ市を訪ね、そのどちらの街も、リンと連れ立って、鳥瞰を拝んでいる。しかし、川の中にある巨大な島に建設されたウルトラ市と比べても、新市街と旧市街とを水路が結ぶチカラアリ市と比べても、シャンタイアクティ市は広い。
何より目についたのは、枝分かれした川が水路を形成し、その水路が文様を描いているところだった。
「魔法陣だ……」
「そうよ、昔はね」
クニカの呟きに、アアリが答えた。
「千年以上も昔のことよ。護法のために、当時の巫皇が魔法陣を都市に組み入れた。マ、その後戦争やら、地震やら、津波やらで崩れちゃって、今残ってるのは形だけ、なんだけど」
「崩れたのも含めて、この街の歴史かな」
シタールを弾くのを止めると、双子の姉のジイクが、妹のアアリの言葉を継いだ。
「戦争があって、地震があって、津波があって。そのたびに、この街は何度もやり直してきた。やり直しの積み重ねの上に、この街はある。千年の歴史の上に、オイラたちは自分の足で立っている」
「へえ。何だか、いいな」
リンが言った。
「チカラアリの旧市街もそうだよ。みんな伝統を大事にしてる」
「うんにゃ。それはいいことさ。この街は、復興のたびに、西へ西へと広がっていったけれど」
“全ての街は、皆西へ西へと発展する”。昔、どこかでそのようなフレーズを耳にした覚えがあり、クニカはふと、懐かしい気持ちになった。
「海だ!」
隣で、カイが手を叩く。カイの言うとおり、クニカたちの前方、シャンタイアクティ市街の更に奥に、海が開けていた。
「海! 海! アハハ!」
「フラン、見て」
座席に寝そべっているフランチェスカに、クニカは呼びかける。山小屋を飛び立ってからというもの、酔ってしまったのか、フランチェスカはずっと、座席に横になっていた。
「ウーン……」
「シャンタイアクティだよ、フラン。もうすぐ」
“シャンタイアクティ”の語を聞いた瞬間、フランチェスカは目を開け、おもむろに身を起こした。それから、クニカの隣まで這うように進み出ると、窓ガラスに手をついて、眼下に広がるシャンタイアクティの街並みを、食い入るように見つめはじめた。
「昔……」
フランチェスカが語り出す。
「ぞうさんたちの興行で、姉と一緒に、この街に来たことがある。小さい頃」
「へえ……」
リンが腕を組んだ。
「じゃあ、まるっきり初めて、ってワケじゃないんだな」
「あのときには、人がいた。もっと煙があった」
“煙”。その単語がフランチェスカの唇から紡ぎ出されたとき、バスはちょうど、川べりにある工場の真上、煙突の上を通り過ぎるところだった。
煙突に煙はなく、街路に人はいない。クニカは自然と、息を呑んだ。
「みんな、南部に疎開させてる」
伏し目がちに、ジイクが言う。
「南には、貴族の荘園が多い。そこに匿われてる」
フランチェスカは黙ったまま、眼下の街並みを眺めていた。
静まり返った街の上を、クニカたちは飛び去って行く。目指す先は、市街の南東にある、シャンタイアクティ騎士団の本拠“星誕殿”だった。
◇◇◇
時計塔、水道橋、聖塔――歴史と、亜熱帯の湿気とを吸って、どっしりと構えているように見える古い建造物が、クニカの真下を、右から左へと過ぎ去っていく。
やがてクニカは、自分たちを乗せたバスが、海に面した一画に近付きつつあることに気付いた。その一画にある全ての建造物は、切り立った岩盤の上に築き上げられており、市街を見下ろしている。岩盤は、三方を断崖と、海とに囲まれており、西側だけが、唯一市街と密着していた。しかし、その西側であってさえも、市街との接点は、門と塀とで仕切られている。要するに一帯は、シャンタイアクティ市街に面していながら、シャンタイアクティ市街に対して屹立しており、あたかも独立した地位を保っているかのようだった。
「星誕殿よ」
岩盤の中央に建てられている、大瑠璃宮殿に似た、しかし、大瑠璃宮殿よりも規模の小さなドームを見ていたクニカに、アアリが言う。
「中央にあるのが、星誕殿の本館。その周りにいろんな建物がある。みんな、ウチの騎士たちが、修行のために使う施設よ。シノン!」
バスの上で翼をはためかせているシノンに、アアリが呼びかける。
「どこに停めるつもり?」
〈中庭に停める〉
シノンの声が聞こえてくる。羽ばたきの音が空気を震わせているにもかかわらず、シノンの声は、はっきりと聞こえてきた。
リンも違和感を覚えたのだろう。シノンの声がした途端、リンは周囲を、あちこちと見回していた。クニカは既に気付いている。魔力を解き放って、シノンは共感覚で会話を行っているのだ。
〈何人か、もう中庭で待ってる。エリッサに、あれは――〉
「エリーが?」
懐かしい名前を聞いて、クニカの胸は高鳴る。
「もう着いたんだ」
〈三日くらい前になる〉
クニカの言葉に、シノンが応じる。
〈二人の巫皇も、クニカの友達も、みんな無事だ〉
「どういうこと?」
不意に、アアリが口を開いた。クニカの見る前で、アアリの表情が強張っていく。やがてクニカは、シノンが言わなかったことを、アアリが直感したのだと気付いた。
「そんなことが……どうして……」
〈連絡はしたけれど、受け取ってもらえなかった〉
“三日くらい前”と言えば、ちょうど新市街の奪還作戦が行われていた時だ。あのときのクニカたちは、ニフリートと対峙するだけで精一杯だった。ジイクとアアリも、連絡を受け取る余裕はなかっただろう。
〈今は前を向くしかない〉
押し黙ってしまったアアリに対して、シノンが言う。
〈やることは決まっている。それに焦点を合わせないと。大切なことは、ペルジェに任せよう〉
“大切なこと”、それが、現状を自分たちに説明することにあるのだと、クニカは感じ取った。
クニカがチカラアリにいた間に、良くないことが起こっている。
シノンが更に高度を下げる。バス全体が大きく揺れた。手すりに摑まると、クニカは中庭を見つめる。
中庭には、二人の人影があった。ひとりはエリッサで、もうひとりは、クニカの初めて見る少女だった。少女は墨色の長髪を持ち、明るい橙色の長衣を身にまとっている。
バスが着陸する。シノンとともにバスを誘導していた、エリカとキーラの二人の準騎士が、外からバスの扉を開けた。
「クニカ!」
バスの外へ出た途端、エリッサが歓声を上げて、クニカのところまで近づいてきた。
「エリー! 久しぶり」
「無事で良かったです、クニカ」
クニカの手を、エリッサは握り締める。安堵のためか、エリッサは目に涙を浮かべていた。
「わたしも、エリーが無事で良かったよ」
「ハァイ、救世主さん」
後ろから近付いてきた、橙色のアオザイの少女が、クニカに声を掛ける。
「こ、こんにちは」
「ねえ、エリー。私がだれなのか、救世主さんに紹介してくれない?」
「あ、はい。えっと、この人は使徒騎士のリテーリアさん」
どうも、と言いながら、リテーリアが手を振る。思わず手を振り返しそうになって、クニカは慌てて手をひっこめた。
「その、星誕殿で事務総長をやられていて、シャンタイアクティに着いてから、わたしもお世話になっていて――」
「私の名前はリテーリア。“徴税人”の使徒騎士を拝命しているわ。星誕殿の通例として、徴税人の二つ名を拝する者は、内務を管掌することになっているの」
手を伸ばすと、リテーリアはクニカの手を握る。冷え性なのか、リテーリアの指先は、驚くほど冷たかった。
「マ、堅苦しい挨拶は抜きよ。せっかくのシャンティの乙女なんだから、ゆっくりしていってね」
「は、はい」
縄跳びの縄を振るように、握った自分の手を大きく振るリテーリアに対し、クニカはたじたじになる。オリガ、ニフシェ、ミーシャ、ミカイア、ジイク、アアリ、それにシノン。これまでに出会ったどの使徒騎士と比べても、リテーリアは気さくで、風変りなように、クニカは思えた。
「リティ、」
三人の会話に、シノンが割って入る。
「クニカたちは観光に来てるワケじゃない」
「あはん、そりゃそうね」
どこからかタバコを取り出すと、リテーリアはそれを咥える。
「ペルジェはどこにいるんだ? 一緒に来るはずじゃ――」
「瞑想の途中で、禊してるプヴァエのところに行ったわ」
キーラがすかさず近寄ると、みずからの指先に魔力で火を点し、リテーリアのタバコにかざす。
「あんがとさん。じきに来るわよ、待ってりゃいい。――ちょっと!」
不意に、リテーリアが声を大きくする。その声は、バスの側にいたエリカに向かって掛けられたものだった。エリカがぎくりとなって、リテーリアの方に向き直る。
「何してん?」
「その……ミカイア様の……」
「意地悪して訊いちゃうけど、誰かの指示あった?」
「ですが――」
「ハハン、なってない」
煙を吐き出しながら、リテーリアが言った。
「エリカ、キミは自分のために言ってる。指示があったかどうかじゃない。問題はそこ。煩悩がある」
リテーリアの言葉に、エリカがうつむく。成り行きを見守っていたクニカの耳に、遠くの空から、雷鳴が聞こえてきた。
「雨降りか。だるいな」
「中に入ろう。異邦人の間が空いてるはずだ」
シノンの言葉に、クニカは懐かしい気持ちになる。大瑠璃宮殿にも、同じ名前の部屋があった。
「そこで待っててもらう。ペルジェのことは、私が呼びに行く」
「私も行きます!」
「あっ……」
クニカは、本当はエリッサに相談したいことがあった。それは、救世主としての役目を引き受けるという、みずからの覚悟についてだった。しかしエリッサは、シノンの後ろを足早に追いかけている。声を掛けようにも、二人はさっさと行ってしまった。
「救世主さんと、あとは……?」
「オレはリンだ。こっちがカイと、あと……フランチェスカ」
カイと、フランチェスカのことを、リンが紹介する。フランチェスカのことを見ると、リテーリアは口笛を鳴らした。
「ああ、あなたが?」
「初めまして。私の名前は、フランチェスカです」
フランチェスカは機械的に答えたが、リテーリアは気にならなかったようだった。
「そんじゃ、行きますか。茶ぐらいは出しますよ。ジイクパイセン、一緒にどうっス?」
「結界を張るのを手伝うよ」
アアリと頷き合いながら、ジイクは言った。
「結界の当番は?」
「今はルフィナかな。それじゃ、一行はこちらに」
反対側へと向かったジイクとアアリを眺めながら、リテーリアはクニカに、着いてくるよう促した。
◇◇◇
「クニカ、」
異邦人の間に通され、ペルガーリアを待っていたクニカの耳に、聞きなれた声が掛かる。振り向いてみれば、そこにはチャイハネがいた。
「チャイ!」
「ごきげんよう。良かったよ。リンも元気そうだ。カイもね。ええっと、フランチェスカ?」
チャイハネの言葉に、フランチェスカは黙ったまま、コクリと頷いた。
「“務め”を果たしたんだな」
「ねえ、チャイ、ちょっとだけいい?」
感慨深げに話すチャイハネに、クニカは尋ねる。
「何?」
「相談したいことがあるんだよね」
エリッサに相談したかったことを、クニカはチャイハネに相談しようと決めた。チャイハネがどこにも行かないように、さりげなく服を掴むと、クニカはチャイハネと、異邦人の間を出ようとする。
「え? ここじゃダメ?」
「おい、チャイ!」
クニカに引っ張られ、戸惑い気味のチャイハネに、リンが声を掛ける。
「シュムはどうしたんだよ?」
「あー……」
“異邦人の間”の扉をくぐり抜けた先で、クニカは、廊下の奥からシュムが近付いてくることに気付いた。
クニカと目が合った途端、シュムの表情は明るくなる。その傍らで、チャイハネの心の色が、リンの質問を受けて灰色に変わったことを、クニカは同時に感じ取った。普段が冷静なチャイハネだけに、クニカはチャイハネの“心の色”の変化が、いつも以上に気を引いた。
半ばクニカに引っ張られるようにして、チャイハネが廊下に出る。そこでチャイハネも、シュムのことに気付いたらしい。チャイハネが息を呑んでいるのが、クニカには分かった。
(チャイ?)
チャイハネの様子が、いつもと違う。チャイハネの目線には、シュムがいる。シュムは、クニカの隣にチャイハネがいることを認めた途端、足を止め、名残惜しそうにクニカのことを見つめながら、去ってしまった。
「あっ……」
隣でチャイハネが、声を上げた。チャイハネの心の灰色が、その濃さを一段と増した。
「チャイ、どうしたの?」
「いや……何でもない」
シュムの去っていった方角を、爪先立って眺めながら、チャイハネが言った。チャイハネの言うことが偽りであることくらい、クニカにもすぐ分かったが、それを指摘することは、クニカには憚られた。
「それで、クニカ」
「え?」
「何だっけ? 相談があるんだろ?」
チャイハネが、優しさから自分に声を掛けてくれていることに、クニカは気付いた。ただ、今ここでクニカが、チャイハネに相談を持ち掛けたところで、チャイハネシュムのことしか頭になく、自分の相談ことなどうわの空に違いないだろうと、クニカには分かった。
それでも、自分の都合で呼び出した以上、何でもなかった、気のせいだった、などということはできない。
「ええっと……」
「――裏切りだって?!」
別の質問に切り替えようと、クニカが考えた矢先。“異邦人の間”から、リンの声がした。




