008_西の巫皇(Западный Жреца)
「起立!」
“異邦人の間”の外から、侍従の声がする。
「あっ、あっ」
チャイハネはすぐに立ち上がったが、クニカはまごついた。自分の考えに没頭していたせいで、「起立」を聞き逃したからだった。
立ち上がったはずみで、座っていた椅子が倒れる。ほぼ同時に、扉が開け放たれ、人が入ってくる。
金色の長い髪を持ったその女性は、チャイハネより少し年上である。服は一切身にまとっておらず、肌は白かったが、大理石のような質感だった。女性の周囲を、三人の侍女が取り巻いている。ひとりは書類の束を、ひとりはペンとインク壺を、ひとりは青いローブを持っている。
空いていた椅子のひとつに、女性が腰掛ける。着き従っていた侍女が、青いローブを女性の肩にかける。その間にも、侍女から渡されたペンを手に、女性はミシンか何かのような手際で、書類に臺押(サインのこと)を書き連ねていく。
「座ってください」
クニカとチャイハネに向かって、女性は――プヴァエティカは、言った。プヴァエティカ・トレ=ウルトラ。クニカたちの庇護者であると同時に、このウルトラ領を治める巫皇である。
「珍しいですね、臺下」
チャイハネが言った。「臺下」とは、巫皇への敬称である。
「あなたの講義を聴きに来ました。あ、これは却下。『説明を尽くしてください』と、長老に言いなさい」
書類の一片を侍女に突き返しながら、プヴァエティカは、脇の下を無造作に掻く。「ボリボリ」という音が、隣に座るクニカのところまで聞こえてきた。
プヴァエティカが全裸で登場したのは、禊を済ましていたからである。天体の運行、巫皇の生まれた年月日、月経の周期、といった様々な要素により、禊の頻度は決まる。しばらく間隔が開くときもあれば、日によって何度も禊を行わなければならないときもある。
プヴァエティカに初めて会った日のことを、クニカは思い出す。あのとのプヴァエティカも、全裸だった。そのような儀礼があるとは知らず、クニカは度肝を抜かれたものだった。
「それは残念」
チャイハネは肩をすくめてみせる。
「いま終わったところです」
「なるほど」
机の上でだらしなく肘をつきながら、プヴァエティカは黒板を眺める。
「板書を見る限りでは、私からも補足できることがありそうです」
「あはん?」
「ビスマーの巫皇ですが、三か月前に新しい巫皇が立ちました」
「えぇ?」
チャイハネが目を丸くする。
「知らなかったな」
「人選は去年に済んでいましたが、即位灌頂の儀が遅れていました」
「新しい巫皇って、どんな人なんですか?」
興味本位から、クニカは尋ねる。
「会ってみてのお楽しみです」
数編の書類に臺押を記しながら、プヴァエティカは言う。
「会う、って」
チャイハネは眉をひそめる。
「いつ会えるかも分からないのに」
「それは大丈夫」
そう言いながら、プヴァエティカは腕を伸ばした。念力にたぐり寄せられ、プヴァエティカの手元に壺が引き寄せられる。その壺の中に、プヴァエティカは痰を吐き捨てる。
何だかな、と、そんなプヴァエティカの様子を見て、クニカは思う。
プヴァエティカに会う前まで、クニカは巫皇を、“巫女”に近いものとして想像していた。神に仕える存在で、清楚で、つつましく、「男の人と手を繋いだことさえありません」のような、そんな存在だと思っていた。
しかし、プヴァエティカを見てほしい。もちろん、気品がないわけではない。育ちの良さは、端々からうかがい知ることができる。しかし、宮殿内を全裸で徘徊するし、人前で無造作に脇の下を掻くし、痰壺には豪快に痰を吐く。プヴァエティカは、清楚さというよりも、むしろ精悍さのほうが目立った。
「明日来る……?」
と、「わたしの考える理想の巫皇」に思いを馳せていたために、プヴァエティカとチャイハネの会話を、クニカは聞き逃していた。
「そうです」
ビスマーの巫皇が、使節を伴って、ウルトラまでやって来るという。
「それは急な話で」
「ええ。ただ、臺押はしてしまいました」
書類の一片を手でつまむと、プヴァエティカはそれを、クニカとチャイハネの前ではためかせる。“ビスマー巫皇のご滞在に関する件”と、書類には書かれている。
黒板に書かれている南大陸の地図に、クニカは目を細める。冒険でクニカが旅したのは、チカラアリとウルトラだけである。ビスマーからどのような巫皇がやって来るのか、クニカはわくわくした。
と、突然、地鳴りのような音が、クニカの隣から聞こえてくる。目を向けてみれば、プヴァエティカが自分のお腹をさすっていた。
「お腹が空きましたね」
「朝食はまだですか、臺下?」
チャイハネが尋ねる。
「ええ。これから朝餉を食べます。どうです、クニカ?」
「え?」
「せっかくですから、一緒に食べませんか?」
髪のひと房を指に巻きつけながら、プヴァエティカは言った。
「チャイ、もうひとつ補足がありました」
「何です?」
「朝餉は、第三次即位灌頂戦争の後にできた伝統です。戦争中はウルトラの物資もひっ迫し、巫皇でさえも食べ物に困る有様でした。そこで、当時ウルトラにあった菓子屋が、巫皇のために餅を供するようになった。これが伝統の始まりです」
「へえ」
「何を言いたいかというと」
プヴァエティカは続ける。
「とてもまずい、ということです。当時の巫皇は『餅はまだか』と待ち望んだそうですが、今はそういう時代ではありません。本当に何の味もないただの餅で、一口噛んだだけで口中の水分が全て持っていかれます。どうです、クニカ? 一緒に食べませんか?」
誰かに操られでもしないかぎり、そんな話を聞かされた後に、「はい! もちろんです臺下!」などと言う人間はいないだろう。転生する前、ニホンに住んでいた時だって、餅を喉に詰まらせて、大勢の人が亡くなっている。味のないお餅を口にしなければならないとしたら、それだけで勤行である。功徳が積めれば良いが、クニカは既に、“おおさじ亭”でバインミーを食べている。だから、「せっかくですけど、遠慮します」と断ろう。
「はい! もちろんです臺下!」
クニカは叫んだ。
「素晴らしい返事です」
プヴァエティカは嬉しそうだった。まるで、「これで道連れができた」とでも言わんばかりの表情だった。
「『喜びを共に喜び、苦しみを共に苦しむ』、福音書の一節です。福音書は確か――いや、あれは小学生時代の学級文庫で――」
立ち上がると、プヴァエティカは侍従を引き連れて去っていく。
「やったな、クニカ。おめでとう」
チャイハネがわざとらしく、真顔で手を叩いている。
「ひどいよ……!」
意に反してクニカが叫んでしまったのは、チャイハネが“細工”をしたからだ。不本意な叫び声を挙げている途中、クニカは、チャイハネが指で印を作っている様子を、ばっちり目撃していた。
「さっき食べたのに」
「飯が二倍なら喜びも二倍だろ。さっきの理屈だと」
チャイハネはあくびをする。
「それに、午後から“ディエーツキイ・サート”だろう? ちゃんと腹ごしらえをしておいて、損はないと思うけどね」
(そうだった!)
“ディエーツキイ・サート”の単語を聞いて、クニカは震え上がる。
「え? あたしの分もあんの?」
だから、戻ってきた侍従の耳打ちに、チャイハネがのけ反っていることなど、クニカは全く上の空だった。




