079_白鷹(Белый орел)
――ゆえに、煩悩は父の真理を知らず、みずからに根を持たず、父について霧の中にあった。(『真理の福音』、第4章)
バスの後部座席から、クニカは、通路の中央に安置された、ミカイアの棺を見つめていた。桜の木で造られた棺は、バスが揺れるたびに、乾いた音を立てた。
棺の中にはミカイアがいる。ミカイアは死んでいるが、ほんの数日前までは、確かに生きて、クニカと話をしたり、笑ったりしていた。死と生は隣接していて、切れ目がないように見えて、しかしその間には、透明な帳が横たわっている。
クニカとリン、カイ、フランチェスカ、そしてジイクとアアリは、チカラアリに別れを告げ、シャンタイアクティを目指している。
――山小屋を目指すんだ。
なけなしのガソリンを積んだ、バナナ色のバスに乗り込んだクニカたちに、ジイクはそう告げた。
――山小屋?
――うんにゃ。山小屋は騎士団の中継基地なんだ。そこで白鷹を待つ。
――白鷹?
クニカに代わって、今度はリンが、ジイクに尋ねる。“鷹”の魔法使いとして、気になったらしい。
――会ってみてのお楽しみさ。シノン、っていうんだ。いい子だよ、堅物だけど。
そう言うと、ジイクははにかんでみせる。
休憩時にも、クニカとジイクは会話をした。ジイクや、ペルガーリアの声の低さについてである。
――“男性的処女”?
聞きなれない言葉を、クニカは繰り返す。
――って、何ですか?
――生まれつき魔力の強い子は、自分自身の魔力に影響を受けて、身体に影響が出る。魔術性疾患、というやつで、髪の毛が変わった色をしていたり、瞳の色が左右で違ったり、風邪をひきやすかったり、オイラとアアリみたいに、姉妹で皮膚の色が違ったり、ね。
そう言いながら、ジイクはウィンクしてみせる。
――あとは、オイラやペルジェみたいに、男性のように声が低くなる作用もある。これが、魔術性疾患に由来する“男性的処女”なんだ。“男性的処女”に該当する魔法使いは、ほかの人たちに比べて、全体的に魔力が強いんだよ。
そうなんですか、と口にしながらも、クニカは自分のことを考えていた。経血に代わり、精液が流れる、クニカの特殊な“リエゴーイ”。あれも“男性的処女”の作用なのかもしれない。ジイクに尋ねてみようか――と考えたものの、勇気がなく、クニカは訊けなかった。
――魔力に由来しない“男性的処女”もいる。
クニカの逡巡に、ジイクは気付かなかったようだった。ジイクはそのまま話を続ける。
――魔法の属性それ自体が、男性の作用を持っていることもある。ひとり、“孔雀”の魔法使いの子がいるんだけれど、その子の翼は、雄の鮮やかな羽なんだ。だから“男性的処女”。うらやましいよ。
そう笑っていたジイクは、今は運転席に胡坐をかきながら、シタールを奏でている。バスがのしのしと山道を上っていけるのは、ジイクが念動力を使って、器用にバスを運転しているからだ。
シタールの音色は、はっきりとした輪郭を備えた水の粒が、一つずつ水面に弾けては水紋を広げていくような、そんな音だった。ジイクの隣では、カイが足をばたつかせながら、窓の向こうの鳥瞰を眺めている。
「うんこ! 象のうんこ!」
シタールの音色に紛れ、素っ頓狂な声が聞こえてくる。
バスの中腹では、先ほどからずっと、フランチェスカとアアリが、数学の問答をしていた。フランチェスカは、持参した小型の黒板に、チョークで数式を殴り書きながら、「無限」やら「冪乗」やらを、アアリに向かってまくし立てている。ときどきアアリも、フランチェスカに何かを言うのだが、そのたびに、フランチェスカは先ほどのような甲高い口調で、アアリの言ったことを否定するのだった。
とはいえ、アアリが数学ができないわけではなさそうだった。機会を捉えては、二人の会話を理解しようとするのだが、クニカは全く歯が立たなかった。二人はそれくらい高度な話をしているのだが――おそらくは、フランチェスカが出来過ぎるのだ。
「脳みそがうんこ!」
チョークでアアリのことを指し示しながら、フランチェスカが屈託のない笑顔で言った。
「人格を否定する!」
(かわいそうに)
同情心がめばえ、クニカは、アアリの表情をそっとぬすみ見た。数学談義の初めこそ浮かない顔をしていたアアリだったが、フランチェスカがあまりにも天真爛漫に暴言を吐くため、一周回って失笑していた。
「クニカ、」
そのとき、クニカの側から、リンの声が聞こえた。と同時に、クニカは自分の頬に、冷たくて硬いものがあてがわれたのを感じ取った。振り向いてみれば、リンが両手に、瓶詰のコーラを握っている。
「リン?」
「ジュネがくれたんだ。『二人で飲め』ってさ」
「ありがとう」
「いつ渡そうかと思ってさ」
ナイフを取り出すと、リンはその切っ先で、小気味よく王冠を剥がす。
「すぐに渡そうと思ったけど、お前、何か考えてるようだったから」
「うん。ミカのこと……考えてた」
クニカの隣に腰掛けると、リンがコーラを呷る。クニカも真似して、瓶を口につけた。コーラの甘味とともに、柑橘の風味が、クニカの鼻孔をくすぐる。
「お前のせいじゃない」
王冠を手でもてあそびながら、リンは答える。
「でも……」
「お前がいなければ、あそこにいるみんなが、ニフリートにやられてた。それをお前が救った。ミカイアだって分かってくれる」
瓶の表面で凝縮した水滴が、クニカの手を流れ、バスの床にこぼれる。もし本当に自分が“救世主”ならば、ミカイアの命だって救うことができた。クニカはそう考える。
――今のままでいいんだよ、クニカは。
浴場で会話したとき、クニカはそのように、ミカイアに諭された。ミカイアは死んで、クニカは生き残っている。
今のままではダメなように、クニカには思えた。
「すっかり山だな」
コーラの瓶を手に持ったまま、リンが身をよじって、バスの後方を眺める。リンの視線は、過ぎ去っていく故郷・チカラアリの方角に注がれていた。
バスは、山の中腹にあった小屋にたどり着いた。
◇◇◇
山小屋の脇、段差からむき出しになっている錆び付いたパイプから、水が潺々と溢れている。水はそのまま小川を作り、赤茶けた粘土質の山肌を滑って、麓まで流れていく。
小川の中に無造作に膝立ちになると、パイプから流れる水を、カイは両手で掬う。そのままカイは、旨そうにそれを飲んだ。
リンが目を細める。
「大丈夫か、カイ? 何の水なんだか――」
「地下の湧水さ」
空を見上げながら、ジイクが言った。
「ホントは手押しポンプと繋げたかったんだけど、地面が固くてね。魔法陣で無理やり水を引き上げて、垂れ流すことにしてある」
ジイクの話の途中から、リンは靴を脱ぎ、靴下を脱ぐと、小川にまっすぐ突っ込んでいく。ぬかるんだ水底がかき回され、雲のようになった。
カイの隣で、カイのように膝立ちになると、パイプから溢れる水を、リンは直に飲み始める。そのままリンは、首筋を水に浸した。周囲は蒸し暑い。水が安全と分かり、リンは我慢できなくなったのだろう。そんなリンの様子を見て、クニカもジイクも笑ってしまった。
「いいだろ、暑いんだから――」
リンはヘアゴムを外す。ひと房に束ねられていた、リンの黒髪が解き放たれる。
「いいさ。誰も悪いなんて言っちゃいない」
「で、さっきから何やってんだ?」
「“白鷹”を探してるのさ」
「なら、手伝うよ」
小川から抜け、髪を束ね直しながら、リンが言う。
「オレも“鷹”だし、目はいい方なんだ。たぶんオレの方が――」
「心配は要らないよ、リン。目立つんだ、彼女」
「目立つ?」
「そうそう。――ほら、噂をすれば」
ジイクが指さす方向に、クニカは目を向ける。空の青さの向こう側、クニカたちのはるか遠くに、白い点のようなものが映り込んでいる。
「何だよ、あれ――」
信じられないとばかりに、隣でリンが言う。リンの言わんとすることは、クニカにも分かる。月や、星や、そのぐらい遠い位置を、“白鷹”は飛んでいるように見える。にもかかわらず、肉眼で判別できるほど、“白鷹”ははっきりと見える。
白い点は、次第に大きさを増していき、翼の輪郭が、クニカにも明らかになる。名前のとおり、翼は白かった。
「すごい……」
クニカは息を呑む。同じ“鷹”といえど、リンの比ではない。翼の影に、大瑠璃宮殿が全て収まってしまうのではないかというくらいの大きさだった。
これほどまでの大きさならば、誰であっても見逃すことはないだろう。むしろ翼の白さのために、目立ちすぎてしまうくらいだ。
大き過ぎる翼の中心に、人の姿が見えるようになるまで、それから何分もかかった。“白鷹”の使徒騎士は、翼に似た白色の長髪に、灰色の瞳を持つ少女だった。
人物の姿が分かるようになってきて、初めてクニカは、彼女の周りに、何人かの少女が付き従っていることに気付いた。“白鷹”の部下だろう。全員、翼をはためかせていて、その柄や形状は、人によってまちまちだった。ただ、“白鷹”ほど大きな翼を備えたものはいなかった。
中空まで差し掛かった“白鷹”が、一回翼をはためかせる。ジェット機が頭上を通り抜けるような轟音とともに、山小屋周辺の大気が震え、持ち込まれた冷気のために一瞬、涼しくなった。
“白鷹”は翼を折りたたむと、羽ばたいたときの推進力をそのままにして、バスの隣に着地する。弾丸のような速さで降り立ったというのに、“白鷹”の周りは、土埃ひとつ舞い上がらなかった。
「早かったな、シノン」
「ジイク、無事で良かった」
ジイクの下に、“白鷹”は駆け寄る。シノン、というのが、この使徒騎士の名前のようだった。シノンにつき従ってきた、ほかの騎士たちも、皆地面に降り立って、翼を折りたたむ。シノンを含めて、やって来たのは三人だった。
「アアリは?」
「バスん中さ。数学談義で、姫に捕まってる」
そう、と呟いたシノンと、クニカは目が合う。クニカは一歩、シノンの側まで歩み寄った。
「初めまして。わたし、カゴハラ・クニカです」
「シノンと申します。シノン・ボイサナン」
はっきりとした口調で、シノンは答える。
「巫皇の星旨により、使徒騎士・熱心党を拝命しております。以後、お見知りおきください」
「は、はい」
「ほら、二人とも!」
遅れてやって来た二人の騎士に、シノンが声を掛ける。
「遅い」
「すみません」
「クニカ様に挨拶を」
「はい。――初めまして。エリカと申します」
エリカという名前の、赤毛のショートヘアの少女が、クニカに挨拶をする。
「私は、キーラです。クニカ様、よろしくお願いします」
黒髪の、キーラという名前の少女は、そう言って頭を下げる。
「よ、よろしく――」
「二人とも準騎士になりたてですが、今回の任務に志願をしましたので、連れて参りました」
「準騎士?」
聞きなれない単語を、クニカは訊き返す。
「星誕殿に入って一年は、見習いとして修業をします。それから準騎士になって、更に修業を続けるならわしです」
シノンが説明を続ける。
「心・技・体、真・善・美、それら六つの徳を満たした者が、騎士に叙任されます。煩悩に惑わされ、徳を欠く者は騎士になれません。厳しい世界です」
説明を受けている間、クニカはエリカとキーラをかわるがわる見た。二人とも、クニカよりも年下だろう。それでも、自分よりもはるかに大人びているように、クニカには見えた。
「姫に挨拶してくる」
シノンが踵を返す。
「二人はここで待ってろ。私が呼んだら、バスまで来るように」
「は、はい……」
「――二人とも、任務に志願した理由は?」
シノンが去っていくのを見やりつつ、ジイクが、エリカとキーラに尋ねる。
「その、救世主様にお会いしたくて……一目見ようと……」
「それだけ?」
「ええっと……」
まごついているエリカの心の辺りに、灰色のもやがかかったのを、クニカは見て取った。灰色は動揺を表す色で、エリカとキーラは、何かを隠しているようだった。
「ミカなら、小屋の中さ」
そんな二人の様子にほほ笑むと、ジイクは言った。
「ミカに会いに来たんだろう? 分かってるさ。だからシノンも、わざと先に行ったんだ。ほら、一緒に行こう」
「は、はい! ありがとうございます……!」
ジイクに目配せされ、クニカも頷いた。それから、エリカとキーラの二人を先導するようにして、山小屋の中へと入る。
小屋の中央に、ミカイアの棺は安置されていた。天井に描かれた魔法陣からは、冷気が放たれている。部屋の中は、肌寒いくらいだった。
クニカとジイクは、エリカとキーラのために道を空ける。駆け寄ると、エリカはそっと、棺の蓋をずらす。
「ミカ先輩……」
ミカイアの顔にじっと視線を注ぎながら、絞り出すようにして、エリカが言った。クニカの見守る前で、エリカとキーラの瞳から、大粒の涙がこぼれ始める。
「まだ……稽古をつけてもらってる途中だったのに……お礼だって……何にも言えてないのに……」
――強くなんかなくたっていい。
泣いている二人の準騎士を前にして、ミカイアの言葉が、クニカの心の中に蘇ってくる。死ぬ間際に、ミカイアが言っていた“希望”。それは、ここにいる準騎士たちが、脅かされることのないような未来のことなのだと、クニカは思った。
そうだとすれば、クニカが今のままでいいはずはなかった。
「エリカ、キーラ」
二人に声を掛けようとした矢先、山小屋の入口から、シノンの声が響いた。シノンは早々に、フランチェスカへの挨拶を済ませ、舞い戻って来たらしい。
「何を泣いている」
立ち上がったエリカは、何かを言おうとしていたが、自らの嗚咽のために、それができない様子だった。
「感情に振り回されるな、エリカ」
そんなエリカを見て、シノンが言う。
「煩悩に惑わされている」
「でも……ですが……!」
「口答えはするな」
シノンの叱責に、小屋全体が静まり返る。ただ、準騎士たちのすすり泣きが聞こえるだけだった。
「エリカ、」
そう呼びかけると、シノンは近付いて、エリカとキーラの身体をそっと抱きしめる。
「先輩……?」
「ミカが死んだのは、私だって悲しい。ミカを救ってやれるだけの力が、私たちにはなかった。キミたちの悲しみは私が預かる。だから泣くんじゃない」
「はい……」
“私たち”、シノンはそう言った。シノンはその言葉を、シャンタイアクティの騎士たちを指して言った。頭では分かっていても、クニカはその言葉が、自分に突きつけられているような気がしてならなかった。




