078_語り得ぬもの(Что мы не можем говорить)
――大いなる言い表せない光が彼らを取り巻き、言い表せない見えざる天使たちの群れが彼らを賛美していた。(『ペトロの黙示録』、第28章)
「これからどうするの?」
料理とともに供されたりんご酒を飲みながら、クニカはニコルに尋ねる。
「まだ決めてないんだ」
ニコルはうつむいた。
「脱走して、ここまで逃げのびたはいいけれど。戦争が終わらなくちゃ、どうしようもない」
クニカとリンは、互いに目配せし合う。クニカたちはこれから、シャンタイアクティまで向かうつもりだ。しかし、もしニコルがともに着いてくるとなると、話はややこしくなる。
そもそも、ニコルが“カタコンベ”を追われたのは、オリガの企みによるものだ。ニコルと一緒にいることを、オリガは快くは思わないだろう。
「何だ、決まってねえのか。良かったぜ」
そのとき、たらふく食べた満足からか、うたた寝をしていたはずのニキータが、不意に声を上げた。
「良かった? 何が良いんだよ、オッサン」
「決まってねえんだったらさ、ここに残ればいいって思ったのさ」
「ほ、本当に?」
ニキータの言葉に、ニコルの目の色が変わる。
「いいのか? 俺が残って?」
「当たり前よ。それにアンタ、ウチらに負けず劣らず、仕事熱心だって思ったんだ。どこの国の奴かなんて関係あるか」
「ありがとう……!」
ニキータの言葉に、ニコルは指で眉間を押さえ、嗚咽を漏らした。
「良かったね、ニコル。ね?」
クニカは、リンにも同意を求める。言葉には出さなかったが、リンもしきりに頷いていた。
そのとき、
「おい、姫だ!」
と、別のテーブルから声が上がった。食べることに夢中になっていた人びとは、声を聞いて一斉に振り返る。フランチェスカが、小脇に分厚い本を携えて立っている。
「あ……? ニコル……?」
フランチェスカはきょとんとして、クニカたちの座るテーブル、その中央にいるニコルを見つめていた。
「おい、遅すぎるだろ!」
手に持っていたりんご酒のグラスを一気に飲み干すと、リンが立ち上がる。フランチェスカはまだ、状況が呑み込めていないようだった。
「もう終わっちまったよ、ニコルの審問は」
「え? 結果は……?」
「無罪だ」
違うわよ、無罪じゃなくて、飽くまで“預かり”なのよ――隣の席で、チカラアリ人の聖職者たちと議論をしていたアアリが、クニカたちの方を振り向いてそう言った。アアリは「預かり」という言葉にこだわりがあるらしかったが、隣にいる姉・ジイクにたしなめられていた。
「そうだったんだ」
「フラン、その本は何?」
ホッとした表情を浮かべるフランチェスカに、クニカは尋ねる。
「『ぞうさん丸わかりガイドブック:これであなたも、明日からぞうさん【完全版】』よ」
「ぞうさん丸わかり――」
「そう。これを全て暗記すれば、どの象が、いつ、どの場所で、何色のうんこを出すのか、寸分の違いもなく予言することができる」
「そうなんだ……」
たじたじになっているクニカの脇を通り過ぎると、その『ガイドブック』を、フランチェスカはニコルに手渡した。
「お、俺か?」
「馬の世話が得意だ、って聞いた。ここに馬はいないけれど、私に代わって、象たちの面倒を見てほしい」
「すごい情報量だ」
『ガイドブック』を一枚ずつめくりながら、ニコルは言う。
「木の幹のように分厚くて、レンガのように重い。文字はゴマ粒みたいだ。――でも、分かったよ。期待に応えられるか分からないけれど、象たちの面倒は俺が見る」
「良かったな、決まりだ」
リンゴ酒をあおりながら、ニキータが言った。
「クニカー!」
背後から自分を呼ぶ声に、クニカは振り向いた。カイが立っていて、手にはレンズのついた、大型の機械を持っていた。カメラだった。
「何、そのカメラ?」
ちょうど、空いた皿を下げるためにやって来たジュリが、クニカに代わって、カイに尋ねた。
「もしかして、ガラクタの中から見つけたわけ?」
「ン!」
「見せてよ。……あ、まだフィルムが二枚残ってる!」
「ちょうどいいじゃねえか」
立ち上がると、ニキータがカメラを預かった。
「おじさんが、みんなを撮ってやんよ。ほら、ジュネちゃんも!」
「え、何だよ?!」
ニキータに声を掛けられ、別の客に料理を配膳していたジュネが、クニカたちのいる席まで近づいてきた。
「ほら、クニカちゃんも!」
「わ、分かった。フランも」
「え?」
クニカの呼びかけに、フランチェスカが目を白黒させる。
「私も?」
「そりゃそうさ。クニカちゃんに、姫。二人が主役さ」
人ごみの反対側に誘導され、クニカとフランチェスカ、リンとカイ、ジュネとジュリが、それぞれ一列に並んだ。
「それじゃ、撮るからな」
フラッシュが焚かれるまで、一同は行儀よく並んでいたが、いっこうに写真が撮られる気配がなかった。
「おい、どうしたんだよ、オッサン」
初めに異変に気付いたのは、ジュネだった。カメラを下げると、ニキータは二の腕で、顔の辺りを何度も拭っていた。ニキータは泣いていた。
「ゴメンな、ジュネちゃん。何か、泣きたくなっちまったんだ。悲しいんじゃないんだ……」
「ニキータさん、俺が撮るよ」
鼻をすするニキータから、ニコルがカメラを受け取る。
「それじゃ……いくぜ」
ニコルのかけ声とともに、フラッシュが焚かれた。
「ヤダ! 目閉じちゃったかも」
「何言ってんだよ」
フラッシュが焚かれてすぐ、ジュネとジュリの姉妹が色めきだった。
「まだ一枚撮れる」
手に持ったカメラを見回しながら、ニコルが言った。
「何を撮ろうか?」
「クニカが決めればいいと思うゾ」
「わたし?」
「ン!」
「いいかもな」
カイの提案に、リンも賛同する。
「残り一枚はさ、クニカがさ、好きな写真を撮ればいい」
差し出されたカメラを、クニカは受け取る。想像していた以上に、カメラは重かった。
ふと顔を上げたクニカの視界に、リンとニコル、二人の姿が切り取られる。
――アイツラ、オ互イニ惹カレ合ッテイルンダナ。
以前、“カタコンベ”にいたサリシュ=キントゥスの人が、リンとニコルのことを、そう言っていたの。リンはこれから、クニカと一緒に、シャンタイアクティまで向かう。ニコルは戦争が終わるまで、このチカラアリに留まり続けるだろう。
クニカの思いは決まった。
「じゃあ、リンとニコル」
「え?!」
クニカの言葉に、リンが素っ頓狂な声を上げる。その隣では、ニコルもそわそわしていた。
「何でオレとニコルなんだよ! ほかにあるだろ、撮んなきゃいけないもの」
「わたし、リンとニコルがいいな、って思ったんだ」
「いいじゃん、リン。恥ずかしがんないでさ」
ジュリがにやつきながら言った。
「だいたいさ、リンだって、『好きな写真を撮ればいい』って言ってたじゃん」
「ちぇっ。分かったよ。特別だかんな。あと、一枚だけだぞ!」
「何言ってんだよ、初めから一枚しかねえだろ」
「ハ、ハ!」
ジュネのツッコミに合わせて、カイが笑い声を上げる。
「それじゃ、撮るね」
ファインダー越しに、クニカはリンとニコルを見る。二人とも、お互いを意識し合っているのか、妙な距離感があり、互いに少しだけ、外を向いていた。
「もっと近寄って。正面向いて――」
クニカの指示に、二人は渋々、と言った様子で近づき、正面を向いた。
「撮るね――」
そう言ってから、シャッターを切るまでの間。その間はわずかだったが、こみ上げてくる切なさの前に、クニカは立ちすくんでしまった。どうしてニキータが泣いてしまったのか、その理由が、何となく分かる気がした。それは語り得ぬもの、語り得ぬ感情だったが、とても大切なものであるように、クニカには思えた。
「リン、ニコル、ありがとう――」
この場にいる全ての人たちに「ありがとう」と言うつもりで、クニカはシャッターを切った。
「第4章:チカラアリ少女行(В Чикараари)」は、本話にて終了です。来週(7/21)から「第5章:時間と自由(Опыт о непосредственных данных сознания)」に入ります。




