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ラヴ・アンダーウェイ(LOVE UИDERW∀Y)  作者: 囘囘靑
第4章:チカラアリ少女行(В Чикараари)
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076_手ごろな命題(Краткое предложение)

――もし、救い主が彼女をふさわしい者としたのならば、彼女を軽んじるあなたとは、いったい何者であるのか。(『マリヤによる福音書』、第18頁)

 クニカは目を覚まし、朝露の匂いを嗅いだ。心臓は高鳴っており、興奮を鎮めるために、クニカは胸の辺りを押さえつける。瞳を閉じれば、まぶたの裏に、霊長と竜の姿が蘇ってくる。自分は伝承に呼ばれたのだという感覚に、クニカは確信めいた気持ちを抱いていた。


 起き上がったクニカの足下に、紺色のタオルケットが滑り落ちる。眠り込んでいた自分の身体に、だれかが羽織らせてくれたものだろう。そう考えた矢先、クニカは、同じ部屋の窓の側で、同じ紺色のタオルケットにくるまって、リンが寝息を立てていることに気付いた。


 リン、ありがとう。――心の中で呟くと、クニカはタオルケットを拾い上げ、それを折りたたむ。窓から差し込んでくる陽射しはかすかだったが、やがて暑くなるだろうと、クニカは予感する。


 そのときだった。足のつけ根の辺りから、疼痛が押し寄せてきた。


 唇を嚙みしめると、折りたたんだばかりのタオルケットを、クニカは広げ直す。それを自分のお腹に当ててさすると、クニカは静かに、部屋を抜け出そうとする。


 痛みは、регулЫによるものだ。この頃には、クニカも、自分のрегулЫと、一般的な月経(リエゴーイ)との違いに気付いていた。それが訪れる前、クニカは必ず、“(ドラクォン)”の魔法を使い過ぎ、魔力を使い果たしていた。регулЫは、その反動なのだ。


 口だけで息をしながら、クニカは公会堂内のトイレを目指す。リノリウムの床をすり足で歩きながら、トイレまで何とかたどり着き、そのときにはもう、内臓が外に押し出されてしまうのではないかというほど、痛みは激しくなっていた。


 くずれ落ちるようにして、クニカは便器にもたれかかる。扉を閉める余裕はなかった。足のつけ根からは、精液がほとばしり、便器の中へ吸い込まれていった。


 痛みが退いていく。クニカは落ち着きを取り戻す。足のつけ根にこびりついた精液を、右手ですくって、クニカは便器に捨てる。水が流れないかと、天井からぶら下がる鎖を、クニカは引っ張った。水は出ない。


 洗面台まで行くと、クニカは蛇口をひねる。今度は水が出て、クニカは右手を洗い流す。両手で水をすくうと、便器の中にそれを流し、精液を洗い落とす。


 今日とこの前とで、やっていることは変わらない。全てを終えると、クニカはもう一度手を洗ってから、正面にある鏡を見上げた。以前と変わらないクニカが、鏡の前にいる。


 クニカは、部屋へ戻ろうとする。そのとき、隣の部屋の扉が開け放たれていることに、クニカは気付いた。ミカイアの遺体が安置されている部屋だ。


 タオルケットを腕に抱きしめながら、クニカは部屋を覗き込む。入口に顔を近づけたクニカは、部屋から冷気が押し寄せてくることに気付き、わけもなく息を殺した。


 ミカイアの棺の側に、人影が座り込んでいる。赤髪を二房に束ねた、色白の少女――フランチェスカが、そこにいた。


「フラン?」


 クニカは部屋に入る。部屋の壁には、紫のチョークで魔法陣が描かれている。これが冷気の正体だ。伝わってくる(アウラ)から、クニカはこの魔法陣が、ジイクとアアリの産物であると直感した。ミカイアの亡骸が悪くならないようにという、ジイクとアアリの配慮だろう。


 タオルケットを、クニカは肩に羽織る。


 クニカに気付き、フランチェスカは立ち上がる。


「平気?」

「うん。フランこそ、大丈夫?」

「私は大丈夫」

「何してたの?」

「側にいてあげてた」


 伏し目がちに、フランチェスカは棺を見る。棺の中のミカイアは、眠るように穏やかな表情だったが、顔は白く、目は落ちくぼんでいた。どこか遠いところへ行ってしまったミカイアの魂に遅れ、身体も遠くへ消え去ろうとしている。そのことに気付き、クニカは押し黙る。


「姉のときもそうだった」


 フランチェスカが言った。


「お姉さん?」

「姉が死んだときも、私は一晩中そばにいた。アルファが――象が死んだときもそうだった。アルファという名前は、私が名付け親で、最初に名付けた象だったから。私よりも後に生まれて、私よりも大きくなって、私より先に死んだ」


 フランチェスカは鼻をすする。そのとき、部屋の外から、象の鳴き声が聞こえてきた。クニカが振り向くと、一匹の小象が、鼻を高く持ち上げながら、フランチェスカまで近づいてきた。


「デルタ、」


 フランチェスカは目をいからせる。


「出てきちゃダメだって、言ったのに」

「寂しそうだね」


 フランチェスカが差し出した手に、“デルタ”と呼ばれた象は、鼻先をそっと乗せる。


「この子のお母さんは、デルタを産んだあと、すぐに死んでしまった。だから、小さいときから、私が面倒を見ている」

「そうなんだ」


 デルタの頭を、クニカは撫でる。デルタは目を細め、鳴き声を上げた。


「嬉しいみたい」

「良かった」

「競技場まで行こう。デルタを帰さないと」


 デルタを連れながら、クニカとフランチェスカは、外へ出る。



   ◇◇◇



 薄曇りの空からは、陽射しが差し込んでいる。気温が上がっていくのを、クニカは肌で感じ取った。


 公会堂から競技場までの道のりは、ちょっとした公園になっている。白い石畳の隙間から生えている野花を見やりつつ、クニカは自分のつま先を目で追っていた。その傍らでは、デルタに近付いてくるハエたちを、フランチェスカが手で払いのけている。


 小象のデルタは、目に映るもの全てに興味津々のようだった。フランチェスカを探すための道のりでは、心細かったために、周囲の様子など気にも留めなかったのだろう。今、傍らにフランチェスカがいるために、デルタは安心しきって、あちこちに鼻を振り向け、大きく耳を広げていた。


「クニカ、話してもいい?」


 公会堂と競技場との中間に差し掛かった頃、おもむろにフランチェスカが話し始めた。


「何?」

「私が中学生だった頃、担任の先生は、数学の顧問だった。ただ、厳密な意味において、数学の能力は私の方が上だった」

「そうだったんだ」


 フランチェスカの言い方が面白く、クニカは笑った。


「だから私は、先生の授業は、真面目に聞かなかった。学校は、できない生徒を及第させるための制度だから、私は放置されていたと思う。だけど、私が数学のコンクールで賞を獲ったとき、誰よりも喜んでくれたのが、その先生だった。私は、先生がどうして喜ぶのか、そのときは良く分からなかった」

「その先生って――」


 フランチェスカの語り方に、不吉な影がちらつき始めたのを、クニカは感じ取った。今はどうしているの? そう尋ねようとしたクニカだったが、フランチェスカが、まだ尋ねられることを望んでいないような気がしたため、クニカは言葉を呑み込んだ。


「思えば、授業が終わった後も、先生は遅くまで残って、出来の悪い生徒たちのために、作問を続けていた。ただ、中学を卒業してから、私はその先生を忘れていた。先生がどうなったのかなんて、気にも留めなかった」


 競技場の入口に、二人と一匹はたどり着く。ゲートをくぐり抜けたときには、競技場内で安らいでいるほかの象たちの鳴き声が、クニカのところまで聞こえてきた。


「それから、姉が死んで、“黒い雨(ドーシチ)”が降った。“(プリンツェーサ)”と呼ばれるようになってから、私は先生の消息を聞いた。“黒い雨”の中、子供たちを逃すために、先生は犠牲になった」


 大きな鳴き声を発すると、デルタは一目散に、アリーナの中央へ駆け出していく。アリーナの中央では、“お母さん”を中心にして、何匹もの大人の象たちが、ゴム製のプールから鼻で水をすくって、水浴びをしているところだった。


「繰り返しになるけれど、死んだという話を聞くまで、私は先生をすっかり忘れていた。だけど、死んだと聞いてから、今度は先生のことが頭から離れなくなった。その理由は分からなかった」


 水浴びをしている象たちのことを、フランチェスカは眺めている。そんなフランチェスカの横顔を、クニカは見つめた。


「だけど、今なら分かるかもしれない。いい人だったから、その人は死んでしまった。ミカイアがそうだったように」


――友達になってあげてほしいんだよ、カノジョの。


 浴場で交わしたミカイアの言葉が、クニカの記憶に蘇ってくる。ミカイアはずっと、星誕殿(サライ)にいる仲間を心配していた。フランチェスカを心配していた。


――約束してほしいんだ。フランの友達作りの世話をしてくれる、って。


 あのとき、ミカイアは言っていた。しかしもう、フランチェスカの友達作りを、ミカイアは手伝うことができない。


 生き残った自分に、生あるものの全てが託されている。――クニカは、そんな気がした。


「ハァ、何でだろう?」


 ため息交じりのフランチェスカの言葉に、クニカは現実へと引き戻される。


「こんな話をしたって、何にもならないの」

「ウウン。そんなことない、と思う」

「ありがとう。よく分からないけれど、心が軽くなった」

「あのさ、わたしも……思い出したことがあるんだ」

「何?」

「友達になってほしいんだ、わたしと」

「え?」


 実際にフランチェスカが口を開くまでには、間があった。


「その、『友達になってほしい』とは、『友達になってほしい』という意味での、『友達になってほしい』という言葉?」

「そう。あんまり『友達になって』って言って友達になることって、ないかもしれないけれど」


 動転した様子のフランチェスカに呑まれ、クニカの言葉もしどろもどろになる。


「友達……」

「うん」

「クニカと私は、友達だ」

「そう」

「『クニカとフランチェスカは友達である』」

「そうだよ?」

「ハ、ハ! いいな」


 空を見上げながら、フランチェスカが笑う。


「『クニカとフランチェスカは友達である』か。いいな。手ごろな命題で、いつまでも呟いていられる……」


 そう口ずさむフランチェスカは、まるで、宝物を大切にしようとする子供のように無邪気だった。

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