065_目玉焼きには何かける?(Что ты натяжешь на жареное яйцо?)
「ウーン」
新生“おおさじ亭”の軒先から、ジュリは空を見上げる。明け方は晴れ模様だったが、今は旧市街全体に、薄い雲がかかっている。
この様子では、午後には“黒い雨”かもしれない。そうなれば、せっかく開店にこぎつけた新生“おおさじ亭”も、初日から臨時休業である。
「ふあーあ」
店の奥、仮設の厨房から、ジュネのあくびが聞こえてくる。夜を徹しての店の片づけで、ジュネも眠いのだろう。
店のガラクタを放り出していくうちに、ジュリはこの店舗が、元は理髪店だったのではないか、と考えるようになった。ガラクタを投げ出し、使えそうなものを選別し、掃除をすればするほど、店はますます理髪店らしくなった。
しかし、そんなことを気にするほど、ジュネもジュリもヤワではない。そもそも
「良い料理人は場所を選ばない」
というのが、ジュネの口癖である。くだけた鏡はすくい取って側溝に棄て、たたき割られた洗面台は、覆いを被せて見えなくさせる。ガラクタの中には、ちょうど良い大きさのベニヤ板もあった。それを横にして、ビールケースの上に乗せてみれば、即席のテーブルの完成である。
「暇ねえ」
「うるせえ」
ジュネの声とともに、魚醤のなじみ深いにおいが、ジュリの鼻孔をくすぐった。父の代から受け継いでいる、“おおさじ亭”伝統のソースを、ジュネは仕込んでいるようだった。
「カイを信じろ。旨そうなものを持ってきてくれる。やれることをやるしかねえ」
「何がやれるってんのよ」
「客を! 待つ!」
「だから待ってるじゃんね、さっきから」
カイが姿を現したのは、店の片付けが、山場を越えたときだった。クニカを探していたカイは、さまよううちに、ジュネとジュリのところまでたどり着いたのだという。カイは
「海が見たい!」
と言っていた。
そうだねえ、カイの目的だもんねぇ、と笑いながら、二人は海岸の方角と、そこまでの近道を、カイに教えた。ジュネは、
「魚を見たら、捕まえてきてくれよな!」
と、カイに併せてお願いしていた。
身をよじると、ジュリは厨房を眺める。ジュネはといえば、片付けが終わった後も、ひっきりなしに動き続けている。コンロの設置は、すでに終わっている。ジュネは、一方のコンロでソースを仕込みながら、もう一方のコンロでは鉄鍋を空焼きして、油を返している。
「どうするん? 雨降ってきたら」
「心配すんな。そんな臭いじゃねぇ」
“犬”の魔法属性であるジュネは、抜群の嗅覚を持っている。食材の仕込みも調理も、ジュネは匂いから、最適のタイミングを掴み取れる。雨降りの臭いを嗅ぎ分けることなど、ジュネには造作もない。
「万が一降ってくりゃ、そのときはそのときよ」
「はあーっ」
ジュリのため息も、コンロの火の音にかき消える。
◇◇◇
「ちょっと!」
声が聞こえたような気がして、ジュリは目を開ける。自分でも知らないうちに、ジュリはテーブルに突っ伏して、寝入ってしまっていた。
振り向いてみれば、仕込みを終えたジュネも、小さな脚立に腰を下ろし、寝入っていた。座ったままの姿勢で眠ろうものなら、全身が痛くなってきそうなものだが、ジュネは眠り込んでいて、起きる気配がなかった。
声の方角に、ジュリは目を細める。視界の中央、灰と瓦礫にまみれている“旧市街”の通りに、紺色の外套を身にまとい、フードを目深に被った人が立っていた。
声は遠くから聞こえたので、この人の声ではないのだろう、と、ジュリは判断する。机に突っ伏し、寝たふりを決め込みつつも、ジュリは腕のすき間から、その人をぬすみ見る。唐草模様の風呂敷と一緒に、その人は、長剣を背負っていた。
「ちょっと、ジイクったら!」
かん高い声とともに、路地の奥から、別の人影が現れる。起き抜けにジュリが聞いたのも、この声だった。その人影も、身なりはもう一方とそっくりだった。ただし、こちらの外套の色は緑で、背負っているのは風呂敷ではなく、背嚢だった。そして、紺色のフードの人と同じように、長剣を背負っている。
「どこへ行こうとしてるのよ!」
緑のフードの人が、“ジイク”と呼ばれた紺色のフードの人に声を上げる。
「公会堂はあっちでしょ。寄り道してる場合じゃないんだから!」
公会堂――その単語を聞きつけ、ジュリはドキリとする。この二人は、クニカたちのところを目指しているようだった。
「いいじゃんかー。アアリ」
“ジイク”と呼ばれた紺色のフードの人が、緑のフードの人にそう言った。“ジイク”も“アアリ”も、背格好は同じくらいだったが、ジイクの声は、いたずらっぽい男性のような声だった。
「街がどんな様子なのか、オイラたちだって、ちゃんと見ておかないと。“姫”に怒られちゃうかもしれないだろう?」
「それはそうだけど……」
二人の会話に、ジュリは耳をそばだてる。
二人組は、クニカたちに用があるらしい。サリシュ=キントゥス帝国の兵士ではないだろうが、“自由チカラアリ”の関係者でもなさそうだった。
「でも、だとすれば、こんな路地に立ち寄ることなんてないじゃない?」
アアリの声が聞こえる。
「大通りまで出ましょうよ」
「うんにゃ、アアリ。でもさ、通りから離れてるからこそ、分かることもあるんだって、オイラ思うんだ」
「何よ?」
「例えば、あそこのお店」
ジュリは、ジイクが自分たちの店を指していると感じ取った。
「あそこ? ……うわ。人がいる」
「お昼寝中さ」
「どうする? 聞かれてたら――」
「いいじゃんか。それに、お昼寝中、ってコトは、この街はもう安全ってコトさ」
「なるほど?」
「あと、ここに来るまでの間さ、缶詰ばかりで飽きちゃったんだよ」
「あはん?」
「チカラアリにたどり着いたって、まともに店なんてやってないと思ってたんだけど、こうしてさ、ちゃんと湯気を立てていて、仕込みの香りがほんのりと漂ってくる料理屋さんを見ちゃうとさ、もう、我慢できなくなっちゃったんだよ。というわけで、アアリ、ここはひとつ“社会調査”としてさ、あそこのお料理屋さんで、ご飯を食べるのがベストだと思うんだ」
「ジイク!」
アアリが声を上げる。
「もうっ! 食べたり、遊んだりすることしか考えてないんだから――」
しかし、アアリの声は尻すぼみになる。すべてを言い終わらないうちに、アアリのお腹が鳴ったためだ。
「ほら、アアリだってお腹空いてるじゃん。せっかくだからさ、あったかいものでも食べようよ」
「もう、わかったわよ!」
ジイクの言葉を遮るようにして、アアリが言った。
「だけど、ご飯食べたら、すぐに任務に戻るんだからねっ!」
「分かってるって」
早口になっているアアリを差し置き、新生“おおさじ亭”まで、ジイクが近づいてくる。
「ごめんくださーい」
寝たふりをし続けるわけにもいかず、ジュリはマニュアル的に
「いらっしゃーい」
と返す。しかし、どうしよう、やばい、と、ジュリは内心、あせっていた。それにジュリは、なるべく自然な感じで身を起こしたつもりだったが、立ち上がった弾みで、椅子代わりにしていたビールケースが横倒しになった。
「ええっと、二人?」
「うんにゃ。なにか、あったかいものを頼むよ」
「いいけど」
ジュリは厨房を振り向いた。客が来たことに気付かず、ジュネは眠り呆けている。
「有り合わせのものになっちゃうかも」
「あら、いいわよ、全然」
ジイクに代わって答えると、アアリがフードを脱ぐ。アアリは、白く、真珠のような光沢をもつ長い髪をツインテールにし、肌の色も、瞳の色も白かった。ジュリはすぐに、アアリがアルビノだということに気付いた。
「出されたものを食べるわ。シェフが食べさせたいと思うものを、私たちに持ってきて」
(うわ、めんどくさ)
アアリの言い方に、ジュリは鼻白む。
(シャンタイアクティ人みたいなこと言うんだな……)
とはいえ、新生“おおさじ亭”第一号の客である。お冷や入れてきますね、と言うと、ジュリは厨房に向かう。
「ジュネ、起きて」
「何だよ、うるさいなァ……」
「お客さ――」
次の瞬間、重力を無視するようにして、ジュネは垂直に飛び上がった。呆気に取られているジュリをよそに、まぶたが裂けてしまうのではないかというくらい目を見開きながら、神の国の到来の場に居合わせたかのような神妙さで、ジュネは客席の二人組を凝視する。
ジュネの目線を追い、ジュリも驚いた。ジイクは、アアリに対面して、厨房と向かい合うように座っている。そして、ジイクもまた女性だった。しかも、背格好も姿形も、アアリとうり二つだったが、ジイクは黒髪をツインテールにし、肌の色も、瞳の色も、鉛筆の芯のように黒い。完全なメラニウムだった。
うり二つの双子で、片方がアルビノ、片方がメラニウム――。
アアリは女性の声をしていて、ジイクは男性の声をしている。
この双子には、何かがある。
「どうするんよ、ジュネ」
双子に見入りながらも、ジュリは尋ねる。
「カイ氏、戻っとらんけど……うえっ?!」
「お冷出してやれ、さっさと」
みぞおちをジュネに押しやられ、ジュリの喉から、変な声が漏れる。そんなジュリの様子など一顧だにせず、ジュネは厨房に置いてあったクーラーボックスから、新聞紙に包まれた食材を引き出す。
袋を切ると、中に詰まっていた米粉を、ジュネはボウルに注ぐ。少量の水でダマにならないように溶きながら、缶詰のココナッツミルクを、泡立たないように注いでゆく。
ジュネは、バインセオ(お好み焼きのようなもの)を作ろうとしている。――そう察知したジュリは、ジュネの邪魔をしないよう、水の入ったボトルをたぐり寄せ、コップに注いだ。一たび料理人としてのスイッチが入ってしまった以上、ジュリであったとしても、ジュネを止めることはできない。
◇◇◇
「へい、お待ち!」
ものの数分でバインセオを完成させると、ジュネはジュリを振り切って、みずからジイクとアアリに給仕する。
「わーっ、バインセオ! 旨そう!」
テーブルクロス代わりに敷かれた新聞紙の、ラジオ番組の一覧を指でなぞっていたジイクが、バインセオが運ばれてくるやいなや、声を上げた。その声は、やはり男性の声のように低かった。
「いい匂い!」
「へへっ、そうだろ」
アアリの言葉に、ジュネは得意げである。
「これには、ワケがあって――」
「ソースは?」
「……はい?」
アアリの質問に、ジュネが硬直する。そんなジュネを見て、アアリの眉間にしわが寄る。
「まさか……ソースがない?」
「ソースも何も――」
「まーまー。いいじゃんかー」
そう言いながら、調味料の載せてある皿に、ジイクが手を伸ばす。
「あっ――」
給仕の仕事をジュネにぶん取られ、「にゃーん……」と鳴いていたジュリは、ジイクの行動に、思わず叫んだ。ジイクが掴み取っているのは、オイスターソースである。
悲劇は、突然にして起きる。
それは、シャンタイアクティとチカラアリとの、バインセオに関する食文化の違いだった。シャンタイアクティでは、バインセオには下味をつけない。具材の塩味が、ほんのりと生地に混ざるような作り方をする。だからソースは必需品で、普通はバインセオと一緒に、小皿に乗せられたソースが提供され、客はそれをかけながら食べる。
しかし、チカラアリでは事情が異なる。バインセオの生地に、出汁を染み込ませてから焼くのである。ジュネは当然、チカラアリ伝統の調理法に従った。“おおさじ亭”秘伝のソースから作ったスープを、出汁の代わりにして。チカラアリ人にとって、供されたバインセオにソースをドバッとかけるということは、冒涜に近いことだった。
「今はモノが少ないんだから、あるもので間に合わせないと――」
ジュリが制止しようとするのも間に合わず、ジイクは思い切り、オイスターソースを、バインセオにドバっとかける。
「ぶちっ、」
ジュネがキレた。




