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ラヴ・アンダーウェイ(LOVE UИDERW∀Y)  作者: 囘囘靑
第4章:チカラアリ少女行(В Чикараари)
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064_裂け目(трескаться)

――老いた者は、生まれたての(おさな)()に、命はどこにあるか、ためらわず尋ねるであろう。そうすれば、かれは生を()けるであろう。

(『トマスによる福音書』、第4節)

――覚えておくといい。


 声を聞き、クニカは目を開ける。視界は、霞のようなものに遮られており、はるか遠くに、人影が立っているようだった。


 声を耳にし、クニカの心は(ひる)む。クニカは、声に聞き覚えがある。しかしクニカは、いつ、どこで聞いたのか、思い出せなかった。電気の信号が、外からの電波に干渉を受け、とぎれとぎれになってしまっているような、そんな感覚だった。


――ボクだけが、キミを分かってやれる。キミを救える。


 言葉は、クニカに向けられているものではない。それでもクニカは、自分の喉元に匕首(あいくち)があてがわれたような気分で、言葉を受け止める。


 おとなしく首が斬られるのを待つのか、逃げるのか、戦うのか。それは、ほかならぬクニカが、みずから決めなければならないことだった。


 クニカは、夢から覚める。



   ◇◇◇



 目を覚ましたクニカは、身を起こすと、窓の方を振り向く。窓枠にはベニヤ板が打ち付けられており、すき間からは陽射しが漏れている。


 シャツの胸元を、クニカは握りしめる。額からは汗がこぼれ、背中は寝汗で冷たくなっている。


 フランチェスカと打ち解けた後、クニカは公会堂へと戻った。同じころ、旧市街で大騒ぎしていた“自由チカラアリ”の人々も戻ってきた。そこからが大変だった。皆、クニカのことを“救世主”と呼び、ほめそやして、握手を求めたり、傷の癒しを求めてきた。


 そんな人びとを、リンは途中で追い払おうとした。しかしクニカは、ひとりひとり手を取り、話を聞き、“救済の光”で傷を癒した。魔法を使っている間じゅう、クニカは具合が悪かったが、それでもクニカは、最後のひとりまでやり遂げた。


 そのときにはもう、すっかり夜になっていた。用意された寝床にもぐりこむと、クニカはあっという間に寝入ってしまった。


 先ほどの悪夢を、クニカは思い出す。声の主は誰か? 声の主が話しかけていた相手は誰か? 動悸が収まるにつれ、クニカは別の感覚が、さざ波のようになって押し寄せてくることに気付いた。


(痛い……)


 クニカはお腹をさする。регулЫが来たと気付くのに、時間はかからなかった。


 この世界に来て、女性の形姿になってからというもの、クニカがどうしても慣れないことのひとつだった。そのときが来るたびに、クニカは頭の先から脚のつけ根までを串刺しにされたかのような疼痛に襲われ、震えと寒気とが止まらなくなった。それは一気に、圧倒的な強さでやって来て、しかしことが済めば、潮が退くように去っていった。


 静かに身をよじると、クニカは寝床から立ち上がる。ちょっとした弾みで、それこそ、だれかから挨拶代わりに、後ろから肩でも叩かれようものなら、クニカは立ちどころに漏らしてしまうかもしれない。


 寝転がっているリンの隣を、壁に手をつきながら、クニカは通り過ぎる。いつもならば早起きのリンが、今日ばかりは静かに寝息を立てている。今のクニカにとっては、幸運なことだった。


 壁に寄りかかるようにしながら、クニカはトイレを目指す。リノリウムの廊下に素足で降り立ったクニカは、温度差のために、ますます具合が悪くなる。戻ってしまおうかという弱気が、心に頭をもたげる。それでも、たとえ漏らしてしまったとしても、今のクニカには、進むよりほかに方法がなかった。


 二の腕の鳥肌を、手で押さえつけながら、クニカはトイレにたどり着く。そこが男子トイレであるとか、気にしている場合ではなかった。扉を閉める余裕さえなく、クニカは便器にもたれかかる。弾みで漏らしそうになったクニカは、慌ててズボンを降ろす。


 脚のつけ根から、体液がほとばしり、便器へ吸い込まれていく。太ももを這って流れ出たのは、経血ではなく、精液だった。


「はぁ、ハァ……」


 便器にたくだまった精液を凝視しながら、クニカは息をつく。これが、誰にも言えない、クニカの身体の秘密だった。


 トイレットペーパーで脚の付け根を拭おうとして、そんな贅沢なものがないということに、クニカは気付いた。指を使って残滓をかき出すと、クニカは洗面台まで行って、手をすすぐ。それから、洗面台と便器とを往復しては、便器の内側にこびりついた精液を、気の済むまで洗い流した。


 それが終わった頃には、クニカの気分はマシになっていた。しかし、目は変に冴えてしまって、もう一度眠ることはできそうになかった。


(フランはどうしてるんだろう?)


 昨日の記憶が、ふとよみがえってくる。『おしゃべりプログラム:愛すべき人用』を、フランチェスカは本当に作るつもりなのだろうか?


 思い返してみれば、目を覚ましたとき、フランチェスカはいなかった。“競技場”で、象たちに囲まれながら、『おしゃべりプログラム』の構想を練っているのだろう。


(行ってみよう)


 クニカは公会堂の外へ出る。まだ夜が明けてから間もない。空は薄い雲に覆われており、世界全体がまだらに輝いている。


 “競技場”へ向かおうとしたクニカは、その敷地に、サリシュ=キントゥス帝国軍の天幕(テント)が残されていることに気付く。天幕の隙間からは、湯気が立ち昇っていた。


 気になったクニカは、“心の色”を探るべく、“竜”の魔法を解き放つ。動きのあるところには、必ず人がいる。だれが何をしているのか、クニカは知りたくなった。


 天幕には、人がひとりいる。“心の色”は緑で――


〈すごいな。人の心が読めるなんて〉


 そのとき、クニカの脳内に声が響いた。ミカイアの声だった。


〈ちょうどいいや。おいでよ〉


 ミカイアの共感覚(テレパシー)に呼び止められて、クニカは天幕へ分け入る。部屋の中央には、ビニールでできた水槽があり、湯気はそこから立ち昇っていた。即席の浴場のようだった。中央では、ミカイアが肩まで湯に浸かっている。


「来た来た」


 ミカイアが笑う。


「入りなよ」

「え? でも……」

「一緒じゃ嫌だって?」

「そういうわけじゃ――」

「なら、いいじゃん。いい湯加減だよ」


 クニカの喉が、ごくりと鳴る。“お母さん”のくしゃみを浴びたままだったことを、クニカは急に思い出した。清潔な湯に、肩まで浸かることの誘惑に、クニカは勝てない。服を脱ぎ捨て、念入りに身体を流すと、クニカは浴槽に身を沈める。


「ハハハ、いい表情!」


 ハァ、と吐息を漏らしたクニカに、ミカイアが笑った。


「風呂用のテントは、隣にもう一個あったんだけど、昨日フランを洗うために使ったから、もうオジャンだね」

「ミカイアさん――」

「ミカ、でいい」


 お湯をすくって、ミカイアは顔を洗う。


「偉そうにすんの、慣れないんだ。みんな気ィ遣って、あたしを“お嬢”とか呼ぶけど」

「朝、早いんだ?」

「そういう訓練さ。標的を安全に仕留めたいのならば、寝込みを襲うのが常道。それをいつでも迎え撃てるように、寝起きに飛び出して、稽古する」


 稽古とは、ミカイアの場合、武術の稽古だろう。


「じゃあ、さっきまで稽古を?」

「今日はやらなかった」


 目を閉じると、ミカイアは顎の辺りまでを湯に浸す。


「クニカも早起きなんだな?」


 ややあってから、ミカイアが言った。


「ええ、まぁ……」


 регулЫのせいだ、などと、クニカは言えなかった。言っても信じてもらえないだろうし、信じてもらえたとしても、ばつが悪い。


「疲れ過ぎて目が覚めちゃった、というか――」

「嘘をついてるな?」


 ミカイアの率直な言葉に、クニカはドキリとする。


「えっ、と……」

「使徒騎士相手に嘘をつくとは、ずいぶんな度胸だ」


 おどけだ調子で、ミカイアは腕を組む。


「マ、いいんだけどさ。言いにくいことや、隠しておきたいことのひとつや二つ、生きてりゃだれだってある」

「隠しておきたい?」

「そう。嘘があったとして、何のために? ずるさのためかもしれないし、弱さのためかもしれないし、優しさのためかもしれない」


 ミカイアは続ける。


「ひとり、そういう人がいる。ニフシェ、って名前で――」

「あっ、知ってる! ウルトラで一緒になって……」

「ウルトラで?」


 これまでの一部始終を、クニカは話した。


「なるほどね。あたしがチカラアリにかまけてる間に、星誕殿(サライ)ではそんなことに……」

「ミカは、ずっとチカラアリに?」

「そうさ。でも、ニフシェを知ってんなら、話が早い。あの人はあたしなんかより、ずっと上手に他人の嘘が聞き分けられる。耳を澄ませば、声の震え、呼吸の乱れ、まばたきの音の回数――」

「まばたきの音?」


 耳慣れないフレーズを、クニカは聞き返す。


「そういうのがあるらしい。すごいよね? とにかく、ニフシェは嘘を見抜くのが上手い。で、彼女が言うんだ、『嘘が分かったところで、どうしようもない』って。α(アルファ)が嘘であったとして、真実は『αでない』かもしれないし、『Ω(オメガ)である』かもしれない。それは分からない。だから、余計な穿(せん)(さく)はしない」

「ミカには、そういうのあるの? 隠しておきたいこと」

「あたし?」


 ミカイアは頭をかいた。


「どうかな。ほら、あたしチカラアリ(びと)だからさ、そもそも向いてないんだ、そういうの」

「フフフ。そうかも」


 身近なチカラアリ(びと)を思い起こし、クニカは笑みをこぼす。リンも、ジュネも、ジュリも、思ったことはすぐ口に出るタイプだった。


「だけど、あれだ。打ち明けたい話ならあるな。逆に!」

「逆に?」

「そうそう。ほかの人には話しにくいんだけどさ、クニカになら、言えそうだ」


 クニカは身構える。


「どうして?」

「うーん? ほんわかしてるけど、口は固そうだからかな?」


 ミカイアの言葉に、クニカはずっこけそうになる。


「仲間のことさ」


 ミカイアは語り始める。


「騎士団の?」

「そう。親友だ……って、あたしは思ってる。けれどさ、あるとき、そいつに怒鳴っちまったんだ、人の心はもてあそぶもんじゃない、って」


 ミカイアの話を、クニカもいつしか、真剣に聞いていた。


「そいつにはあんまり響いてなかったみたいだけど。それっきり、この“黒い雨(ドーシチ)”だろ? 疎遠になっちゃってさ。親友だってのに」


 悩んでいる様子のミカイアを眺め、今朝に見た夢を、クニカは思い出す。夢の中の声は、誰かに同情を示していた。しかし、同情を示された“誰か”が本当に必要なのは、ミカイアのように、素直にものを言ってくれる親友なのではないか、とクニカは思った。


「上手くいかないもんだよ」


 ミカイアは天井を眺める。


「もう一度、ちゃんと話をしなくちゃ、とは思ってるんだけどね。難しそうだ」

「どうして?」


 クニカの問いかけに、ミカイアはニコリとほほ笑んだが、それだけだった。フランチェスカが初めてやって来たときも、ミカイアは同じような態度を取ったことを、クニカは思い出した。それは「お手上げ」と言わんばかりの態度で――なるほどミカイアは、ほかのチカラアリ(びと)と同じように嘘は苦手のようだったが、素直であり過ぎるがゆえに、かえって取り付く島がないように、クニカには思えた。


「あと、気になるのはフランのことだ。――あ、そうそう!」


 ミカイアは続ける。


「昨日さ、夜中に突然、フランが来たんだ。嬉しそうでさ、眠かったからお帰り願ったんだけど、『部屋から追い返すんなら自殺する!』とか言い出すんだ。参っちゃったのなんのって。でも、何の話かと思えば、クニカのことだった」

「え……わたし?」

「そう。『ゾウさん相手と同じくらい、普通に話すことができた』だってさ。独特のセンスだよな、カノジョ」

「喜んでいいのかな?」

「喜んでくれよ。フランのこと、嫌いじゃないだろ?」


 クニカは頷いた。


「だったら、なおさらさ。友達になってあげてほしいんだ。あと、クニカの縁でさ、ほかの友だち作りも、手伝ってあげてほしい。ちょっと風変わりだけれど、フランを分かってあげられる人、たくさんいると思うんだ」

「そうかも……」


 と言いつつも、クニカには心当たりがある。南の巫皇(ジリッツァ)・エリッサのことだ。明るく、優しくて、おしゃべり好きなエリッサならば、フランチェスカと仲良くなれるかもしれない。


「『心当たりがあります』ってカンジかな?」

「うん」


 エリッサは、チャイハネたちと一緒に、使徒騎士に連れられて、シャンタイアクティを目指している。フランチェスカと合流した今、クニカたちの次なる目標も、シャンタイアクティへと到達することだ。


(その後は――)


 クニカは考える。シャンタイアクティに四人の巫皇(ジリッツァ)が立ち、結界が張られ、“黒い雨”が封印される。それでも、南大陸へと攻め込んだサリシュ=キントゥス帝国の軍隊は、簡単には撤退しようとはしないだろう。帝国が望みを諦めるまで、戦争は続き、人は傷つくことになる――。


 そのとき、クニカは?

 クニカに、何ができる?


「あのさ、ミカ」

「何?」

「その……わたしに、戦い方を教えてほしいな、って」

「戦い方?」


 ミカイアが眉をひそめる。


「何で?」

「えっと……強くなりたいから?」

「ははは……!」


 ミカイアの笑い声が、浴場に響ぐ。


(わ、笑われた……)


 訝しまれることは覚悟していたが、笑われてしまうと、さすがのクニカも落ち込んだ。


「ごめん、笑っちゃって。本気なんだよな?」


 ミカイアは言った。


「でもさ、そうだとして、ひとつ質問させてほしい。強くなったとして、それからどうなる?」

「それは……」

「強くなることができました。サリシュ=キントゥス帝国の軍隊を、たくさんやっつけることができました、めでたしめでたし、って? ばかばかしいよ、そんなの。そんな強さはまやかしさ」

「まやかし?」

「そうさ。人の優しさを失っちゃあ、何にもならない。『強さと優しさは両立しない』って? ほざいてろよ。たぶんそんなやつは、初めから強かったとしても、誰かに優しくなんかできやしない」

「誰かに優しく……できるかな?」

「できてるじゃん。クニカ。フランもそうだけど、ここの連中は、みんなクニカの優しさの世話になってるよ」


 身を乗り出すと、ミカイアはクニカの隣に腰を下ろした。


「今のままでいいと思うよ。信じらんないかもしれないけど、むしろ、『今のまま』の方が難しいこともある。強くなんかなくたっていい。それを肝に銘じてほしい」

「う、うん」

「そして、約束してほしいんだ。フランの友達作りの世話をしてくれる、って」

「分かった。ミカも手伝ってよね」

「ありがとう」


 しばらく後になってから、クニカは「ミカも手伝ってよね」という自分の言葉に、ミカイアが返事をしていないことに気付いた。そしてその意味も、クニカは大分後になってから理解することになった。


「これで一安心だ」


 自分自身に言い聞かせるように呟くと、ミカイアは風呂からあがろうとする。クニカも一緒になって風呂から抜けた。

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