063_言語のゲーム(Языковая игра)
「自殺する」
と言い残し、フランチェスカは姿を消した。瞬きひとつしなかったのに、クニカはフランチェスカが姿を消す瞬間を見逃してしまった。フランチェスカの消え方は、煙のようだった。
大瑠璃宮殿でのオリガとの対戦を、クニカは思い出す。あのときオリガは、剣戟によって瞬間移動を行っていたが、そのときでさえ、オリガの形姿が点滅したのを、クニカは知覚できた。今のフランチェスカの消える速さは、オリガとは比べ物にならない。
「どうしよう。――ひでふっ?!」
そのとき、クニカの後頭部に、衝撃が走る。脳内に、お星様がきらめく。
「このばか!」
振り向いてみれば、リンがげんこつを握り締めている。
「フランチェスカがガッカリしないように、『あはは。おっしゃるとおりです』とか、相づち打たないとダメじゃないか!」
「メチャクチャな……」
「飛び出さないように引き止めなきゃダメだろ! お前がいながら――」
怒っているリンとは裏腹に、クニカは別のことを想起する。座っているクニカ、突然苦しみ出す巫皇、逃走する巫皇、巫皇が逃走したことに気付くクニカの周りの人たち、「クニカがいながら……!」と、なぜか責められる自分。
(知ってる!)
裸のまま逃げ出したエリッサの姿が、クニカの脳裡によぎる。
(わたし、このシチュエーション、知ってる!)
「何ブツブツ言ってんだ」
リンが目をいからせる。
「『自殺する』って言ってたぞ」
「気にするこたぁねぇよ」
やけにくつろいだ口調で、ニキータが言う。
「“姫”はさ、『自殺する』ってのが口癖なんだ。前にも、『最近、自殺のことばかり考える』とか言っちゃってさ。天才ってのは、分かんねぇよなァ。大丈夫! いつもなんだかんだで、思いとどまってるみたいだから」
「『思いとどまってる』って」
リンの眉根は寄ったままである。
「どうすんだよ? 今度こそ本気だったら」
「手分けして探そう」
ニコルが言う。
「オーッ!」
ゴーグルを装着したまま、カイも拳を振り上げる。
「なあ、オッサン! “姫”の行き先に、心当たりは?」
「分かんねぇなァ」
「そうか? じゃあ、オレとニコルは、空から探してみるよ。カイは、“旧市街”の海沿いを探して! オッサンは、ミカイアにも手伝ってもらうよう言ってくれよ。クニカはとにかく、“旧市街”を歩いて探すんだ」
「あのさ、リン」
「何か分かったら、ここに戻ってくること。行こう!」
「オッシャー!」
カイの声の前に、クニカの言葉はかき消える。ニコルとともに、リンは外へ飛び出した。
「ミカ嬢かぁ。ダイジョブかなぁ。マジで腹壊してそうだな」
ぼやきながら、ニキータもカイと一緒に外へ出る。
「ハァ……」
部屋に取り残され、クニカは頭を掻いた。
実はクニカは、何となくではあったものの、フランチェスカがどこに行ったのか、見当がついていた。
“竜”の魔法の能力で、クニカは他者の感情を、“心の色”として読み取ることができる。今、こうして目を閉じてみれば、まぶたの裏で、黄と緑との入り混じった心の色を、無数に観察することができた。“黄”は「焦り」を表すこともあれば、「喜び」を表すこともある。“緑”は「安堵」を表す色だ。無数のチカラアリ市民が、“旧市街”を奪還し、浮かれ騒いでいる。
口より先に手が出るのが、チカラアリ人の性分である。だから、“心の色”は簡単に読み取れる。クニカは、“競技場”で、“灰”に塗りつぶされた“心の色”を見て取った。
“灰”は、「不安」や「憂鬱」といった、後ろ向きな感情を表す色である。ほぼ全てのチカラアリ市民が陽気に浮かれ騒いでいる中、ただ一人灰色の感情を携えている人物がいるとすれば、それこそフランチェスカにほかならないだろう。
“灰”色は、クニカのいる場所から、それほど遠くない位置にある。ミカイアが言ったとおり、公会堂と競技場とは、距離が近いようだ。
「ようし!」
クニカはひとり、競技場へと向かう。
◇◇◇
競技場の入口までやって来たクニカは、陰からそっと、グラウンドの様子に目をやる。グラウンドでは、たくさんの象たちが気ままに歩き回りながら、長い鼻を使って、互いにじゃれ合っている。
グラウンドの中央に、クニカは目を細める。一匹の、白い大理石のような肌をもった巨象の耳の中に、誰かがくるまっている。
象の合間を縫うようにして、クニカは歩みを進める。見慣れない人間に興味津々なのか、象たちは、クニカに鼻を伸ばしてくる。動物園とは違って、迫力は段違いだった。
「あの、もしもし?」
象の耳にくるまっているフランチェスカに、クニカは声をかける。フランチェスカは立ったまま、布団にうずくまっている子供のように、象の耳の中で足をばたつかせていた。
「あのさ、わたし――」
もう一歩近づこうとした矢先、フランチェスカに耳たぶを貸していた白い巨象が、大きな声を上げた。
「うわっ?!」
「心配しないで、お母さん。この人は、お客さん」
耳から抜け出すと、フランチェスカは、白い象の前脚を撫でる。白い巨象は、鼻から順番に、ゆっくりと地面に座る。
「お母さん?」
「そう。この象は、ここのぞうさんたちのリーダーで、みんなにとってお母さんみたいな存在だから、“お母さん”。私が生まれる前からお母さんで、私にとっても、ある意味お母さん。ただし、血縁関係はない」
そう言いながら、フランチェスカは大判のノートをめくる。ノートには、「おしゃべりプログラム:初めての人用」と、タイトルが付されていた。
「『初めまして。私の名前はフランチェスカ=オツヴェル』。ハァ……」
「もしかして、そのノートを見ながら……挨拶してたんだ……」
「人とおしゃべりをするのは、難しい」
ノートをめくりながら、フランチェスカは言う。
「中学生のとき、職業体験で、私は幼稚園の手伝いをやった。象を扱うつもりで、私は園児にエサをやったり、芸を仕込んだりしたが、そのとき、女の子がやってきて、『見て見て! キレイなツツジの花!』と、私にツツジの花を差し出した。私が『どういう意味ですか?』と尋ねたところ、女の子はわっと泣き出した。私は責任を問われ、半日で幼稚園をクビになってしまった」
勇者だ、とクニカは思った。あのリンでさえ、幼稚園をクビになるのに一日かかっている。
「だからこうして、人とおしゃべりするときのプログラムを作っている。完璧なマニュアルを作ったつもりで、唯一の問題点は、肝心のおしゃべり相手がいないということだった」
フランチェスカのめくるノートを、クニカは興味本位で覗く。紙面は、鉛筆書きの細かな文字で真っ黒になっている。フランチェスカは、お世辞にも字がキレイとは言えない。全ての文字が、利き腕とは反対の手で書かれたような潰れた文字で、書いた本人でなければ、読むのには苦労しそうな綴り字だった。
「なんて言ったらいいんだろう」
「私はこのプログラムで、初対面の人と語り得るおよそ全てのことを明晰に語ることができると、そう思っていた。けれど、ダメだった」
そのとき、クニカの右脇に、何かが差し込まれる。
「うわっ?!」
差し込まれたのは、象の鼻だった。赤色の肌の象が、クニカの背後から近づいてきて、鼻をねじ込んできたのだ。
「ぱおーん!」
象が声を上げる。怒っているようだった。
「こら、ぷんぷん丸」
フランチェスカが、象に言う。
「ぱおーん……」
「お客さんにイタズラしない」
「ぴえーん……」
ぷんぷん丸、と呼ばれた象は、フランチェスカに怒られると、途端にしおらしくなった。のしのしと足音を立てながら、ぷんぷん丸は引き返していく。
「ビックリした」
「ぷんぷん丸は若いぞうさんで、やんちゃだった。しかし、先月にかわいい女の子のぞうさんに告白して、振られてしまった。やり場のない怒りと悲しみが、ぷんぷん丸を駆り立てている」
「そうなんだ」
静かに去っていったぷんぷん丸のおしりを、クニカは眺める。揺れ動く尻尾に、哀愁が漂っているように、クニカは感じた。
「すごいね。象のこと、よく分かるんだ」
クニカの言葉に、フランチェスカは
「ハ、ハ!」
と、短く切るように言った。それがフランチェスカの笑い方であると気付くのに、クニカは数秒掛かった。
「自慢ではないが、この前人間と過ごした時間と象と過ごした時間を数えてみたところ、黄金比になった」
「黄金比、へぇ……」
「趣味は数を数えること」、フランチェスカの自己紹介を、クニカは思い出す。
「人間よりも象のことの方が、私にはよく分かる」
「ハハハ……」
フランチェスカの言葉に、クニカは噴き出してしまった。象の話になってから、「おしゃべりプログラム」を使って話しているときとは異なり、フランチェスカは活き活きとしていた。フランチェスカは、象のことを本当に大切に思っているのだろう。その気持ちが伝わり、クニカも自然と嬉しくなってくる。
「今の話、面白い?」
「うん、面白かった」
「じゃあ、『おしゃべりプログラム』にも、この話を自己紹介に持ってこよう。いや、自己紹介よりも先に――」
「あのさ」
「おしゃべりプログラム」とにらめっこを始めようとしたフランチェスカのことを、クニカは呼びとめる。
「え……何?」
「プログラムもいいけれど、象に話しかけるような気持ちでいるのが、良いんじゃないかな?」
「ホントかな」
「ほら、象と話してると思ってさ。わたしの名前は、クニカ=カゴハラ。あなたは?」
「あっ、えっ……」
「名前は?」
「あばば! あばばばば!」
「落ち着いて! 象と話す気持ち!」
「えっと……フランチェスカ=オツヴェル」
「フラン、って呼んでもいい?」
「それは、恥ずかしいけれど、いいかも」
「ね? フラン。いま、いい感じだったんじゃないかな?」
「本当だ」
「おしゃべりプログラム」を握り締めたまま、フランチェスカは言った。
「いま、ぞうさんに話しかけるような気持ちで話していた。すると、暗記をしていないはずの言葉を、自然と話すことができていた」
「いいんじゃない?」
「なぜだろう?」
フランチェスカは自問自答する。
「人間を相手にすると、『あばばばば!』となる。しかし、ぞうさんが相手だと、そうはならない」
何かを考えているときの癖なのか、話している間、フランチェスカは勢いよく、ほとんど首を直角に曲げるように傾げてみせた。
「私は、象に語りかけるのと同じ様式で、人間には語りかけていない。象に語りかけるのと同じ様式で人間に語りかけるためには――」
「もしもし……フラン?」
「人間を愛さなければならない。象を愛する気持ちと同じように。あ、ひらめいた!」
フランチェスカはクニカに向き直る。
「私は決めたよ、クニカさん!」
「クニカ、でいいよ」
「愛しているとき、私はおしゃべりができる。だから人間で、愛せる者を探そうと思う」
「愛せる人……!」
フランチェスカの大胆な言葉に、クニカはのけ反った。
「愛せる人を探そう。それで、その人とおしゃべりをする。今から、その人とおしゃべりをするための中身を考えておこう。『おしゃべりプログラム:愛すべき人用』を作らなくちゃ」
フランチェスカが前向きになったのは、クニカにも嬉しいことだった。しかしフランチェスカは、クニカが思ってもみなかった方向へ飛び出そうとしている。
「フラン、あのさ」
呼び止めようとした矢先、クニカの全身を水しぶきが襲う。隣にいた“お母さん”の、大きなくしゃみだった。




