062_北の巫皇(Северный Жреца)
「クニカ」
名を呼ばれ、クニカは目を開ける。クニカに向かって、誰かが顔を近づけている。クニカは唇に、ごわごわとした、酸っぱいものが当たっていることに気付く。
「うえっ?!」
口元にあったものを、クニカは吐き出した。それはシャツの胸元から、床へところげ落ちる。ぶどう酒のしみ込んだ海綿だった。
「気付いたな」
正面の人物が、顔をほころばせる。金色の長い髪に、青い瞳。丸い眼鏡。使徒騎士のミカイアだった。
「ここは?」
「公会堂だよ、ここは」
ミカイアは、海綿を遠くに投げ捨てる。
「競技場の側さ。“新市街”に宮殿が建った後も、ここを本拠にした巫皇がいるくらい、由緒のある建物なんだ」
「おい!」
声のする方向を、クニカは振り向く。リンがいた。
「リン」
「心配したぞ。急に倒れるんだから」
「ゴメン」
「ハハハ」
「薬用ぶどう酒」とラベルの貼ってある瓶に、ミカイアは蓋をする。
「張りつめてたものが切れれば、誰だってそうなる。ウチの――というか、騎士団の後輩たちも、初任務の後はそうなる」
「チャイがいてくれりゃな」
タバコを吸うチャイハネの姿が、クニカの脳裏をよぎる。
チャイハネとシュムの一行は、内陸部を通り抜け、シャンタイアクティを目指している。別れてから半月ほどしか経っていないはずなのに、クニカはチャイハネの名前を、数年ぶりに聞いた友人の名前のような感覚で思い出していた。
「チャイ?」
ミカイアが尋ねる。
「友達なんだ。医者のタマゴなんだよ」
「そう? でも、これは医学じゃどうにもならない。魔法の範疇さ」
「焦ったよ」
そう言いながら、リンはクニカに手を差し伸べる。
「救済の光がさ、自分にも使えればいいのに」
「違いない」
二人の言葉に、クニカは唾を呑む。
二人とも、軽口で言っているのは分かる。しかし、リンもミカイアも、自分の身を守るだけで精いっぱいになるようなときが、この先、やって来るかも分からない。
そのとき、誰かの助けを借りることなく、自分は自分を守れるだろうか? クニカは自問する。
「ニコルは?」
そのとき、リンが尋ねた。
「一緒じゃなかったの?」
「クニカと一緒だと思ったんだ」
クニカは首を振る。
「ニコルなら、ニキータと一緒だよ」
ミカイアが代わりに答える。
「今、“姫”を迎えに行ってる」
“姫”の単語に、クニカもリンも、顔を見合わせる。
“黒い雨”を封印するためには、空位となっているチカラアリ巫皇を立皇させることが必要だ。そのためには、巫皇の候補者をシャンタイアクティへと連れ出し、即位灌頂の儀式を行わなければならない。
“自由チカラアリ”の首班である“姫”こそが、チカラアリ巫皇の後継者である。クニカたちがチカラアリまでやって来たのも、“姫”に会うことが目的だった。
「なぁ、ミカイア。オレたちを、“姫”のところまで案内してくれないか?」
「ダメ」
「え?」
思わずクニカは口走る。
「どうして?」
「人見知りするんだよ、カノジョ」
「そんなの、大丈夫だろ。オレとクニカで、イイ感じにしてやんよ。な?」
「う、うん」
何をどう「イイ感じ」にするのか、クニカにはよく分からない。しかし、とりあえずクニカは、イイ感じに返事をする。
「ほら、だからさ――」
「人見知りだけじゃない」
言いにくそうに、ミカイアは付け加える。
「今、象の餌やり中で――」
「象の餌?」
「象使いなんだ、カノジョ」
“競技場”になだれ込んできた象の大群を、クニカは思い出す。言われてみれば、あのとき、象の鳴き声に混じって、少女の笑い声をクニカは聞いた。象は、“姫”の指揮の下で、“競技場”に押し寄せたのだ。
ミカイアは鼻をすする。
「世話中に話しかけようもんなら、象のウンコ、投げつけてくるよ」
えぇ、と、クニカが声を漏らした矢先、扉が開く。カイと、ニキータが入ってきた。ニキータは、なぜか泣きじゃくっている。
「ニキータさん?」
「いいよなア、カイちゃんは」
カイはといえば、ゴーグルをばっちりと身に着けている。ニキータは、そんなカイがうらやましそうだった。
「もう目にしみちゃって……」
「戦車が来るゾウ!」
いきなり、カイが叫ぶ。
「戦車?」
「姫がお出ましだってさ」
「ン!」
ミカイアの言葉に、カイがうなずく。
ミカイアは“鮫”で、カイは“鯱”の魔法使いである。海棲類同士、お互いの言いたいことがよく分かるようだった。
「そうか?! そりゃ願ったり叶ったりだ」
「だといいな」
リンをしり目に、ミカイアは踵を返す。
「どこ行くんだよ?」
「腹痛……という設定」
「は?」
あっけにとられているリンを置き去りにして、ミカイアは立ち去ってしまう。
「あーあ、ミカ嬢、ずるいなー」
「どういうこと?」
「いいかい、クニカちゃん、リンちゃん」
手招きすると、ニキータはクニカとリンを、側に呼び寄せる。
「何だよ?」
「初めに謝っておかにゃあならん。スマン! 申し訳ない! このとおり!」
「ええ……」
クニカはまごついた。
「いきなり謝られても」
「とにかく、だ! “姫”は変わり者なのさ。ヨロシクな」
何を「ヨロシク」されたのか、クニカには分からない。
「おい、誰か!」
そのとき、扉の向こうから、“自由チカラアリ”の兵士の声が聞こえてきた。鼻を塞ぎながら喋っているようだった。
と同時に、えもいわれぬ臭いが、部屋まで押し寄せてくる。
「くさい!」
リンが叫ぶ。クニカも鼻を押さえていたが、臭いは目に染みてくる。
この世界に転生する前、小学生の時分に、クニカはウサギ小屋の当番をしていたことがある。そのときのウサギのフンの臭いに近かったが、それを何倍にも増幅したかのような臭いだった。もしこの場に、“犬”の魔法使いであるジュネがいようものなら、失神していたかもしれない。
クニカはカイを見る。カイはゴーグルを装備し、すずしい顔をしている。ニキータが羨ましがっていた理由が、クニカにも分かる。
もう堪えられない。そんな悲鳴を上げようとした矢先、再び扉が開く。
「おおっ?!」
「オーッ!」
リンとカイが、同時に声を上げる。
扉の正面に、うんこが立っていた。うんこからは、女性の足のようなものが生え、器用に床に立っている。
「う、うんこ!」
クニカは叫んだ。
クニカの記憶は、再び転生前に舞い戻る。部活動のために、自転車で学校に向かっていたクニカは、茂みの間から、にょろにょろとした、白いヒモのようなものが飛び出してくるのを目撃した。そのときクニカは、
「ヘビだ!」
と叫んだ。人間は、予想外のことが起きると、目の前で発生している現象を、とりあえず口に出して言ってしまう、と、クニカはこのとき学んだ。
今回の事例も、そのパターンである。
「初めまして」
クニカの耳に、少女の声が聞こえてくる。声は、目の前のうんこから聞こえてきたようだった。
「私の名前は、フランチェスカ=オツヴェル」
ああ、もうダメだ。耳の穴に小指を突っ込みながら、クニカは咳き込んだ。臭いのせいで、神経がやられてしまった。聴覚も、おかしくなってしまったのだろう。だから、目の前に現れたうんこのかたまりから、女の子の声が聞こえてくるような幻聴がする。
「仕事は象の飼育で、趣味は整数を数えることと、それから――」
「いたいた!」
うんこの自己紹介が終わらないうちに、男たちがやってきた。みな鼻をつまみ、顔をくしゃくしゃにゆがめながら、うんこに迫る。男たちは、衣服が汚れるのも構わず、うんこを羽交い絞めにする。男たちの中には、ニコルもいた。
「くせえっ!」
「死んじまう!」
「仕切り直し、仕切り直し!」
「姫、挨拶は後!」
「ぷ、姫?!」
男の言葉にびっくりして、クニカはもう一度、フンのかたまりを見ようとする。
「信じられる?」
クニカは尋ねるが、リンは咳き込み中で、それどころではないようだった。
男たちに連れ戻されていく中、姫と呼ばれていたフンのかたまりは、
「ぱおーん」
と言いながら、廊下の奥に消えていく。
象
のような声だった。
「な、変わってるだろ?」
嵐のような一部始終の後で、ニキータがクニカに言った。
「あれが“姫”?」
「そうさ。フランチェスカ、って言うんだ。フランちゃんって呼んであげてもいいのかもしれないけれど、ウチらは“姫”って呼んでる」
「んなコト言ってる場合か!」
ニキータの話を遮って、リンが言った。
「窓開けっぞ、カイ!」
「オーっ!」
リンとカイ、二人掛かりになって、部屋の窓が一斉に開け放たれる。夜の冷たい風が、室内に吹きわたった。
◇◇◇
しばらくしてから、再びニコルが、クニカたちのところまで戻ってきた。
「大丈夫か?」
「水場に連れてって、ホースで水を浴びせた。それから、タワシでごしごしやった。案外おとなしかったな。馬みたいだった」
「馬……」
動物のように扱われた“姫”に、クニカは思いをはせる。そのとき、ひたひたとした音が、クニカの耳に聞こえてくる。大理石の床を、はだしで歩く音だった。
「あ……」
音のした方向、ニコルの後ろに、クニカは目を向ける。ひとりの少女が、バスタオルを身にまとい、立っている。少女は赤色の長髪を、ツインテールに束ねている。青い瞳で、クニカ、リン、それからカイのことを、かわるがわる見ている。
「おお、噂をすれば」
部屋の隅にいたニキータが、戻ってくる。
「ええっと、“姫”、こっちにいるのがクニカちゃん、リンちゃんに、カイちゃんだ」
「初めまして。私の名前は、フランチェスカ=オツヴェル」
「は、初めまして。わたし、クニカ=カゴハラ、って言います。それから――」
「仕事は象の飼育で、趣味は整数を数えることと、それから、将棋を打つことです」
「は、はぁ」
クニカは、リンと、カイのことも紹介しようとした。しかし、“姫”、もといフランチェスカのよどみない語りを前に、クニカの言葉は遮られる。
「自慢ではありませんが、数学では三年前、中学校の最終学年の時分にコンクールに提出した解法が特に優秀と認められ、市の年報に掲載されました。また、将棋について言えば、サカ・オープニングの定石に一連の改良を施した棋譜をシャンタイアクティ将棋協会に提出し、これも会報において紹介された実績があります。簡単ではありますが、私の自己紹介は以上となりますので、あなたの名前を教えてください」
「さっき言ったよな、クニカ?」
フランチェスカの語りに圧倒されていたクニカは、リンの一言で、われに返る。
「あ、はい」
「サッキイッタ=ヨナさん?」
「ちがうちがう、アンタが話す前に、自己紹介してただろ、ってこと」
「え……」
フランチェスカは言った。ただし、実際に返事をするまで、ちょっとした間があった。
「聞いていなかった」
「もう一度言ってあげなよ」
「えっと、わたしの名前は――」
「相手が途中で話し始め、自分が聞き逃すことを、『おしゃべりプログラム』は想定していなかった」
「ええっと……?」
ひとりごちるフランチェスカを前にして、クニカは言いよどむ。クニカはただ、自分の名前をフランチェスカに伝えたいだけなのに、フランチェスカはそれに難儀しているようだった。
「また失敗した。ハァ……」
「失敗してるわけじゃ――」
「自殺する」
「え?」
クニカが問いただすよりも早く、フランチェスカはそう言い残すと、忽然と姿を消してしまった。




