060_チェックメイト(Шах и мат)
――ゆえに、父はその香りを愛し、それをあらゆる場所にあらわすのである。
(『真理の福音』第28節)
チカラアリ市街の鳥瞰が、クニカの眼前にあらわになる。ウルトラ市がひとつの大きな島ならば、チカラアリ市は運河の街だった。
「新市街だ!」
リンが声を上げる。指さす方向を眺めれば、眺望の奥、やや沈み込んだ位置にまで、チカラアリの街が広がっている。
――旧市街が突破されんのを、連中は怖れてんだよ。
ミカイアの言葉を、クニカは思い出す。新市街は、旧市街よりも低地にある。旧市街を明け渡せば、新市街に拠点を持つサリシュ=キントゥス軍は、“自由チカラアリ”に見降ろされることになる。
クニカの目の前で、雲が動く。雲の切れ目から、海が顔を覗かせる。
「海だ!」
クニカは叫んだ。この世界に転移してから、今日にいたるまで、クニカは海を見なかった。ただ海の青さが目に映っただけだというのに、クニカは状況を忘れ、この上なく嬉しい気分になった。
「海! 海!」
「分かってるよ!」
クニカの隣で、足を大げさにばたつかせながら、ミカイアが言った。誰かに連れられて空を飛ぶことに、ミカイアは不慣れなようだった。
「気を付けろ!」
そう言うなり、ニコルが身をよじる。ニコルに合わせ、リンも軌道を変える。
「うわあ――?!」
間抜けな声を、ミカイアが発する。一機の爆撃機が、クニカたちの足下を通り過ぎていく。低い位置を飛んでいたというのに、クニカは、爆撃機のプロペラに巻き込まれてしまうのではと、気が気ではなかった。
「向こう!」
ミカイアが叫ぶ。巨大な円形の建物が見えてきた。
「競技場!」
リンが声を上げる。
「戦捷競技場! あそこに陣取ってんのか?!」
「そうだ。司令部も、兵站も、全部ある――」
言い終わらないうちに、ミカイアは長剣を抜き放つ。手首をしならせ、虚空に向かって剣は振るわれる。やや遅れて、砲撃の音と、砲弾の弾けた音が、クニカの耳に飛び込んでくる。真っ二つに切り裂かれ、推力を喪った砲弾が、街へと落下する。
「高射砲だ」
ニコルが地上をにらむ。砲塔の群れが、仰角を向いて、クニカたちを見ている。
「クニカ、オレの力を、リンとニコルに」
「わかった」
“祈り”の対象を、クニカは二人に振り替えようとする。
そのときだった。額を叩きつけられたような感覚に襲われ、クニカは声を漏らした。初めクニカは、流れ弾が命中したのだと思った。しかし、痛みと同時にやって来たのは、ある影像だった。おおさじ亭で“神”を名乗った、鉛味の光を放つ少女の影像。
「クニカ?!」
リンが声を荒げる。
「高度下げろ!」
高射砲の一群をにらみながら、ミカイアが剣を構え直した。
「瞬発力だ、行くぞ――」
そのとき、クニカたちの目の前で、高射砲の群れが土煙に覆われる。放たれた砲弾が、あさっての方向に飛び出していく。
「カイだ!」
ニコルが歓声を上げる。土煙の合間に、ニコルはカイの姿を見抜いたようだった。
土煙が風で飛んだ。足下の様子を、クニカも見やる。道路は陥没し、高射砲の一群は、溝の中でひしゃげていた。カイが誘導し、自由チカラアリの工兵たちが、地下の水路を伝って、高射砲の足下に爆弾を仕掛けたのだろう。
「突破する!」
「おう!」
ニコルのかけ声に、リンが応じる。二人は一直線に、競技場に向かって高度を下げる。ニコルとリンは声を掛け合っていたが、風を切る音の激しさを前にして、クニカは何も聞こえなかった。
戦捷競技場のグラウンドが、目の前に迫ってくる。短距離走のトラックを突っ切った先、リンが手を放した。ちょっと早い、とクニカは思った。地面に降り立つと、慣性に従い、クニカは全力疾走しなければならなかった。
「ハァ、ハァ――」
心臓が張り裂けそうになり、クニカは芝生に膝をつく。リンとニコル、ミカイアが、クニカに駆け寄った。
「大丈夫か?」
「なんとか……」
クニカがそう言った矢先、観客席の最後列にあった照明が、クニカたちに光を投げかける。
「何だ――あっ?!」
眩しさに目を細めていたニコルが、声を上げた。それと同時に、グラウンド全体に、縦横無尽に光の線が駆け巡る。
「何だこれ――」
「魔法陣だ」
光の軌跡を目で追いながら、ミカイアが言った。赤、緑、青。光の線が、ときには交錯し、ときには屈折しながら、グラウンドに幾何学模様を描く。
空の変化に気付き、クニカは頭上に目線を映した。夕暮れ時だというのに、空は薄紅色の、まだら模様になっていた。
「隔離させてもらった」
第三者の声が、クニカたちの正面から聞こえてくる。クニカたちの前方、観覧席から、一人の男性が姿を現す。男性は、白い軍服を身にまとい、胸元には勲章が吊り下げられている。
この男性が、サリシュ・キントゥス帝国軍の司令官なのだろう。フード付きの外套を目深く被っているために、司令官の表情は分からない。
「ここまで来たことは褒めてやろう。お前たちの作戦は、本部にとっても予想外だった。だが、こちらもバックアップの体制はできている。それがうまく機能した」
「この魔法陣……」
クニカを庇うようにして、ミカイアが前に出た。
「アンタがやったのか?」
「さよう。いくら助けを呼ぼうとも、外と接触することはできない。魔法も使えない」
「ずいぶん気が利いてるな?」
長剣を鞘に収めると、ミカイアは言った。
「スプーン曲げがやっと、ってレベルだと思ってたんだけどな?」
「お前に用はない。どうだ、クニカ?」
司令官に名指しされ、クニカは身震いする。
「我らの下に降るといい。そうすれば、ここにいる三人も、外にいる“自由チカラアリ”の者どもも、助けてやる」
「クニカ、ワナだ」
司令官の方を見つめたまま、ニコルが言った。
「お前が降参しても、オレたちは――」
ニコルが言いかけた矢先、不意にミカイアが、リンのことを突き飛ばした。リンは倒れ、ミカイアの手から、赤いものが飛び散る。ミカイアの左手に、穴が空いていた。
クニカは、理解が追いつかなかった。ミカイアの手の穴を通じ、真正面を凝視するしかなかった。観覧席の下から、兵士の一群が現れる。兵士たちは、銃の照準をクニカたちに向ける。
「ミカイア……」
自分でも情けなくなるくらい、クニカの声はかぼそかった。
「ひどいケガ……」
「ずいぶんとご挨拶じゃないか」
既にミカイアの足下には、血だまりができている。
「これ以上は撃つな!」
司令官が怒鳴った。目の辺りが、水晶のように光る。
「“竜の娘”は、生きて確保しなければならん――」
しかし、司令官が全てを言い切ることは許されなかった。
「なんだ……?」
地面に尻餅をついていたリンが、異変に気付き、声を上げる。クニカたちの後ろ、観客席の奥から、地鳴りのような音が響いてきた。音は次第に大きくなり、クニカたちの方角へと近づいてくる。
「何なんだよ」
「追い詰められたのは……どっちかな?」
ミカイアが笑った。
音の第一陣が、観客席の出入口から飛び出す。水色、白、黒――様々な色をした大きな影が、うなり声とともに、グラウンドになだれ込んでくる。クニカをすっぽりと包んでしまうほどの大きな耳に、しなやかに湾曲した白い牙、木の幹のように太い鼻――。
「象だ!」
クニカは言った。象の群れだった。グラウンドに刻み込まれていたはずの魔法陣が、象の蹄にえぐり取られ、光を喪う。代わりに、クニカの間近で、淡い光が発生する。
「クニカ、頼む!」
「あっ、はい……!」
ミカイアに促され、クニカもはっとする。魔法陣が裂けるやいなや、クニカもミカイアも、魔力を取り戻したのだ。自分でも気付かないうちに、ミカイアの傷を心配する心から、クニカは“救済の光”を発動していた。
象の群れに、兵士たちは照準を切り替えようとする。しかし、散発的な発砲音は、象の咆哮を前にして、あっという間に聞こえなくなる。兵士たちの姿さえ、殺到した象の群れの中に、たちどころに埋没する。
土埃が舞い上がり、クニカは目をつぶる。次に目を開いた時にはもう、ミカイアは側にいなかった。ミカイアは、観覧席に移動していた。縁に立って、司令官を見下ろしている。
「あり得ない」
「アンタが可哀そうだ」
ミカイアの左手の拳が、司令官の頭部に吸い込まれる。陶器を叩き割るような音とともに、司令官の姿は、観覧席の向こう側に見えなくなる。
「アッ、ハッ、ハー……」
そのとき、兵士たちを蹂躙し、辺りを動き回る象たちの中から、少女の声が響くのを、クニカは聞き取った。
声の主は誰なのか。クニカは辺りを見回そうとする。その瞬間、猛烈なめまいに襲われて、クニカは立ちくらんだ。
「クニカ?!」
リン! そう叫ぼうとして、クニカは声が出ない。言葉が脳内に反響し、不協和音となって、クニカ自身に返ってくる。世界全体が自分から遠ざかっていくかのような感覚に襲われ、意識の外へと、クニカは放り出された。




