054_水路の街(Город водных путей)
――以来、私たちは人の子として、死の業を教えられたのである。
(『アダムの黙示録』、第6章)
「大丈夫か?」
暗がりの中、クニカのすぐ側から、リンの声が聞こえてくる。
「平気だよ、リン」
手を伸ばそうとして、クニカの指先が、固いものに触れた。クニカは慌てて、手を引っ込める。
「そこか、クニカ?」
クニカの隣で、水しぶきが上がる。それに合わせて、ニコルの声が聞こえてきた。
「大丈夫?」
「手、貸してくれないか?」
声のする方向に、クニカは手を突き出す。ニコルが、クニカの腕を掴んで立ち上がろうとする。だが、水の中で、クニカは踏ん張りが利かない。ニコルはなかなか立てないでいた。
「ニコル、もうひと頑張り」
「ン!」
そのとき、ニコルの背後から別の声がしたかと思えば、その体が、一気に押し上げられた。
「おおっ?」
急に押し上げられ、今度はニコルが慌てる番だった。クニカとニコルは、暗がりの中でぶつかりそうになる。
「おーっ、ニコル!」
歓声混じりに、だれかが手を叩く。カイの声だった。
「さ、さすが……」
「ン!」
クニカの言葉に、カイは得意げだった。鯱の魔法属性であるカイは、何かにつけて力持ちだった。
「痛ってぇな」
やや離れた位置から、ジュネの声が聞こえた。
「気持ちよく寝てたってのに」
「ばか、助かっただけマシだろ」
リンが言う。
「砲撃されたんだぞ」
今しがたの出来事を、まぶたの裏で、クニカは思い返す。
クニカたちキャラバンは、二台のトラックでチカラアリを目指していた。道中での危険を覚悟していたが、旅は拍子抜けしてしまうほど安全だった。一週間も経たないうちに、クニカたちは、チカラアリの郊外までたどり着いた。
そして、チカラアリの”旧市街”へ入るために、鉄橋を渡ろうとした、まさにその瞬間、
――何だ、あれ?!
と、リンが叫んだ。クニカが見て取ったのは、中空で光った星のようなものが、光の尾をたなびかせながら、猛然と殺到し、クニカたちの前を走るトラックに衝突する瞬間だった。そのとき、稲妻が割れるような大きな音とともに、トラックは火を噴き上げて真っ二つに裂け、橋が大きく傾いた。それが砲撃だったと分かったときには、クニカたちを乗せたトラックは、橋桁をすべり落ち、水路に飛び込んでしまっていた。
もし、自分たちのトラックだったら。そう考え、クニカは身ぶるいする。
「ここを出るぞ」
水路に落ち込んだせいで、トラックの中は、腰まで水びたしだった。おまけに、ころげ落ちた衝撃で、照明となるものは、すべて壊れてしまっていた。
「待て、ジュリは?!」
「――開いた!」
リンの声よりも先に、ジュリの声が響く。と同時に、トラックの荷台を覆っていた幌が裂け、外からの光が差し込んでくる。
「見て見て! さすがね、リンのナイフ」
外からの光を受け、ジュリは笑っている。右手には、リンのナイフが握られていた。
「あっ、オレ!」
「何言ってんのよ、逃げ道探すのが先でしょ」
「ウーッ、くっせぇな」
ジュネが、服の袖で鼻をかむ。
「ドブ……じゃねえな、ガソリンだ」
「まずい」
目の前にある鉄骨を、クニカは手でつかむ。橋の残骸が、トラックの荷台を、ちょうど縦に分断していた。リンとジュネは、ジュリと一緒になって、幌の切れ目から外へ出られるだろう。しかし、クニカとニコルは、この鉄骨が邪魔して、一緒に出られそうにない。
「邪魔だな、これ……」
目の前の鉄骨を両手でつかむと、リンはそれを押したり、引っ張ったりする。しかし、鉄骨はびくともしなかった。
「カイ、なんとかできそうか?」
「ンーン。」
「クニカ、魔法は?」
「これを動かすの?」
「リン。この鉄骨、まだ橋とつながってる!」
外の様子を覗いてから、ジュリは、リンにナイフを返した。
「橋の上、何か燃えてるっぽい。燃えかすでも落ちてきたら――」
ジュリの言いたいことが、クニカにも分かった。クニカが魔法を使ったはずみで、燃えさかる物体が落ちてくれば、水に浮くガソリンに引火するだろう。そうなれば、クニカだけではなく、リンたちもただでは済まない。
「反対側から出るんだ。ニコル、頼む」
「任せろ」
鉄骨の合間から腕を突き出すと、リンはニコルにナイフを託す。それを受け取ると、ニコルは早速、ナイフを幌に突き立てるた。張り詰めた風船が裂けるようにして、幌に穴が開き、光が差し込んでくる。
「出るぞ」
「分かった」
「ン!」
「すぐに合流する」
自身も出口に近づきながら、リンがクニカに言った。
「隠れて待ってる――」
肩まで水に浸かりながら、クニカとニコル、それからカイは、トラックの外へと泳ぎ出る。
トラックの荷台を踏み切ってすぐ、クニカは自分の足下を見つめた。日射しのお蔭で、足下は透きとおって見える。
スニーカーの下には、冷たい水の青さが広がっている。それにクニカは、トラックの幌を飛び出してすぐに、木製の小舟が停められているのを見てしまった。クニカが考えていたよりも、水路はずっと深い。
「足がつかない!」
「カイ、掴まらせてくれ……」
顎の辺りまで浸かりながら、ニコルが必死になって、カイに呼びかける。ニコルは泳ぐのが苦手らしく、水の上に顔を出すだけで、精一杯のようだった。
「ン!」
そんなニコルを見て取ると、カイはニコルの右脇にもぐり込み、自分の首に、ニコルの右腕をわたし込む。
「ありがとう。情けないな――」
水をかき分けながら、水路に備えられた停泊場まで、三人はたどり着く。カイは、水の中から垂直に飛び上がって、きれいに着地する。クニカとニコルは、何とか這い出した有様だった。
「〈あれか? あれだな!〉」
一息つく間もなく、頭上から聞こえてきた男の声に、クニカは身を固くする。男が話す言葉は、クニカたち“南大陸”に住む人間の話す言葉ではなかった。
にもかかわらず、男が話す内容を、クニカは理解できる。“竜”の魔法の能力によるものだった。
クニカ、ニコル、それからカイは、誰彼ともなく息を殺し、姿勢を低くする。途中クニカは、ニコルに目配せした。ニコルもクニカに視線を返す。
停泊場の上にいる男は、“北大陸”の言葉を――つまりは、サリシュ=キントゥス帝国の言葉を――話している。帝国出身のニコルは、相手の言葉が、当然に分かるようだった。
「〈うん、見えるぞ〉」
「〈上手く命中したな。橋ごと吹っ飛んでやがる〉」
男たちの会話が、クニカの耳に入ってくる。砲撃は紛れもなく、サリシュ=キントゥス帝国による攻撃のようだった。
――サリシュ=キントゥス帝国のことです。
――その兵士たちが、南の大陸に攻め込んでいる。
大瑠璃宮殿でのプヴァエティカの話を、クニカは思い出す。
チカラアリの街は、サリシュ=キントゥス帝国軍の占領下にある。砲撃は、クニカたちへの洗礼だったのだ。
「〈『侵入者に容赦するな』ってお達しだからな。これで木っ端みじんだ!〉」
「〈待て、まて〉」
得意げに語るサリシュ=キントゥスの兵士のことを、もう一方の兵士がたしなめる。
「〈あれを見ろよ。崩れた橋桁の下。もう一台沈んでる〉」
「〈それがどうした?〉」
「〈あれは吹っ飛んじゃいねえ。どうする? もし中に乗っていた奴らが、街の中に忍び込んだとしたら〉」
つばを呑み込みたくなる衝動を、クニカは堪える。リンたちはまだ、トラックの付近にいるだろう。もし、この男たちが橋まで近づいて、リンたちを見つけようものなら、ただでは済まされない。
「〈なっちゃいねえな〉」
兵士のひとりが、鼻を鳴らした。
「〈だろ? 確認に行かなきゃならん〉」
「〈今ならこっちが有利だ〉」
その声とともに、何かを構える音が、クニカの耳に届く。この世界に転移する前、映画の中でしか聞いたことのないような音、銃を構えるときの音だった。だからクニカは、「銃を構える音だ」と気づいたものの、あまりにも現実ばなれしている気がして、何ら反応できなかった。
そのとき、クニカの隣で動きがあった。ニコルが立ち上がると、階段を上り、橋まで近づこうとしているサリシュ=キントゥスの兵士たちを追いかけ始める。
「ニコル?!」
「〈おい、待ってくれ!〉」
追いすがろうとするクニカをよそに、ニコルは大げさに手を振って、サリシュ=キントゥスの兵士たちを呼び止める。他方において、ニコルは、空いていた右手をクニカの方に向けながら、しきりに制止する仕草をしていた。
ニコルの意図を察知して、クニカは再び、階段の下にしゃがみ込む。そんなクニカの側で、カイは静かに水に潜り込んだ。
「〈なんだ、お前は?〉」
「〈西部方面軍のニコルだ〉」
「〈西部方面軍?〉」
ニコルの言葉に、素っ頓狂な声が上がる。
「〈壊滅したって話じゃねえか。何だってこんなところに――〉」
「〈命からがら、逃げてきたのさ〉」
(カイ……?)
階段の影に隠れつつも、クニカは首を伸ばして、水の中を覗き込んだ。
カイは泳いで引き返し、リンたちに危険を知らせにいった――と、クニカは思い込んでいた。だが、カイの意図は別にあるらしい。
「〈生き残ったのは、お前だけか?〉」
その間にも、ニコルと兵士たちの会話は続く。
「〈ああ、コイクォイをかいくぐりながら、な〉」
「〈ウルトラはどうなってる〉」
「〈そこまで辿り着いちゃいないさ。バケモノが大暴れして、逃げるだけで精いっぱいだった〉」
「〈待て、おかしいぞ〉」
もう一人の兵士が、会話に割り込んでくる。
「〈西部方面軍は、コイクォイとギャングにやられて壊滅した、って話じゃねえのか?〉」
「〈え……?〉」
兵士の言葉に、ニコルはうろたえている様子だった。
「〈そういえばそうだったな! おい、お前の話、どこかおかしいぞ〉」
「〈まさか、上からの話が嘘だってだけだろ〉」
「〈いや、おかしい。だいたい、西部方面軍の生き残りが、どうして今になってここにやって来るって言うんだ。さてはお前――〉」
ニコルが窮地に立たされていると思ったクニカは、なりふり考えず、すかさず階段を駆け、道まで飛び出した。ニコルの正面にいた二人組の兵士たちは、いきなりクニカが現れたことに、驚いているようだった。
「〈何だ、お前……?〉」
だが、驚いたのはクニカも同じだった。兵士たちの後ろに、カイの姿が見えたからだ。
両腕を振り上げると、兵士のひとりの脳天に、拳をお見舞いする。
「うぎゃっ?!」
兵士は一声叫ぶと、そのまま地面にのびてしまった。
「〈な、何だ?〉」
隣で上がった悲鳴に驚き、もうひとりの兵士が後ろを振り向く。すかさずニコルが兵士に飛びつくと、その腕を締め上げる。
「〈ま、待ってくれ――〉」
もがく男の前で、カイが自動小銃を振り上げると、こん棒のようにして、その頭に叩きつける。
「うっ?!」
喉の奥から、小さな声を漏らすと、もうひとりの兵士も、地面に倒れ、のびてしまった。
「――ハァ、死ぬかと思った」
ニコルは、安堵のため息をつく。
「カイ!」
自動小銃を肩にかかげ、得意げにしているカイのもとまで、クニカは駆け寄った。
「どっかに行っちゃったのかと思ったよ」
「ン。カイ、回ってたゾ。」
「回ってた?」
「ン。グルッと」
カイの指の動きに合わせて、クニカは手すりから身を乗り出すと、水路の様子を眺めてみる。よく見てみれば、水路は枝分かれしており、カイは分岐した水路を回り込んで、兵士たちの背後に降り立ったのだろう。
「すごいね、カイ。よく見てる」
「ン!」
「リンたちのところまで行こう!」
クニカとカイに、ニコルが声をかける。
「早くしないと――」
「う、動くな!」
そのとき、クニカたちの背後から、別の声が聞こえてきた。




