050_こうして光が在った(и был свет)
周囲を塗りつぶすような闇の冷たさに、ニフシェは立ちすくむ。気付いたときには、ニフシェは闇の中で、長剣を握りしめて立っていた。
目玉だけを動かして、ニフシェは周囲から、気配を探り当てようとする。このときがやって来たのだということを、ニフシェは直感する。闇は、ニフシェの姉・ニフリートの日常であり、その住処だった。シャンタイアクティが迫り、真の“裏切り者”へと近づくにつれ、姉・ニフリートの魔力は強まり、ニフシェに強く影響を及ぼしている。
ニフシェの脳裏に、あるイメージがよぎった。それは、トレーラーの出入り口に腰かけ、葉巻を吸いながら語る、オリガの姿だった。
――あたしが、キミのこと嫌いだって知ってたかい?
植物園での会話が、イメージと重ね合わさりながら、ニフシェの頭に反響する。オリガは、自分を嫌っている。その事実は動かせない。ただ、ニフシェが想像していた以上に、オリガはみずからの感情に苦しんでいる。
(違う)
ニフシェは気付いた。チャラティパッド=ハデシュにおける植物園での、あの完全な瞬間は、オリガにとっても、ニフシェにとっても、忘れがたい記憶である。ちょうど、ドゥーチェの死が、忘れがたい記憶であるのと同じように。
それでも、見逃してはならない“違い”が、ひとつある。
ため息をつくと、ニフシェは周囲を見渡してみる。暗闇に慣れ始めたニフシェの瞳に、建物の輪郭が浮かび上がってくる。
ここは、回青堂。星誕殿にある施設のひとつだ。回青堂を訪れた者は、みずからを観想し、心の動き、感情の流れを、つぶさに観察する。自らの内側を眺めることにより、騎士たちは、世界におけるみずからの在り方を問い直し、その在り方を新たにできる。
回青堂の天井、壁面、そして床は、すべて深い青に塗りつぶされている。青の深さを、ニフシェは闇と誤解したのだ。現状もまた、ニフシェの記憶の一部にすぎない。
見逃してはならない“違い”は、ニフリートの関わりようだった。ドゥーチェの死に、ニフリートは関わっている。だから、ドゥーチェのトラウマの中で、ニフリートはニフシェと共犯関係にある。
では、植物園の記憶はどうか。あの場面に、ニフリートはいなかった。ニフシェと、オリガとだけが持っていて、ニフリートが持っていないはずの記憶。それをニフリートは、トラウマとしてニフシェに投げかけてきた。
何かがおかしい。
答えは二つにひとつ。
あの場所に、実はニフリートは居合わせていたのか――、
あるいは、ニフシェが“ニフリート”だと考えている者は、偽者なのか。
ニフシェの脳内に、思念の光が瞬いた。それは、“影”と交戦し、その手をつかみ取った時に瞬いたものと、同じ光だった。思念は、みずからの罪がないことを声高に叫びながら、童心と、母性とを、ニフシェの心にしきりに喚起しようともがいていた。
あのとき、“影”に対して、ニフシェは何と言おうとしていたのか――。
「思い出した」
ニフシェは言った。その声は、回青堂の青さに染み込んでいく。ただニフシェは、その声が“相手”に届き、相手を立ち止まらせたことを直感した。
「分かったよ。ずっと誤解していた」
どこかにいる“相手”に、ニフシェは呼びかける。
「キミはニフリートじゃない」
自分の背後に、ニフシェは振り向いた。そこにいたはずの“相手”は、すかさず身を翻し、再びニフシェの背後に回り込んだ。その動きは俊敏で、音はせず、重力の制約を免れている。しかし、そんな“相手”の動きさえも、今のニフシェには手に取るように分かった。
「正面から戦ったら、キミはボクに負けてしまう。だから、策を練った。キミはニフリートのフリをして、ボクに接近する。そうすれば、ニフリートが“影送り”をしたのだと、ボクは誤解する」
ニフシェは続ける。
「だけど、いくらニフリートの魔力が強くとも、大陸の反対側にいるボクを殺せるほどの影は作れない。よく考えてみれば、当然なんだ。ペルガーリアでさえ、ミーシャを使って、声を届けるのが精いっぱいなのだから。力を及ぼすことなんて、できやしない」
覚悟を決めた相手が、自分に近づいてくる。――ニフシェは直感した。五歩もしないうちに、相手はニフシェを、右手に握り締めている匕首の射程に捉えるだろう。
「キミはきっと、ここから逃げる準備を進めている。キミとは何度か稽古をしたけれど、キミの方が分が悪いことは、キミが一番よく知っているはずだからだ」
あと三歩。
「だけど、ボクにとって大事なのは、その後なんだ……と思う。奇妙な感覚だけれど、今なら分かる」
あと一歩。――“裏切り者”はすでに、この夢から退場してしまっていることに、ニフシェは気付いていた。背後から迫ってくる相手は、残像に過ぎない。ただ、そのことはニフシェにとって、計り知れない意味を帯びていた。
「ニフリート、ボクはキミが怖い。ほんの少し前まで、キミは誰かに怖がられることによって、自分の居場所を確保しているのだと、ボクはそう考えた。ボクの間違いだったけれど」
予備動作なしに、相手が自分の足元に肉薄してくるのを、ニフシェの第六感が捉える。相手はニフシェの背後から、その喉元に目がけて、匕首を振り下ろす。
だが、それらの動作はすべて、ニフシェの予見したとおりだった。相手の踏みこみに合わせ、ニフシェは肘を折りたたみ、身体をよじる。指先の技で長剣を逆手に構えると、ニフシェは肘を発条のようにしならせ、背後に長剣を走らせる。確かな手ごたえとともに、硬いものがぶつかり、床に何かがはね飛んだ。続けて、乾いた金属音が、ニフシェの耳にこだまする。
ニフシェは後ろを振り向いた。匕首を握り締めた“相手”の体が、ニフシェの足元に転がっていた。首から上は切り取られ、足元に転がっている。
“相手”は覆面を被っていた。それは、笑う鬼をかたどった被り物で、“植物園”の記憶の最後に、ニフシェに向かって銃を突きつけた人物だった。
「多分だけれど、ニフリート、キミも本当は……自分自身が怖いんじゃないか? だからキミは、ボクのことにこだわるんだ。ボクとキミとは限りなく近くて、限りなく遠い。だから、もしボクが答えに気付いたとき、ボクはキミと違ったふうに反応する。それは当たり前のことなんだ。キミはニフリートで、ボクはニフリートじゃない。ボクはニフシェで、キミはニフシェじゃない。だからこそ、それがキミにとって致命的になる」
長剣を投げ捨てると、ニフシェは歩いて、床に落ちた相手の頭部を拾い上げる。
「今のはね、ニフリート。答えじゃなくて、答えの裏返しさ。限りなく答えに近い、答えの逆。姉さん、ボクの言いたいこと、分かるだろう?」
相手の頭部から、ニフシェは覆面をはぎ取った。夜空の星のような銀色の髪を持ち、紺色の瞳を持つ少女。――ニフシェの頭部が、ニフシェの手によって抱かれていた。
ニフシェは笑った。
「ほら、やっぱりだ。知ってたんだ」
回青堂の輪郭が溶け出し、周囲は急速に闇へと包まれ始める。
「暗いな」
少女は舌打ちした。
「耀れ!」
暗闇の中で、叫び声がする。
こうして光が在った。




