048_地の塩、世の光(Вы соль земли. Вы свет миру.)
――家々を備えたのは叡智である。ゆえに彼らは、再生の言葉を得ようと待ち受けているのである。
(『大いなるセツ第二の教え』、第6章)
「――悪いな、こんな夜中に」
コンテナの扉を、オリガが開ける。夜風は、コンテナの中へと吹き込み、チャイハネの金髪を撫でる。
「構やしないさ」
縁に腰掛けると、チャイハネは夜空を眺める。荒れ果てた地上から屹立するようにして、夜空の星々が、チャイハネの眼鏡越しにうず高く積まれている。今夜ばかりは、“黒い雨”は降りそうになかった。
“作戦”の成功により、三台のトレーラーはアエンデに入り込み、そこで夜を明かすこととなった。山ではなく、街に野営を立てるのは、今夜が初めてだった。
「夜行性なんだ。夜には慣れてるよ」
「ハハ、ひとりに慣れてる、の間違いだろ?」
「ニフシェはいいのか?」
冗談に応じる代わりに、チャイハネは、コンテナの最奥部にうずくまっているニフシェを見る。檻の中で、ニフシェは、窮屈そうに身を横たえている。
「どうだか。……おい、聞こえるかい?」
オリガの呼びかけにも、ニフシェは身じろぎひとつしない。
「ほら、大丈夫さ。これでもミーシャの前は、あたしがアイツの相棒だったんだ。どんな奴かくらい、よく分かってるよ」
チャイハネの隣に座ると、手に提げていた背嚢の中から、オリガは何かを取り出し、その先端を短刀で切り落とした。葉巻だった。
「吸うかい?」
「リンがキレるぞ」
「え?」
「タバコをタカられた、って言ってた。ウルトラを出る直前だよ」
「へえ。チカラアリ人も根に持つんだな」
「そんだけムカついてた、ってことだろ」
差し出された葉巻を手に取ると、チャイハネは鼻に近づける。葉巻から漂う甘い香りに、チャイハネは目を細める。
「いいのか? 高級なやつだろ?」
「あたしの秘蔵っ子さ」
「だったらなおさら――」
「気にすんな」
葉巻の先端をゆっくりと焦がすと、オリガはそれを口にくわえる。
「お礼だよ。治してもらったろ?」
右肩だけを、オリガはわざとらしくすくめる。
「ありがとうな。お蔭で、だいぶ良くなった気がする」
チャイハネは黙ったまま、指先に魔力を込め、その力で葉巻を焦がし、火を着けた。葉巻の煙を、チャイハネはくゆらせる。
「気持ち悪いな」
煙を吐きながら、チャイハネは言った。
「え?」
「あんたらしくない、っていうか」
「そうかい。『医者のタマゴにしちゃあ、正確な施術じゃないか。見直したよ、褒めてやろうか』ってか? ふざけんな」
「悪かったよ」
オリガの横顔を、チャイハネは見る。ランタンの灯りの下で、オリガは涙を浮かべていた。
「なあ、マジであたしが悪かった」
オリガは答えなかった。ばつが悪くなったチャイハネは、葉巻を味わうことに集中する。
街に人はおらず、静まり返っている。すべては“黒い雨”に押し流され、善人も、悪人も、みな死んでしまった。チャイハネは、もう十分に人気のない街に慣れていたはずだが、今日だけは肌寒さと、居心地の悪さを覚えていた。
「先輩からのなんだよ、葉巻は」
しばらくしてから、オリガが言った。
「まだ見習いだった頃さ。あの頃は、騎士はめっちゃカッコ良く見えた」
オリガは歯を見せて笑う。
「懐かしいな。『騎士になりたい』って思う気持ちと、『こんなに強くなれるんだろうか』っていう気持ちとが、あのときはないまぜだった」
「じゃあ、アンタはその先輩を超えたわけだ」
「騎士になって、この葉巻を思い出した。貰ったきり、引き出しに入れっぱなしだったんだ。それで、先輩がしてくれたように、あたしは後輩ちゃんに、この葉巻をあげようって、そう思った」
「でも、アンタはまだ葉巻を持ってる」
「死んじまったんだ」
実際にオリガが答えるまでには、間があった。
「テレザってヤツさ。アイツは中産階級だったけど、同郷だったから、あたしのこと慕ってくれた。努力家でさ、弱い奴らを見棄てられなくて、だから、その……死んだ。いや、違うな」
オリガは、自分の髪を掻いた。
「あたしのせいなんだ。テレザを殺した奴を追いかけようとして、あたしも死にかけた――」
「なあ、深呼吸しよう」
咳き込んでいるオリガの背中を、チャイハネは軽く叩く。チャイハネは落ち着かなかった。普段からは想像もつかないほど、オリガは心理的に参っているようだった。
「息を吸おう。この世界で生きるためには、酸素が少なすぎる」
「ニフシェに助けられた」
口元を手で拭いながら、オリガが続ける。
「ニフシェがいなかったら、あたしはとっくに死んでた。不愉快だけどな」
「どうしてニフシェを嫌う?」
チャイハネは尋ねる。つま先に視線を落としたまま、オリガはじっと考え込んでいた。
「逆だからだろうな」
ややあってから、オリガが答える。
「逆? 何が?」
「何もかもさ。生まれも、育ちも、ものの見方も、考え方も。それで……あたしが欲しいものは、全部アイツが持ってたのさ」
「ひがみ、ってもんじゃないか」
「だよな。分かってるさ、そんなこと。だから初めは、それをバカバカしいと思うようにした。一緒に過ごしているうちに、そんな感情は、いつか湧かなくなる。そう言い聞かせたけれど、ダメだった」
コンテナの縁に、オリガは葉巻を置いた。ランタンの光に幻惑されてやって来た蛾が、葉巻から漂う煙に怯え、離れていく。
「だから、あたしは目標を変えた。ニフシェを超えれば、使徒騎士で、アイツよりも上位になれば、ひがみはなくなるって、そう思った。だけど、何も変わっちゃいない。――あれ、見えるだろ?」
オリガが指さす方向を、チャイハネは見つめる。アーケードの一角、閉ざされたシャッターに、グラフィティが描かれている。グラフィティの中では、イスカリオテのユダが、黄金の雲に包まれて、虹色の光を帯びていた。『ユダの福音書』に描かれている、啓示の一場面だ。
「騎士になれなかったら――」
オリガが続ける。
「あたしは、ペンキ屋になってたね」
「ペンキ屋?」
「儲かるんだよ。それに、女でもできる」
――儲かるんです。それに、私でもできそうです。
「フフッ」
いつかの夜に、シュムが言っていたことを思い出して、チャイハネは吹き出してしまった。
「何だよ? これでも絵は得意だったんだ」
「いや、そうじゃないんだよ」
「――ま、とにかくペンキ屋だったな。実家は染物屋だったけど、それじゃ儲からない。ずっと腰をかがめて、両腕を染料まみれにして、それが嫌だった」
「でも、騎士団に入れたんだろ」
「そうさ。入団したときは、しびれるような気分だったな。何もかもがハイカラだったし、ここには、あたしの居場所がある、って思えた。そりゃ、貴族もいるけど、職人の子も、農家の子も、孤児も、みんな分け隔てなく、星誕殿で暮らしてる。それが性に合った」
目を細めながら、オリガは語り続ける。
「あたしの先輩の先輩なんかは、それこそ孤児で、ろくに字も書けなかった。だけど星誕殿で努力して、騎士にまでなった。若くして死んじゃったらしいんだけど――。とにかく、誰にでもチャンスが転がってた」
「で、アンタはものにしたわけだ、そのチャンスを」
「騎士になったときは、今度はあたしが、みんなにチャンスを与える番だって、そういうつもりだった」
オリガはため息をついた。
「だけどさ、実際はこのザマさ。こんなちょっとした旅ひとつ、まとめられやしない。エリッサにも嫌われちまうし」
「エリッサが?」
チャイハネは目を丸くする。
「エリッサと、何かあったのか」
「――あたしが、聞いてないとでも?」
力なく笑うオリガを見て、チャイハネははっとする。オリガの怪我を治したとき、チャイハネはオリガからブリキのバケツを奪って、プヴァエティカとエリッサの待つトレーラーまで乗り入れた。負傷したオリガに代わり、禊用の水を運び込むためだったが、そのときチャイハネは、プヴァエティカとエリッサと、オリガについて話をした。
「雨に濡れないために、トレーラーの下に潜り込んだ。鯰の魔法でさ。それで、話してるのに気付いた」
オリガは肩をすくめてみせる。
「『わたしたち、もうちょっとだけ、良い出会い方ができたのかも』ってさ。優しいよな、彼女? もっと口汚く言われてもおかしくないのに。けど、だからなおさら堪えるんだ」
チャイハネは思い返す。エリッサの言葉を聞いたとき、チャイハネは頭の中で、シュムと出会ったときのことを思い出していた。
もし、もっと良い出会い方が、自分に訪れていたら? そう自問自答して、チャイハネは怖ろしいことに気付いた。それは、シュムと出会ったことが、チャイハネにとって本当に良いことだったのかどうか、それを確かめる方法は、世界のどこにも存在しないということだった。
と同時に、それはシュムにとっても同じことなのだと、チャイハネは直感した。チャイハネとの出会いが、シュムにとって本当に良いことだったのかどうか。チャイハネはそれを評価することができず、シュムもまた、それを評価することはできない。自分の人生を、違ったふうに、もう一度生きることはできないからだ。
これまで考えていたことが、奔流のようになって、チャイハネの心に押し寄せてくる。本来であれば、父親の下から逃げ出した自分の前に、未来などなかったということ、シュムと出会ったことによって救われたのは、むしろ自分の方だということ、心のどこかでは、シュムとの生活に終わりがやって来ることに、自分は気付いていること、だから心の奥底で、自分は幸せとは感じていないということ、
そしてシュムは、その気になれば、いつでもチャイハネの下を離れられるということ。
そのときが来たら――チャイハネは、居場所を探さなければならない。ちょうどオリガが実家を飛び出し、騎士団に入ったのと同じように。
チャイハネの見出した“居場所”に、シュムがいるとは限らない。
「悪かったな、チャイ」
立ち上がると、オリガは大きく背伸びをしてみせた。
「すいぶん、長く着き合わせちゃったな。今夜の話、忘れてくれよな。使徒騎士の心が迷ってるなんて、後輩に示しがつかない――」
「居場所――」
立ち去りかけたオリガに、チャイハネは思いがけず尋ねる。
「え?」
「居場所なんだろ、それでも? 星誕殿がさ」
「そうだな」
「そういう生き方も……分かる気がするよ」
答える代わりに、オリガが大きく目を見開いた。
「分かってくれるか?」
「今なら分かる気がする」
「そうか! そりゃ良かった。ハハ」
両腕を高く掲げようとして、オリガは慌てて右腕を引っ込める。右肩の傷が癒えるには、まだ時間が必要なようだった。




