047_奪う権利(право грабить)
(オリガ……)
意識の裏側で、ニフシェは、かつての相棒の名前を呼んだ。
植物園の中で破局を――あの決定的で、恐るべき破局を迎えてすぐ、オリガとニフシェは、潜伏していた工作員から襲撃を受けた。扉を開けた瞬間、オリガは銃で撃たれたのだ。
普段のオリガならば、あの程度の奇襲は簡単に退けられただろう。ただ、あのときのオリガは冷静さを欠いていた。
あれから何年も経った。ニフシェもオリガも、まだ生きながらえている。生きることができている。
ニフシェは目を開ける。暗いコンテナの入口付近に、周囲の闇をかき集めたかのような、黒い人影が立っている。ニフリートの”影”だ。”影”は、以前よりも濃さを増し、頭部からの青白い二つの光が、ニフシェをじっと見つめていた。
青白い光を、ニフシェは見つめ返す。シャンタイアクティまで、キャラバンは近づいている。それは、星誕殿に潜む、”真の裏切り者”に近づいている、ということだった。
距離が近づくにつれ、“真の裏切り者”を経由して注ぎ込まれる魔力は、強さを増していく。以前、”影”に目はなかった。今や、“影”は目を備え、ニフシェを見つめている。
〈キミの大切なものを奪う権利――〉
“影”が言った。
〈ボクには、その権利がある〉
次の瞬間、”影”は、ニフシェのいる檻を目がけて突進する。檻の上に覆い被さると、“影”は腕を伸ばして、ニフシェを捕らえようとする。腕はニフシェの脇をかすめ、爪が、ニフシェの服に食いこんだ。
左手を伸ばすと、ニフシェは”影”の手首を掴み、右手で”影”と手のひらを合わせる。そのまま床に転がると、ニフシェは右足を折りたたみ、”影”の顎に爪先をあてがった。”影”の身体の大きさでは、檻の中にいるニフシェに、片方の腕しか届かない。片方の腕を固め、身動きできなくしさえすれば、ニフシェにも生き延びるチャンスはある。
うなり声を上げると、”影”はニフシェの右手の甲に爪を立てる。流れ出した血が、ニフシェの額に降り注ぐ。
「約束したんだ」
ニフシェは諦めなかった。
――本当の裏切り者を、必ず見つけ出してみせる。約束するよ。
ミーシャと交わした言葉を、ニフシェは心の中で繰り返す。”真の裏切り者”に取り込まれるつもりは、ニフシェにはなかった。
右手に力を込め、ニフシェは”影”の手を握り返す。
そのときだった。
「うっ……?!」
ニフシェの脳内を、思念の光が照らした。その思念は、みずからに罪がないことを、声高に叫んでいた。心に流れ込んでくる名状しがたい感情に、ニフシェは目の前の危機を一時的に忘れた。その感情は、童心と、母性と、過去の記憶とを、ニフシェの眼前に写しだそうとしていた。
「キミは……?」
ニフシェは言った。その言葉は、半分以上は自分に向けられたものだったが、紛れもなく直感として、ニフシェの心に差し込んできたものだった。それは、まだ断定できるようなものではなかったが、少なくともこれまでの状況を一変させるものだということを、ニフシェは理解した。
「ニフリート、キミは……」
ニフシェは言いかけた。最後まで言い切ったとき、“影”と自分との関係性が変わることが、ニフシェには分かった。しかし、どのようにその関係性が変わるのか、良化するのか悪化するのか、ニフシェには分からなかった。
流れていた血が止まる。ニフシェは異変に気づいた。右手を締め付ける、”影”の握力が緩んでいる。それどころか、今度は”影”は、必死になってニフシェの手を逃れようとしているようだった。
「待って」
あと少しで、真実に至ることができる――そんな予感を得た矢先、ニフシェの脳内に、”影”の悲鳴が鳴り響いた。ニフシェは目を閉じ、その隙に、”影”はニフシェの手を振りほどく。再びニフシェが目を開けたときには、“影”は消え去っていた。
額を拭うと、ニフシェは身を起こし、コンテナの中を見回してみる。暗闇に慣れたニフシェの視界の中に、動くものは何もない。”影”は、完全に行方をくらましていた。
「悪いな、こんな夜中に」
そのとき、ニフシェの耳に、耳慣れた声が聞こえてきた。オリガの声だった。オリガは、だれかと一緒に、コンテナの入口に近づいているようだった。
右手の血を吸いながら、ニフシェは檻の中にうつ伏せになる。オリガがコンテナを開けようとしているのが分かったからだ。起きていることに気づかれれば、オリガは怪しむだろう。怪しまれることだけは、ニフシェは避けたかった。
コンテナの扉が開け放たれ、夜風が内部に入り込む。オリガの話し相手は、チャイハネだった。




