045_君たちはどう生きるか(Как поживаешь?)
――かれはそれの香りを光に向け、かれ自身の安息の裡に、それをあらゆる形、あらゆる音を超越して高くした。香りを聴ぐのは耳ではなく、嗅覚を備えた息だからである。
(『真理の福音』、第28章)
「にゃーん……」
シュムは途方に暮れていた。
使徒騎士・ミーシャとともに、アエンデに侵入したシュムは、”作戦”を決行した。作戦は、起爆する魔法陣を利用して、街に潜むコイクォイをおびき寄せ、一網打尽にする、というものだった。
一回目の爆発で、街中に隠れていたコイクォイたちは、一斉にアエンデの大通りまで集まってきた。コイクォイは、視力を完全に喪っている代わりに、聴力が発達している。わずかな音であっても過敏に反応するコイクォイの性質を、二人は利用したのだ。
そして、二回目の爆発。これもまた、コイクォイを誘導するためのものだったが、目的はそれだけではなかった。
爆心地は、大通りに面した高校の校庭である。爆発と同時に周囲の土砂が舞い上げられ、校庭にはすり鉢状の穴が穿たれる。耳をつんざくほどの音量に混乱したコイクォイたちは、そのまますり鉢の底に転落する。脱出しようにも、すり鉢の表面を覆う土は粉々に破壊されているせいで、這い上がるためのとっかかりは何もない。
しまいには、すり鉢の底はコイクォイたちの群れでひしめき合うようになる。そうなれば、コイクォイたちは互いに爪を立て、暴れ回り、自滅する。コイクォイが全滅したことを確認してから、ミーシャとシュムは祝砲として、三つ目の魔法陣を起爆させる――
はずだった。
「にゃーん……」
コインランドリーの、錆びついたドラム式洗濯機の上にしゃがみ込んでいたシュムは、爪先のすぐ下で泡を立てている泥水を眺め、ため息をつくしかなかった。
二回目の起爆を行い、コイクォイを一網打尽にしたところまでは良かった。しかし、思いがけず”黒い雨”が降ってきた。異変に気づいたミーシャが、とっさにシュムの腕を引っ張っていなければ、シュムは”黒い雨”でずぶ濡れになり、今ごろはコイクォイの仲間入りを果たしていただろう。
シュムはコインランドリーに、ミーシャは、道を挟んで反対側にあった、八百屋の残骸に避難した。
スコールなのだから、じっとしていれば、すぐに止むだろう。――そう考えた矢先、道が水浸しになり、水位がどんどん上がってきた。シュムが慌てて、ドラム式洗濯機の上によじ登ったときにはもう、汚水が扉を押しやり、室内まで流れ込んで来ていた。
天井をたたき割り、二階へ逃げるべきかどうか迷い始めたころに、スコールはようやく収まった。それでも水は退かず、こうしてシュムは、洗濯機の上にへたり込むことになったのだった。
「ミーシャ?」
対岸にいるはずのミーシャに、シュムは呼びかける。ミーシャからの返事はない。
「ミーシャ、ミーシャ! ……ハァ」
シュムは肩を落とした。ミーシャが押し流されてしまった――とは、シュムは考えない。ミーシャは、泳ぎが得意である。それこそ、鯱の魔法使いであるカイにもひけを取らないほどだった。水が押し寄せてきたところで、難なく泳ぎ切って、別の場所まで避難することができるだろう。
問題は、ミーシャがまさしく、それを成し遂げてしまった、ということだった。シュムは取り残されたのである。
(早く来てください……)
身体を動かすのが趣味のシュムだったが、泳ぎだけは例外的に苦手だった。顔を洗うのと、頭からシャワーの水を浴びることまでが、シュムが耐えられる水の限界である。
この泥水の中を泳ぎたいとは、シュムはどうしても思えなかった。水底に潜むがれきの先端に引っかかり、怪我でもしたら、傷口からどんな病原菌が忍びこんでくるかも分からない。とはいうものの、このまま残り続けていても、やがて日が暮れてしまうだろう。チャイハネたちが探しに来るとしても、無人の街で、夜をひとり待つのは避けたかった。
と、そのとき。シュムの耳に、大きな音が響いた。
顔を上げて、シュムは音の方角を見やる。聞き間違いでなければ、今の音は”三回目の起爆”だった。その音は、高校を目指すために、シュムとミーシャとが駆け抜けた方角、つまりは、元来た大通りの奥から聞こえてきた。
ミーシャが、作戦の成功を知らせている――と同時に、シュムに居場所を伝えているのだ。
「よし……」
立ち上がると、腰に下げていたナイフを取り出して、シュムは天井に刃を立てた。ナイフはリンに研いでもらったもので、切れ味は抜群だった。パイン材の天井に、何度もナイフを立てているうちに、天井がもろくなり、穴が開いた。シュムは穴を広げると、そこを通り抜け、二階によじ登る。
「ふぅ」
二階に降り立ったシュムは、扉を抜け、ベランダに躍り出る。建物は、一階はテナント、二階から上はアパートメントになっているようだった。幸いなことに、ベランダはひと続きになっている。シュムはベランダを通り抜けて、音がした方角まで歩みを進める。
遠くを見るために、シュムは目を見開く。周囲に比して、ひときわ広い敷地を持つ建物の一角から、かすかに煙が立ち上っていた。ミーシャが行った、”三回目の起爆”の名残だろう。
〈シュム、〉
そのとき、シュムのところに、突然声が届いた。その声は、シュムの脳内に、直接響くかのような声だった。
〈私です、シュム〉
「驚きました、臺下」
声の主は、ウルトラの巫皇・プヴァエティカである。プヴァエティカは、テレパシーを用いて、シュムに直接語りかけてきたようだった。
後ろを振り返ると、遠くに見える山に向かって、シュムは手を振る。手を振る先には、プヴァエティカたちの待機する、トレーラーが控えているはずだった。
〈無事でしたか〉
「はい。作戦は成功しました。ただ、ミーシャとはぐれてしまって。今、ミーシャところまで向かおうとしています」
〈水族館ですね〉
「え?」
プヴァエティカの言葉に、シュムは驚く。アエンデは、キリクスタンの内陸にある都市である。水族館があるのは、シュムには意外だった。
「水族館があるんですか?」
〈ええ、「淡水魚の水族館がある、そこに行ってみたい」と、言っていました〉
「ミーシャがですか?」
〈はい〉
ミーシャが話すのは「キャー。」とか「みゅーん。」といった喃語が主である。仮に何かを伝えるときも、ミーシャが使うのは簡単な単語ばかりだった。だからシュムは、プヴァエティカがミーシャの意向をすべて知っていることが、不思議だった。
「分かりました。とにかく、水族館まで向かってみます」
〈ええ。私たちも山から下りて、そちらに合流します――〉
プヴァエティカの声が遠のき、聞こえなくなる。再びシュムは歩き出し、ベランダの手すりを乗り越えると、別の建物の軒先に飛び移った。
大通りは、体感では分からないほどの緩やかな勾配となっているようだった。通りを覆っていた泥水も、次第に浅くなり始める。水たまり程度の浅さになったところで、シュムは身を翻して、地面に降り立った。靴は水たまりを踏み抜いて、周囲に泥が飛び散る。
「ここか」
目当ての建物は、すぐに見つかった。入口にある真鍮の看板には「アエンデ森林水族館」と銘打たれている。
建物を見上げたシュムは、居心地の悪さを覚える。レンガ造りの建物の意匠は、シュムの実家を彷彿とさせるものだったからだ。
シュムは、家族にトラウマがある。この秘密は、シュムのほかには、チャイハネだけしか知らない。
心の後ろから迫ってきた不安の影を、シュムは頭を振って払いのける。
「行こう……!」
自分自身を奮い立たせるために言うと、シュムは建物の中へ足を踏み入れた。
◇◇◇
[アエンデ森林水族館へようこそ!]
入場したシュムは、苔にまみれ、ひび割れた看板を目撃する。
[この水族館は、ヴィジャヤナガル州でも最大規模の淡水魚の水族館です。アエンデ市の周囲にある山々、そこの清流に棲息する淡水魚たちを、この目で眺めていってください――]
水族館の中は暗く、壁面も床も、苔に覆われて鬱蒼としていた。
足下は滑りやすく、シュムは手すりに掴まりながら、慎重に前へと進む。ところどころの展示スペースは、ガラスが砕け、周囲に散乱していた。当然のことながら、魚は一匹もいなかった。
ただ、悪いことばかりではなかった。床の苔は、ところどころではがれている。はがれた箇所は、くっきりと足跡をかたどっていた。
みずからの足を、シュムは足跡の上に重ねる。案の定、シュムの足跡の方が大きい。それに、足跡はついさっき付けられたもののようだった。建物に入ったミーシャが、奥まで駆け抜けていったのだろう。
足跡を伝い、階段にまでやって来たシュムは、階下を見てぎくりとする。地下へと続く階段は、完全に水没してしまっていた。
”黒い雨”の騒乱は、この水族館にも及んだのだろう。飼育員たちはどこかへいなくなり、荒れ果てた水族館のガラスは破れ、大量の水が地下まで流入したのだ。
廊下に掲げてあった銅版画を、シュムは見やる。銅版画は、アエンデ市の鳥瞰図であり、その下には「アエンデ市の歴史」と掲げられていた。
「――[周囲を山々に囲まれ、川が通り抜けるアエンデ市周辺の歴史は、治水との戦いの歴史でもありました]」
表面の泥を手で落としながら、シュムは説明文を読み上げる。
「――[古来、この辺りは低湿地帯であり、雨が降るたびに土壌は液化し、浸水することもありました。しかし、治水のための人々の不断の努力が実り、今では潤沢な水の恩恵に預かることができています。完成したばかりの貯水池と水門は、アエンデ市の未来に、更なる繁栄をもたらしてくれることでしょう]。――なるほど」
説明文を見て、シュムも納得する。”黒い雨”の災厄により、この辺りの治水施設が機能不全に陥ってしまったために、雨が降る都度、アエンデ市は冠水するようになってしまったのだ。
説明文の末尾には、年月日が書かれていた。シュムが生まれるよりも、二十年も前の日付である。
そのとき、銃声が響いた。
(今のは……?!)
とっさに身をかがめると、音のした方角を、シュムは見上げた。銃声は、通路の奥から聞こえてきた。足跡もまた、その方角に向かっているようだった。
(行ってみよう)
ナイフを抜き放つと、全神経を集中させて、シュムは足跡をたどる。廊下を曲がった先にある扉をくぐり抜け、シュムは別棟まで続くブリキの階段を降りていく。別棟はドーム型をしていて、その入口には、
Микрокосм пресноводных рыб
と看板があった。アエンデ市周辺の環境をドーム内に再現し、ちょっとした小宇宙を創り上げているのだろう。
ドームの中に、シュムは足を踏み入れる。シュムが入り込んだのは、ドームの二階に当たる部分だった。二階は観覧席となっており、一階の中央にある巨大な水槽を見下ろせる構造になっていた。
ただ、一階の水槽はすでに壊れてしまっている。それに、外部から水が流入したためか、一階全体が湖のようになっていた。シュムのいる位置からも、川魚の群れが泳ぎながら、藻を食んでいる様子が分かった。
「『そうだ』って言って……!」
突然、大声が建物全体を震わせた。声に突き動かされるようにして、シュムは観覧席の後ろに隠れる。
今の声は女性のものだったが、ミーシャの声ではなかった。荒廃したアエンデの街中に、生き残りがいるとも思えない。
観覧席の最前列までにじり寄ると、シュムは声のしたところを凝視する。水没した一階の、その辺りだけ、水がよどんでいた。
(あれは……)
「――これからどうやって生きていけばいいって言うのよっ?!」
水の中に潜んでいた怪物が、再び声を上げ、わずかばかりの陸地に、身体をもたげる。パイナップルのような形状の身体から、人間のような黒い手足が生えている。その全身は、無数の毛のようなものに覆われていた。
怪物の様相に釘付けになったシュムは、その毛を観察し、正体に気づいた。それは人間の指だった。無数の指が、怪物の全身を覆っていた。
トスカ。――それが、この怪物の名称である。コイクォイが変異したものであり、黒ずんだ球状の身体を持っている。体型に似合わず俊敏で、凶暴で、身体の孔から黒い液体を吹き出す。液体は、”黒い雨”と同じ呪いを備えているが、強酸性で、コイクォイでさえ容赦なく溶かしてしまう。
「心配しないで、大丈夫よ。大丈夫よ。心配しないで、心配しないで――」
今度は別の女性の声を、トスカが繰り返した。
トスカは、周囲から聞こえてくる様々な音のうち、人間の声だけを記憶して、それを繰り返す習性があった。アエンデ市から避難しようとした人たちの声を拾い上げ、トスカは、みずからの鳴き声として繰り返しているのだろう。
「まずい……」
背負っていた弩を、シュムは手に構える。ミーシャはすでに、三つ目の魔法陣を起爆させている。その音に合わせて、プヴァエティカたちはアエンデの街に入り込むだろう。
万が一トスカがここを抜け出し、プヴァエティカたちと鉢合わせようものならば、一大事だ。今ここで、怪物の息の根を止めなければならない。
照準を合わせると、シュムは機を絞る。トスカは、がれきでできた島の上に身を横たえたまま、こちらの様子には気付いていないようだった。
シュムが引き金を引く、射出された矢は、まっすぐにトスカの身体に吸い込まれる。
「イイイイイ!」
トスカが悲鳴を上げ、全身を起こした。本能的な恐怖を覚え、シュムはとっさに駆け出す。
次の瞬間、トスカが大きく跳躍し、二階席まで飛び移った。
「うっ……?!」
トスカが飛び移った弾みで、二階席全体に衝撃が走る。ドーム全体が震え、天井を覆っていた鉄板の何枚かが落下した。よろめいたシュムは、とっさに観客席の後ろ側に身を隠す。
「助けてくれるんでしょう?」
女性の声を繰り返しながら、トスカが全身を震わせる。
「だから一緒に行きましょう――どうやって生きていけばいいって言うのよっ?!――心配しないで――どうやって――行きましょう――大丈夫――」
(どうしよう……)
トスカは明らかに、シュムの様子を探っているようだった。あれほどまでにトスカが俊敏だとは、シュムの予想外だった。もし、今シュムが音を立てたら、トスカが飛びかかってくるだろう。その衝撃に、二階の客席は持ちこたえられず、シュムは一階の水の中に落とされることになる。
ただ、今ここでじっとしていたとしても、ゆくゆくは見つかって、トスカになぶり殺されることになる。
「心配しないで――」
シュムのことをあざ笑うかのように、トスカが声を上げた、その時。トスカの様子に気を取られていたシュムの耳に、別の音が聞こえ始める。それは、水底が揺さぶられるような大きな音だった。トスカも異変に感付いたらしく、うなり声を発しながら、いびつな体躯を震わせる。
次の瞬間、銃撃が放たれ、シュムの視界が明滅した。
「うっ……?!」
明滅の激しさに、シュムは思わず弩を取り落とす。シュムの耳には、布を引き裂くような鋭い音に混じり、トスカの悲鳴が聞こえてくる。髪の毛が逆立ち、周囲で静電気が弾ける。
目を開けた時には、トスカの身体からは、黒い煙が立ち上っていた。トスカの身体に、稲妻が直撃したのだろう。トスカは自分の体重に引きずられ、そのまま二階席を転げ、一階まで落下しようとする。
「キャー。」
その瞬間、一階を覆う水全体が盛り上がったかと思うと、黄色い悲鳴とともに、ミーシャが現れた。
「ミーシャ?!」
ミーシャは、水のうねりを一本に束ね、落下しかけているトスカに殺到させる。水の束がトスカの身体に直撃した瞬間、水流が一瞬にして凍り付いた。
「すごい……!」
弩を背負い直すと、シュムは氷の柱の間近までやって来る。トスカの身体は、氷の柱に完全に貫かれていた。その先端は、ドームの天井まで届いている。
ドームの天井に亀裂が入り、氷の柱の周辺が崩落した。外からの日差しが、トスカの身体に当たる。――トスカの最大の敵は、日光である。陽射しを受けた瞬間、トスカの全身は泡立ち始め、氷の柱とともに、あっという間に潰えてしまった。
水中から飛び上がると、ミーシャはシュムの隣に着地した。
「ありがとうございます、ミーシャ」
「キャー。」
「それは?」
ミーシャの手に持っているものを、シュムは指さした。見たところ、それはビート板のようだった。
「ビート板ですか?」
「キャー。」
「でも、ミーシャ、泳ぐの得意じゃないですか」
「みゅーん。ミーシャ、宝物です。」
「そうなんですか?」
「キャー。握ってくださーい。」
そう言うと、ミーシャはシュムに手を差し出した。ミーシャはシュムよりはるかに強いが、年齢は一回り下である。ミーシャと手を取った時、シュムは妹と手をつないでいるかのような、そんな気持ちになった。
「――ねえ、ミーシャ、私の宝物って、何だと思います?」
不意に尋ねたくなったシュムは、ミーシャに声をかける。シュムの言葉に、ミーシャは首を傾げるだけだった。
「私はですね、ミーシャ、チャイのことが、チャイとの思い出が、宝物なんです」
つないだ手の裡に、自然と力がこもる。
「チャイと一緒の未来を考えれば、私、まだまだ強くなれる気がするんです。分かります? 私の気持ち?」
「キャー。」
「フフフ……」
その答えだけで、シュムは十分だった。
手を取り合ったまま、二人は水族館の廃墟を後にする。




