044_真実(протения)
「あ……ニフシェさん」
コンテナに乗り込んだ矢先、チャイハネはエリッサから声をかけられる。視線を上げれば、球形をした金属製の水槽の中に、二人の人物がいた。ひとりは南の巫皇・エリッサで、もうひとりは西の巫皇・プヴァエティカである。
禊は、すでに始まっていたようだった。一糸まとわぬ姿で、二人とも水槽の中に座っている。
「オリガはどうしたのです?」
近づいてきたチャイハネに対し、プヴァエティカが訝るような視線を投げかける。
「水を運ぶのは、彼女の役目でしょう?」
「彼女、右肩を怪我してるんです。――ま、ご存知ないでしょうけれど」
わざとらしく言うと、チャイハネは水槽に、バケツの水を注ぎこんだ。水嵩が増し、水槽の中で体育座りをしていたエリッサが、冷たさに身震いする。
「右肩は、治療を続けながら、しばらく経過を見守る必要がある。当面彼女は、左腕だけでの生活ですよ」
「それで、救急箱も一緒に持っていた、と……そういうことですね」
プヴァエティカは鼻を鳴らした。
「自然治癒に任せるのも、ひとつの方法ではないですか? 本人が『心配ない』と言っているのだから」
「臺下、重篤な患者ほど『大丈夫』とか言うもんですよ」
「もし彼女がここに来たら、言いたいことがたくさんありました」
金髪のひと房を、プヴァエティカは指でもてあそぶ。
「肩すかしを喰らった気分です。そうでしょう、エリー?」
「ええっと、わたしは……」
エリッサは言いよどむ。
ちょうどそのとき、外から雷鳴とともに、周囲が一気に暗くなった。スコールだった。“黒い雨”のスコールは、わずかな光も遮ってしまうため、周辺は一気に闇へと包まれる。
「待たなければなりませんね」
腕を伸ばすと、プヴァエティカは指を鳴らす。念動力によって、コンテナの扉が閉ざされ、壁面を覆っていた魔法陣が、青から赤に転じる。魔法陣は、コンテナ内の温度を調節するためのものである。金属製のコンテナから伝わってくるはずの冷気が、魔法陣により暖気に変換される。“黒い雨”は、周囲から熱を一気に奪う。暖房が入って、ちょうどいいくらいだった。
「エリー、大丈夫ですか?」
「は、はい!」
プヴァエティカに尋ねられて、エリッサが頷いた。ここでチャイハネも、魔法陣の魔力の出どころが、エリッサであるということに気づいた。魔法陣の効力を切り替えるためには、膨大な魔力が必要になるはずだが、エリッサは顔色ひとつ変えていない。
「一服いかがです、二人とも?」
人差し指を立てると、プヴァエティカが空中をひっかく真似をした。その動きに引き寄せられ、奥の箱から、煙草が吸い寄せられてくる。
「お言葉に甘えて」
ケースからタバコを取り出すと、チャイハネは指先に魔力を込めて、火を点した。コンテナの中に、紫煙が充満する。
「ひどい雨ですね……」
コンテナの天井を見上げると、エリッサが目を細める。
「ビスマーは、どうだったんです?」
「もともとビスマーは、雨の少ない地方です。高原が多いですから。農業に必要な水は、みな湧水で賄っていました」
「“黒い雨”は?」
「その……シャンタイアクティとの領境で、少しだけ――」
プヴァエティカと顔を見合わせると、チャイハネは溜息をついた。
「それは……いいことだ」
「ごめんなさい……」
「あなたのせいではないでしょう、エリー」
うつむくエリッサに、プヴァエティカが言った。
「どれほど皆から慕われていようとも、ひとりひとりは非力です。巫皇であれ、誰であれ」
紫煙を鼻から吐きながら、プヴァエティカは言った。
「それを忘れ、自分の力に溺れるようになれば、人間としての、本当に大切なことを忘れてしまう。と、私は本当は、オリガに言ってあげたかった」
ウルトラを出る直前、“カタコンベ”での事件を、チャイハネは思い出す。サリシュ=キントゥス帝国の脱走兵の処遇をめぐり、プヴァエティカは、オリガと因縁がある。
それだけではない。ニフシェの死生をめぐっても、プヴァエティカとオリガは対立していた。プヴァエティカもオリガも、お互いにすすんで関わりたいとは、考えていないだろう。
「プ、プヴァエさん……」
エリッサは困ったような表情で、眉根を寄せる。
「チャイ、あなたはどう思いますか?」
「え?」
「オリガのことですよ」
「ええっと……」
――あたしの今の地位は、みんなから与えられたもんなんだ。である以上、みんなに還元してやらなきゃならない。
オリガから聞いた言葉が、チャイハネの記憶に蘇ってくる。星誕殿のために、オリガは働いている。裏を返せば、オリガはサライのことしか考えていない、ということだ。
ただ、それは「オリガだから」なのだろうか? 立場が逆転していれば、チャイハネだって、同じことをしていたかもしれない。そう考えるとチャイハネは、オリガのことを一辺倒に非難する気にはなれなかった。
「オリガにだって、立場があるでしょう。立場に忠実なだけですよ」
「かもしれません。ですが、どんな立場が? 彼女は、東の巫皇に次いで、シャンタイアクティのナンバー2です。それほどまでの力があるのならば、殺すのではなく、生かす道だって、持っていてよいはずではないですか?」
「裏切り者に……そいつに怯えているんでしょう」
「ニフシェの姉、ですか」
プヴァエティカは鼻を鳴らした。
「シャンタイアクティの次の巫皇を決めるときに、ペルガーリアと、ニフシェの姉とが競い合った、とは聞いています。ペルガーリアに匹敵するほどの魔法使いである、ということも」
「実際、どのくらい強いもんなんですかね、東の巫皇ってのは?」
チャイハネがそう尋ねたのは、単純な興味からだったが、プヴァエティカは首を振るだけだった。
「以前聞いた話ですが、ペルガーリアは、同年代の魔法使いの中では、“巨人”と呼ばれていたそうです」
ニフシェも全く同じことを言っていたのを、チャイハネは思い出した。“巨人”という言葉に、エリッサが、ゴクリ、と唾を吞み込む。
「傑出して魔力が強い者は、シャンタイアクティではそう呼びならわされる。私の記憶が正しければ、使徒騎士は九人いるはずですが、その九人を合計しても、まだペルガーリアの方が強い――」
「そ、そんなに強いんです……?」
プヴァエティカの言葉に、エリッサが怯えたように尋ねた。言葉にはしなかったが、チャイハネもエリッサと同じ気持ちだった。オリガもミーシャも、チャイハネからしてみれば、超常的な強さを持っている。そのような使徒騎士が、ニフシェも含めてほかに七人いるというのに、彼女たちを合計しても、ペルガーリアの方が強いというのだ。
「ニフリート、でしたっけ……ニフシェの姉は?」
以前の記憶をたぐり寄せながら、チャイハネが言った。
「だとしたら、ニフリートも“巨人”なんですかね?」
「そうでしょう。オリガが警戒するのも、その意味では分かります」
煙草の吸い殻を、プヴァエティカは燃えさしに放り込む。
「しかし、だからこそ、私たちは足並みを揃えなければいけない。ニフリートが、もし本当に恐るべき相手だとすれば、なおさらです。ちょっとしたひび割れからでも、器はダメになる。それでも、どうしても仲間割れしたいというのなら――」
プヴァエティカの言葉を、雷の音が遮る。それっきり、プヴァエティカは口を閉じてしまった。自然と雨音を聞いていたチャイハネは、しだいに雨が弱まり、いつしか完全に雨が止んだことを感じ取った。
――あのままだったら、私はオリガに殺されていたかもしれない。
“カタコンベ”でプヴァエティカが語っていたことを、チャイハネは思い出す。ウルトラ巫皇として、プヴァエティカはときに冷徹な判断を下す。だからこそプヴァエティカは、自分が“判断される”対象となることについても、覚悟があるのだろう。
「プヴァエさん、怖い顏しないでください」
タバコを捨てると、エリッサが水槽の中で膝立ちになる。乳房の輪郭を伝って、水滴が水槽の中に滴った。
「エリー?」
「わたし、まだ巫皇になったばかりですけれど、それでも、ペルガーリア様の言っていたこと、本当だって思うんです。『巫皇は皆に希望を与える存在だ』って。それは、裏切り者の人は怖くない、って言えば嘘になりますけれど……皆で力を合わせれば、何でもできるって、そう思えるんです」
胸の前で、エリッサは自分の両手を握り締める。
「力を合わせられるチャンスは、まだまだあるはずです。だから……」
「フフフ、ありがとう、エリー」
うつむきがちに、プヴァエティカは肩を震わせた。プヴァエティカは笑っていた。
「『我は真実の声なり。我は全ての裡にて呼ばるる者なり』」
「ええっと、『三体のプローテンノイア』……第二節……」
経典の名前を、エリッサが口にした。
「ええ。基督から授かった霊を、私たちは理性という形で、誰しもが授かっている。私であれ、あなたであれ、誰も隔てることなく。巫皇はその真実を授かって、人々と分かち合うのが使命だ」
「うわぁ、す、すごいです……」
エリッサは手を叩いた。
「すごく、素敵です」
「先代の巫皇が座を退くときに、私に教えてくれた解釈です。ねえエリー、あなたの話を聞いていて、ふと思い出したんですよ」
そう言うと、プヴァエティカはチャイの方を向いた。
「チャイ、さっきの言葉は取り消します。ありがとうございました。オリガを治してくれて」
「ハハハ、治すのが仕事ですよ」
照れくさくなり、笑いながら、チャイハネは答えた。
「それが医者の真実ってやつです」
「でも……わたしたち」
もう一度、水槽の水に肩まで浸かり直すと、エリッサが言った。
「わたしたち、もうちょっとだけ、よい出会い方ができたのかも、って、思ってしまうんです」
こんな状況じゃなかったら、むしろ出会ってなかったかもしれないですね。そんな切り返しを思いついたチャイハネだったが、あまりにも心無い言葉のように感じられたので、結局何も言わなかった。
ただ、呑みこんだ言葉は、チャイハネの心の中に、小さなしこりを残した。「もうちょっとだけ、よい出会い方」――そのフレーズを聞いたとき、なぜかチャイハネの脳裏には、数学の補習プリントが解けず、爪を噛んでいるシュムの様子が思い浮かんだからだ。
プヴァエティカが腕を振り上げると、コンテナの扉が開いた。外から漏れてきた午後の陽射しが、チャイハネたちの身体を静かに照らす。
どうして、シュムのことが頭に浮かんだのか。そのことを反省する間もなく、チャイハネの耳に、大きな音が飛び込んできた。“作戦”による、第三の砲撃音であり――それは、作戦が成功したことの証だった。




