043_地上の富(подарок)
「始まった……!」
麓からアエンデの街を見下ろしていたチャイハネは、破裂音と、街の一角から立ちのぼった白い煙を前にして、声を上げた。音に驚いた鳥たちが、街路樹から空へといっせいに羽ばたく。
今の音は、アエンデに忍び込んだシュムとミーシャが、“作戦”に従って立てた音だった。日が昇ると同時に、二人は索敵のために忍び込んだのだが、すぐに戻ってきた。町には、予想よりも多くのコイクォイがたむろしていたためだった。
いかに多くのコイクォイを無力化するか。これが、“作戦”の目的だった。成功の鍵は、シュムとミーシャとの手にゆだねられている。チャイハネにできることは、二人の活躍を、山の上から見守ることだけだった。
「よいしょ、っと」
チャイハネの後ろから、だれかの声と、容器に入った水の波打つ音が聞こえてくる。オリガがブリキのバケツに入った水を、トレーラーに運び込もうとしているところだった。
「禊用の水さ」
チャイハネが尋ねるよりも前に、オリガが答える。オリガの向かう先は、二台目のトレーラーである。トレーラーには、ウルトラ巫皇であるプヴァエティカと、ビスマー巫皇であるエリッサが乗っている。
「昨日入ってただろ、エリッサは?」
「今日もさ。それに、二人ともなんだ。参っちまうね」
天体の運行、巫皇の生まれた年月日、月経の周期、といった様々な要素により、禊の頻度は決まる。その日が来ようものなら、いついかなる時でも、巫皇は禊にいそしまなければならない。旅の途中でもそうなのだ。いつでも禊に臨めるよう、トレーラーには、金属製の沐浴槽が用意されていた。
「手伝おうか?」
「ひとりでできるさ」
そうかい、と言おうとして、チャイハネはあることに気付く。わざわざ苦労をしなくとも、オリガは念動力を用いれば、小指一本でだって、バケツを運ぶことができるはずだ。
「――あ、今お前、『魔法を使えばいいのに』って考えたろ?」
答える代わりに、チャイハネは肩をすくめる。
「あたしだって、タバコを吸うときにはマッチくらい使うさ」
「ハハハ。魔法を使ったって何にもならないんだな、こういうときは」
「なるほどね?」
欠伸をすると、チャイハネは地面に目を向ける。湿った土の上を、数匹のアリたちがせわしなく動いている。
昨日の夢、昨日のシュムとの会話が、チャイハネの脳裏をよぎった。それらの記憶は、チャイハネの側を通りぬけていったが、それを追いかけるべきなのか、追いかけたとして、結局後悔してしまうのではないかという相反する不安のために、チャイハネは引き裂かれていた。
「どうした?」
「まあ、あれさ……。世界がひっくり返る前に、あたしもスプーン曲げができるように頑張るよ」
「へえ? 殊勝な心がけだな!」
そう言いながら、オリガは木の根を乗り越えようとする。しかしその矢先、オリガはよろめき、バケツの水が弾みでこぼれた。一瞬の出来事だったが、オリガが顔をゆがめ、右肩を庇うような仕草をしたことを、チャイハネは見逃さなかった。
「ちょっと」
「いや、いいから――」
近づいてくるチャイハネのことを、オリガは左手で制す。
「ひとりでできる――アイテッ?!」
「やっぱり……!」
チャイハネが少し肘をまわしただけで、オリガは声を上げた。それも、通常肘が曲がる方向へまわしたにもかかわらず、である。
服の襟に手をかけると、チャイハネはオリガの右肩をのぞき込む。チャイハネの考えていたとおり、オリガの傷口は黒々としており、膿の混じった血がにじみ出ていた。
「治ってないじゃないか……!」
「かすり傷さ、こんなの。――待って、痛い、痛いってば!」
「意地を張ってる場合じゃない」
トレーラーに引き返すと、チャイハネは救急箱を取ってくる。救急箱の表面には、血がこびりついたままになっていた。ニフシェの怪我を治療する時に、付着したものだ。
「ほら、座って」
「にゃおーん……」
チャイハネの剣幕に圧されるようにして、オリガはその場に膝をついた。
「肩出して、肩」
「にゃおーん……」
「ネコ系統じゃないだろ、アンタ?」
「ペルジェの口癖がうつったのさ」
オリガは唇をとがらせる。ペルジェ――シャンタイアクティの巫皇である、ペルガーリアのことである。
「ペルガーリアもネコ系統?」
「会ったときに、本人に直接訊いてみるんだな」
チャイハネにとっては不満な返事だったが、すぐに考え直した。シャンタイアクティの騎士たちは、みずからの魔法属性を、簡単には明かさない。魔法属性を明かすことは、弱点をさらすことにつながるからだ。
救急箱から、チャイハネは包帯を取り出す。
「かゆみは?」
「ない」
「熱は?」
「言われてみると、熱いような……」
「そうだろうよ」
ステロイドの入った軟膏を選ぶと、チャイハネはオリガの傷口に口をつける。血の混じった膿を吸い出して吐き捨てると、ガーゼにアルコールを噴きかけ、傷口の周辺を拭う。それから、別のガーゼに軟膏を塗布すると、オリガの傷口に貼りつけ、その上から包帯をあてがおうとする。
「肩のところ、押さえて」
チャイハネに言われるがまま、オリガは右肩にあてがわれていた包帯を、左手で押さえた。右脇を通すようにして、チャイハネはオリガの右肩に包帯を巻く。
服の袖が邪魔だったために、チャイハネは腕まくりをした。普段は袖の下に隠れている、腕の刺青があらわになる。
「悪しき者、善なる実を結ぶこと能わざるなり」
「え?」
「その刺青だよ」
オリガの視線は、チャイハネの腕に注がれていた。
「青い花の刺青なんて、よく分かってるな。『ペトロの黙示録』第十二章。真理の実を結ぶ植物は、青い花を咲かす」
包帯を巻く手を休め、チャイハネは自分の腕をじっと見つめる。数えで十歳の誕生日をむかえたときに、町の風習に従って彫った刺青である。
昔の記憶が、チャイハネに蘇ってくる。あのとき「古臭い風習だから」と、父親は刺青に反対していた。しかしこのときだけは、めずらしく母親が譲らなかった。母もまたその土地の生まれであり、やはり青い花の刺青を彫っていたからだった。チャイハネにとって、目に見える形で分かる、母親と自分とのつながりだった。
「出来心で彫ったもんじゃないだろ? よく彫られてる」
手を伸ばすと、オリガはチャイハネの腕に彫られた青い花を、指でなぞった。
「しかし……もったいないな」
感傷に沈みかけていたチャイハネの意識を、オリガが引き戻す。
「もったいない?」
「そうさ。見てみろ」
左腕を袖から引っ込めると、オリガは左上半身をはだけ、チャイハネに背中を見せる。
オリガの背中を目の当たりにして、チャイハネは目を細める。オリガの背中に、肌色の箇所は一部分もない。二の腕から腰骨のあたりまで、オリガの背面は、刺青で埋め尽くされていた。赤、青、緑――刺青の配色は派手だったが、共通の特徴を持っていた。いずれの刺青も、魔法陣を象っている。
「反射神経、持久力、瞬発力、第六感――この魔法陣が、あたしの身体を強化してる」
オリガは身をよじった。陽の当たり方が変わり、背中の刺青が、まだらに輝く。
「『刺青はドーピングだ』って言って、彫らない奴もいる。でも、こうでもしなけりゃ、あたしは今の地位まで上りつめることができなかった」
「で? あたしにも彫れって?」
「そうさ。自分の可能性を、みすみすうっちゃってる」
「ハーン?」
チャイハネは不愉快だった。
「あたしは好きだけれどね? この花」
「そうだろうな。いや、チャイ、こんなことを話したかったんじゃないんだ」
もう一度袖をとおすと、オリガは座ったまま、チャイハネに向きなおる。このときチャイハネは、オリガが初めて、自分のことを「チャイ」と呼んだことに気づいた。
「前から言おうとは思ってたんだ。ウチに来ないか?」
言葉の意味をすぐには理解しかね、チャイハネはじっと、オリガのことを見つめる。
「“ウチ”って?」
「星誕殿だよ。シャンタイアクティ騎士団に、さ」
「引き抜きかい?」
「内務の人材が払底してる」
最後の仕上げとして、チャイハネはオリガの右肩に巻いた包帯を緊縛する。立ち上がったオリガは、右腕をゆっくりと回しながら、肩の様子を確かめる。
「仕事はいくらでもある。巫皇の教書の起草やら、会計士との交渉やら何やら。どれもこれも、知識がないとどうしようもない。莫大な知識が。うってつけなんだよ、梟の魔法使いは。星誕殿でも重宝される」
話の続きを待っていたチャイハネは、オリガが何も言わなくなったため、その横顔を伺った。見れば、オリガは笑みを押し殺している。
「どうした?」
「内務ってさ、変わり者が多いんだ。リテーリアっていう事務総長が、特に変わっててさ。だけど、キミみたいな皮肉屋だったら、十分に渡り合える」
「“変わり者”ね……。アンタに言われちゃおしまいってもんだろうけどな?」
「何か言ったかい?」
「いや、ぜんぜん? ただ、入隊するのは、もっと子供のときからだろ?」
医薬品をしまいながら、チャイハネは尋ねる。
「今さら恥ずかしいよ。十二歳やそこらの子たちに混じりながら、見習いをするなんて――」
「そこは何とかするさ。サライの騎士団で、あたしはそれなりの高みにいる」
「この世を見出し、富裕になりし者は、この世を棄つるべし」
『トマスによる福音書』、第百十節。
「うぬぼれてるって? ハハハ。皇帝のものは皇帝に返すよ」
同じように、『トマスによる福音書』の第百節を引きながら、オリガが答えた。
「マジで言ってるんだぜ、チャイ。あたしの今の地位は、みんなから与えられたもんだ。である以上、みんなに還元してやらなきゃならない。チャイが来てくれるって言うんなら、みんなにとっても幸せなことだ」
「だけど――」
「お前にとっても幸せなはずさ。騎士団に入れば、たとえ騎士になれなくたって、廃業した後に、いい伴侶にめぐり合える。幸せなことだろ?」
否とも諾とも言わないうちから、名前も顔も、声も知らない将来の伴侶の話をされ、チャイハネは閉口する。そのとき、未来について話すシュムのことが、ふとチャイハネの脳裏をよぎった。
「シュムが……」
「え?」
「シュムはどうなんだ? あの子の方が、あたしなんかより役に立つだろ?」
「いや」
オリガは苦笑いする。
「まあ、強くないわけじゃない。この旅の中でも、ずいぶん強くなってるよ、カノジョ。だけど、あの程度なら星誕殿にはゴロゴロいる。それにさ、カノジョは自力でも幸せになれる」
自力でも幸せになれる。オリガの言葉に、チャイハネは身ぶるいしそうになった。不安を払いのけるようにして立ち上がると、オリガを一顧だにせず、ブリキのバケツを片手でつかんだ。
「おい……」
「バケツ運びは、あたしがやるよ」
「今の話は?」
「シュムが一緒じゃないんなら、お断りさ」
右手にバケツを、左手に救急箱を持ちながら、チャイハネはトレーラーのコンテナまでよじ登る。
「まあいいさ。シャンタイアクティまではまだ大分かかる」
チャイハネの背後から、オリガの声が聞こえた。
「考えなおす時間はいくらでもある、ってことさ。待ってるからな」
アエンデの市街から、大気を震わせる音が轟いた。“作戦”に沿って立てられた、第二の音だった。




