042_今のままで(Как сейчас)
「チャイ、キスしてください」
シュムの声に、チャイハネは目を開ける。赤いビニール製のシートの上に、飯盒や空き缶、ペットボトルの水が転がっている。二台目のトレーラーの脇に設けられた、ちょっとした野営地である。
ダムを抜けてから、半日が経過していた。一行はペレ川を沿うようにして東へ進み、ヴィジャヤナガル州を抜け、今はチャオウスラバヤ州へと入ったところだった。
一行を乗せたトレーラーは、”アエンデ”と呼ばれる市の近くにある、山のふもとで停留している。アエンデの町を縦に抜ければ、一行はウルトラとシャンタイアクティを結ぶ、もうひとつの国道に合流できる。その国道を使えば、シャンタイアクティまでの道のりを、更に短い日数で乗り越えることができる。
しかし、アエンデの市街に向かって、夜にトレーラーを乗り入れるのは危険だった。”黒い雨”により、どれほどの犠牲者が市内におり、どれほどの数のコイクォイがたむろしているのか、夜陰の中では確かめようがないからだ。このため一行は、一夜をふもとで明かし、日が高くなってから、アエンデに入り込む計画だった。おびただしい数のコイクォイが道を阻むのならば、市を縦断する計画は諦めなければならない。
今、チャイハネは、野営地に陣取って、寝ずの番をしているところだった。シートの上には、白いペンキで魔法陣が描かれている。展開される結界は、”黒い雨”とコイクォイとから、チャイハネを防御してくれる。
チャイハネが寝ずの番をしていることにも、理由がある。”梟”の魔法使いであるチャイハネは、夜に目が冴え、昼に眠くなる。加えて、昼よりも夜の方が遠目が利いた。チャイハネが見張り番に抜擢されたのは、このことが理由である――はずだった。
「もう、チャイったら」
シュムが頬を膨らませる。
「寝てたでしょう?」
「ゴメン」
頭を掻くと、夢の記憶を吐き出すようにして、チャイハネは息を漏らした。
あの後、チャイハネの父親は、ひとりで休暇旅行に出かけ、その先で亡くなった。旅行先から返された骨壺を受け取った時、チャイハネは途方に暮れるというよりも、むしろ悔しさのようなものを味わった。みずからが内面化した規律が、父親に死を賜ったのだろう。それはチャイハネにも分かったが、と同時に、父がみずからの責任を回避するために、死に逃げたようにも、チャイハネは感じられた。
その後すぐに、チャイハネは家を飛び出した。行く当てなどなかったが、戻るつもりはなかった。
「おかしいな」
首を振ると、チャイハネは言った。
”梟”の能力が開花してからというもの、夜に眠くなることなど、チャイハネには稀であった。心当たりがあるすれば、昼間にニフシェから呑まされた”自白剤”である。
「もしかしたら、”霊化”が進んでいるのかもしれませんよ?」
「霊化? 誰かの魔力に感化されてる、ってかい?」
「そうです」
「それはないな。だいたいさ、霊化が進んでるなら、あたしは寝ちゃいないさ。夜は冴えてるはずだし、昼間の寝入りも良くなってるはずさ」
「一周回って、逆に眠くなってしまうのかも」
「逆に、ね。ハハハ」
タバコを吸おうと上着のポケットをまさぐるが、チャイハネは見つけられなかった。トレーラーの中に、置き忘れてしまったようだった。
「それで? シュムはどうして起きてるの?」
「それが……寝付けなくって」
「寂しくなっちゃったとか?」
「もうっ、違います。ドキドキしてるんです」
「何で?」
「私、朝になったら、ミーシャと街へ行くんです」
ふもとに広がるアエンデの街を、シュムは見やる。
「夕方に、オリガに言われたんです、『ニフシェに頼れないから、力を貸してほしい』って。どうしたんです、チャイ?」
「いや? ただ、私だったら……断るだろうな、ってさ」
本当は、もっとはっきりしたことを言いたかったが、チャイハネは、あえて言葉少なにとどめた。
「あたしら、非戦闘員なんだぜ? 危ないことは一般人のやることじゃないよ」
「でもチャイ、ニフシェが捕まってしまったのですから、私たちだって、できることをやらないと」
「だとすれば、街に繰り出すのは『できないこと』だと思うけどね。だいたいキミ、前科があるじゃん」
「にゃーん……」
”前科”という言葉に、シュムはしおらしくなる。
”黒い雨”の騒乱の最中、町からの脱出を試みたシュムは、コイクォイに噛まれ、危うく命を落とすところだった。一命を取り留めたのは、チャイハネの献身的な救護と、たまたまクニカとリンとが通りかかったお蔭である。
「ね? だからさ、無謀なことなんかしないでさ――」
「そうだ、チャイ。だったら、これはどうです?」
チャイハネの前に、シュムは手を差し出した。
「握ってみてください」
「こう?」
言われるがまま、チャイハネは手を握り返す。その途端、握った手を通じて、シュムの気のようなものが身体に流れ込んでくることを、チャイハネは感じ取った。
「フフン、チャイ。霊化が進んでるのは、チャイだけではないんです」
シュムの顔と手とを代わる代わる見つめるチャイハネに対し、シュムは肩をすくめる。
「”霊化”の話を大瑠璃宮殿で聞いてから、私、なるべくミーシャたちと行動するようにしたんです。そしたら……自分でも分かるぐらい、魔法を使うのが軽くなった、というか――」
シュムは、豹の魔法使いである。発揮した魔力は、そのまま身体能力に影響を与える。俊敏に走り回ったり、軽々と木に登ったりする芸当は、シュム以外には真似できない。
「今だったら、私、もっとうまく動ける自信があるんです」
「へぇ」
と、チャイハネは生返事をした。しかし、シュムの言うことは間違いでないだろう、と、チャイハネは直感する。シュムの魔力は、チャイハネでも分かるくらい強くなっている。今のシュムならば、不意を突かれてコイクォイに噛まれたりすることはないだろう。
「それに、ミーシャが着いてきてくれます。彼女、私たちより年下ですけれど、強いですし……」
「確かにね」
眼鏡を外すと、チャイハネはまぶたを手でこする。
「ルゥ=ラァ家……御三家の子女だからね。魔法の才能は段違いのはずさ。ゆくゆくは、彼女も巫皇になるんだろうけれど――」
「あの子がですか?」
「そうさ。ルウ=ラァ家は御三家の筆頭だから、まず間違いない」
チャイハネにとって気になるのは、ミーシャのコミュニケーションの取り方だった。ミーシャはよく、「キャー。」という喃語を話す。そんなミーシャの様子は、鯱の魔法属性である、カイに通じるものがあった。もしかしたら、ミーシャもカイと同じように、海棲類の魔法使いなのかもしれない。
「カイ、か……」
「どうしたんです?」
「今ごろどうしてるかな、って。リンも、クニカもさ」
南大陸・キリクスタン国の地図を、チャイハネは思い描く。チャイハネたちが今いる辺り、アエンデの街からまっすぎに北上すれば、ちょうどチカラアリ市にぶつかるだろう。北大陸・サリシュ=キントゥス帝国からの軍隊の最前線。クニカたちは、そこで”次期チカラアリ巫皇”を探している。
「大丈夫です。クニカがいるじゃないですか」
「だといいけどね……」
「それよりも、です!」
後ろに回り込むと、シュムはチャイハネの肩越しに腕を回す。
「私たちが、ちゃんとシャンタイアクティにたどり着かないと。クニカたちを心配させてしまいます」
「元気だね、シュム?」
シュムの紫水晶色の瞳を、チャイハネは覗き込む。
「ミーシャたちと一緒になって、私、自信が出てきたんです」
「オリガとミーシャから、多くを学んでる、ってことだろ?」
「ええ……」
チャイハネの問いかけに、シュムの声が小さくなる。先ほどから、シュムがわざと「ミーシャたち」と呼んでいることに、チャイハネは気付いていた。
「思い切って訊いちゃうけどさ、シュム。オリガについてどう思ってる?」
「……私、あの人とは、仲良くなれないと思います。たぶん」
「ハッハー」
チャイハネは笑った。
「小悪魔ですねえ、シュムさん。あたしが当事者だったら、涙ちょちょ切れちゃいますよ」
「チャイ、私って今、すごくみんなの役に立てている気がするんです」
からかいをよそに、シュムはまっすぐなまなざしで、チャイハネを見つめてきた。
「ほら、ウルトラにいたとき、一緒に話したじゃないですか? 『シャンタイアクティで、仕事を見つけたい』って。あのときには、チャイに笑われてしまいましたけれど、やっぱり、私でもできることがあるんだなって、そう思えるようになったんです」
「今のままでも――」
そこまで言いかけて、チャイハネは凍り付いた。自分にとっての「今のまま」と、シュムにとっての「今のまま」とが食い違っていることに、気付いてしまったからだ。チャイハネが両腕の中で抱え込もうとしている”今”の中に、シュムはもう存在しない。シュムはしなやかに身体を弾ませ、チャイハネの手の届かない”今”に向かって、まっすぐ前を向いている。
――シュム、キミと出会ってなかったら、あたしはどうなってたかな?
――私がいなくても、チャイはチャイです。
チャイハネの心の中に、先日の記憶が蘇ってくる。輪郭も、稜線もないような、ぼんやりとした記憶。しかしながら、うかつに触れようとする者を切りつけてくるような、そんな厳しい記憶。
違うんだ、そうじゃないんだ。――あのときチャイハネは、そう言おうとして、できなかった。では、今はどうか? ニフシェの早業で自白剤を呑まされた時、チャイハネは、「幸せでない」と答えた。その答えに一番驚いたのは、ほかならぬチャイハネ自身だった。
自分は幸せなのだろうか? チャイハネは自問する。もし幸せでないとしたら、それはどういうことか? こうしてシュムが隣にいて、互いに愛し合っているというのに。
でも、もしそれが嘘だとしたら?
自分は本当には、シュムを愛していないのだとしたら?
問いかけの前に、チャイハネは立ちすくむしかなかった。
「チャイ、私、もう一度眠ってみます」
隣であくびをしながら、シュムが言った。
「チャイも、無理しないでくださいね」
「分かってるよ」
内心の動揺をシュムに感付かれないよう、平静を装いながら、チャイハネは言った。
「お休み、シュム」
「――あ、チャイ。寝る前に、キスしてください」
目を閉じたシュムの唇に、チャイハネは自分の唇を重ねる。その間、チャイハネはずっと、息を殺していた。息をしようものなら、自分の動揺が、心臓の鼓動として、シュムに伝わってしまうように思えたからだった。
「フフフ、また、霊化が進むかもですね」
そう言って、シュムはトレーラーの中へ去って行った。何も言えず、チャイハネはその背中を見送る。




