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ラヴ・アンダーウェイ(LOVE UИDERW∀Y)  作者: 囘囘靑
第3章:シャンタイアクティ少女行(в СянтайАкти)
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041_記憶の彼岸(За пределами памяти)

――こうして、私とお前の母・エバの(うち)にあった栄光と、私たちの(うち)にあった原初の認識(エンノイア)は、私たちの下を離れていったのだ。

(『アダムの黙示録』、第3章)

 その日、チャイハネは眠ることができなかった。どうして眠れないのか、チャイハネ自身にもよく分からなかった。学校が終わってから、チャイハネは図書館に立ち寄ったり、近所を歩き回っていた。疲れ切ってはいたのに、眠りに就くことができなかったのだ。チャイハネは、ベッドの中を転がり、身体をしきりによじったりした。普段はチャイハネを眠りに誘ってくれるこれらの行為も、この夜ばかりは虚しいだけだった。


 深夜を過ぎた頃、所在なく天井を眺めていたチャイハネは、ふと喉の渇きを覚えた。一度喉の渇きを覚えると、居ても立ってもいられなくなり、チャイハネはベッドから身を起こし、スリッパを履いて、部屋から出ようとする。


 そのとき、窓から差し込んだ月明かりが、部屋の調度に投げかけられた。青い月の光は、布に覆われた鏡台を照らし出した。様子が気になったチャイハネは、手を伸ばすと、鏡台を覆っている紺色の布を払いのける。舞い上がった埃が、月明かりを受けて輝く鏡の前で、細かく踊っている。


 鏡の向こう側にいる自分自身の姿を、チャイハネは見つめる。鏡台は、チャイハネの母親が使っていたものだった。


 母が死んだのは、乾期と雨期の狭間だった。その死は長くはかからなかった。母親は色白で、はかなげで、町医者を務めているチャイハネの父親の前では、いつも受け身であり、みずからの主張がなかった。それでもチャイハネは、そんな母親の態度の(うち)に、父親に対するかすかな抵抗心があることに気付いていた。


(母さん……)


 鏡台の前にかがみ、チャイハネは自分の顔を覗き込む。自分の目鼻立ちのどこかに、母親の面影が隠れているのを、チャイハネは見出したくなったからだった。しかし、母親の面影を探せば探すほど、チャイハネは、自分の顔立ちに父親の血が流れていることに、嫌というほど気付かされるのだった。


 父親が、チャイハネを憎んでいるのか、好きでないのか、それはチャイハネには分からないことだった。分かることがあるとすれば、チャイハネは、父親にとっては関心を向ける対象ではないのだ、ということだけだった。ただチャイハネは、父親が自分のことを忌避しているのだということに、物心がついた頃には、気付くようになっていた。どうして父親が自分を忌避するのか? ――チャイハネは最後まで、それが分からなかった。


 チャイハネが父親からの愛を求めるとき、父親は”厳格な医者”としての立場に固執し、チャイハネをいつも遠ざけようとしていた。その場合の常として、父親はくぐもった声で、チャイハネには分からないことを言い散らし、せわしなく体をゆすり、チャイハネの言葉を聞き流しては、別のことを話すのだった。


 そういうわけでチャイハネは、早くから父親に対する求愛をやめてしまった。食卓について、短い、儀礼的な会話をする以外に、父親とチャイハネは接点を持たなかった。父親の手が髪の毛を()でてくれたことも、父親から優しい言葉を掛けられたことも、チャイハネの記憶にはなかった。チャイハネは、常に父親から疎外され、無力で、心理的に遠くに隔てられていた。


 チャイハネの母が亡くなったのは、父親が州内の、真反対にある県まで呼ばれて、往診に行っている間だった。自分の伴侶が亡くなっていても、父親は顔色ひとつ変えなかった。その時の父親は、まるで、彼女は死すべき運命にあり、自分がいない間に命が尽きるのは当然だ、と言わんばかりの態度だった。


 チャイハネは、そんな父親の態度が許せなかった。鏡台を覆っていた紺色の布を、無意識のうちに握りしめていたことに気付き、チャイハネはそれを投げ捨てる。


 母は父のせいで死んだのだ――と、チャイハネは考えていた。町で唯一の医者として、父親は近所の人々に権威あるように見せたがっていたし、市区で開かれる公的な会合では、上席に通されることを好んでいた。


 父がそこまで権威にこだわるのは、劣等感の裏返しであることに、チャイハネはある時気付いた。父は大学を卒業して医者になったが、いわゆる”保健医”、州内でのみ通用する免状に基づく医者であり、南大陸で包括的に医療に従事できる資格は有していなかった。父親は、その資格試験に合格できなかったからだ。その劣等感が父の中で屈折し、「権威のある医者」として、今の父親像を結んでいるのだ、と、チャイハネは考えた。


 そして、父が外側に示していた「権威のある医者」像は、そのまま内面化され、家族に向かっていた。もし両親の間に生まれていた子供が息子だったら、話は違っていたのかもしれない。ただ、生まれてきた娘を前にして、「権威のある医者」像が投影される矛先は、チャイハネの母親に集中した。早い話、父親の社会性に対する不器用さ、並々ならぬ劣等感に、母親は蝕まれていたのだ。


 母が亡くなってからの最初の一ヶ月の間、チャイハネの父親は、これまでには考えられないほど陽気になり、チャイハネに対して冗談を言ったりさえした。しかしチャイハネは、それが自分のため、家族のためではなく、父親自身のために過ぎないことを、早くから見抜いていた。父親の最大の関心事は、周囲の人々から「良い父親」に見られたいということ、このことだった。


 そのような父親の欲求は、やがて内面化され、像を結び、チャイハネ自身に投影されるだろう。実像の見かけと、像が結ばれるスクリーンとが、単に入れ替えられたに過ぎない。まぶしすぎる太陽の光を(しつ)(よう)に集中させれば、ゆくゆくはスクリーンが焦げ始め、穴が開いてしまう。母親を愛していたからこそ、母親のように使い潰されることが、チャイハネには我慢できなかった。


 父親の不格好なおしゃべりに対して、チャイハネは、「医者のくせに、自分の伴侶さえ治療できなかった」という視線を、父親に投げかけることを忘れなかった。そのまなざしは、父親にとっては急所を突くものであることをチャイハネは感づいており、事実そうだった。父親は日を追うごとに口数が少なくなり、家族は元のまま、ただ母親がいないだけ、という状態へと収束した。


 それでも、チャイハネは最低限の倫理として、父親に対してあからさまな反抗をすることだけは避けた。その人生を権威のために捧げている父親が、同時に規律を内面化していることについて、チャイハネはよく知っていたからだった。チャイハネは、父親が診療所の軒先で、なじみの患者に対し


「後妻を迎えるつもりはない」


 と言っていたことを覚えている。それは飽くまで内輪限りで、大々的なものの言い方ではなかったものの、皆に聞こえること、やがて町中で噂されることを望んでいるかのような言い方だった。その言葉、その言い方に、チャイハネは母親が侮辱されたかのような怒りを覚えたが、父親は自分の言葉に違わない行動を取っていたために、チャイハネはそれ以上は何もすることができなかった。


(ばかばかしい――)


 床に落とした紺色の布を、再び鏡台に掛け直すと、チャイハネはベッドに戻った。枕の下をまさぐり、チャイハネは煙草のケースを取り出す。診療所に訪れた患者が、父親のために、とくれたものだった。


 机の抽斗(ひきだし)に手を伸ばし、マッチを取り出すと、チャイハネは煙草を(くわ)え、先端に火を着ける。窓辺に近づくと、窓を開け放ち、チャイハネは窓枠にもたれかかりながら、紫煙を吐いた。


 煙草を吸うのは、チャイハネにとって初めてではない。父親は当然、チャイハネが煙草を吸っていることなど、思いもよらないだろう。もし気付いたら、どんな顔をするだろうか? それを想像するだけで、チャイハネは愉快だった。これが、「権威のある医者」を演じたい父親に対して、チャイハネができた精一杯の抵抗だった。


 その時、チャイハネは突然、囁き声が漏れてくることに気付いた。その声は、あまりにも近いところにあって、だからこそ思いもよらないような、そんな響きを帯びていた。チャイハネは、一瞬自分が夜ふかしをしており、煙草を吸っていることが明るみに出てしまうのではと思い、とっさに窓の下に身をかがめた。しかし、囁き声が気になって、窓の外へと再び身を乗り出した。声は、一階の診療所から聞こえてくるようだった。


 煙草の吸い殻を窓枠で潰すと、チャイハネは耳をそばだて、その声を聞こうとしる。――すぐにチャイハネは、その声が父親のものだと気付いた。


 チャイハネの心に、不安がよぎる。声が備える異質な響きに、チャイハネは息を呑んでいた。いったいどうして、父親は囁き声を発しているのだろうと、チャイハネは自問する。夜中過ぎに、どうして囁いているのか、囁くような何かが、この家にあるというのか。しかし、父親の囁きの後に、それに答えるもうひとつの声がするのを、チャイハネは聞き取った。女性の声だった。


 様々な考えがチャイハネの脳裏をよぎり、頭の中をぐるぐると駆け巡った。いつしかチャイハネは、自分の部屋の白い壁が渦を巻き、自分に向かって押し寄せてくるような錯覚を味わった。喉の渇きなど、今のチャイハネには、全く問題ではなくなってしまった。


 チャイハネはもう、部屋でじっとしていられなくなった。扉を抜けると、足音を立てないようにして、チャイハネは階段を降りる。一階の廊下に立った時、不安と好奇心のために、チャイハネの心臓は張り裂けそうだった。明かりが漏れ、半開きになっていた診察室の扉の前に、慎重に近づきながらも、チャイハネは自分の好奇心に、自分の勇気に驚いていた。


 扉に手を掛け、チャイハネは中を覗く。白熱電球の下に、それははっきりと晒されていた。父親はチャイハネに背を向け、部屋の脇にあった診察ベッドの上で、その身を丸くかがめていた。その身体の下、ベッドの上には、何かが横たわっていた。誰かの肢体が父親の下にあり、鼻息を荒くしながら、父親がそれを愛撫するたびに、それは(あえ)いでいた。チャイハネはその場に釘付けになり、その場面を凝視していた。


 しかし、それも長くは続かなかった。父親の下にあった“何か”が、ふと顔を上げたからだった。“何か”は、この診療所の待合室で、受付の事務のために雇われていた女だった。


 チャイハネを見た途端、女は雷電に撃たれでもしたかのように身震いし、それから鋭く叫んだ。その叫び声に呼応するようにして、父親が後ろを振り向き――その振り向き方は、これまでに見たことがないほど不器用だった――、チャイハネと目が合った。


 娘を前にして、父親は沈黙し、凝視していた。その表情は、みるみるうちに青ざめていった。ただ青ざめた表情で、入り口に立ち尽くしていた娘のことを、父親は凝視していた。


 そんな父親を前にして、チャイハネは叫んだ。――何を叫んだのか、それはもう、チャイハネの記憶の彼岸にあった。ただ、無様に突っ立っている父親の様子に、怒りと、八方塞がりの滑稽さを覚えたことだけは確かだった。医者の権威を振りかざしておきながら、母一人救えなかった男、威厳あるように振舞っておきながら、規律ひとつ守れなかった男。


「嘘だったじゃないか……!」


 あの時、確かにそう叫んだのだと、チャイハネは不意に思い出した。


 チャイハネは夢から覚めた。

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