039_知っていることの全て(все что мы знаем)
〈どうした? 笑えよ〉
姉の声に、ニフシェは目を覚ます。周囲は暗闇に閉ざされ、雨の天井をたたく音が、耳の内側にこだました。寝そべっている床を伝い、ニフシェの身体にも、外からの冷気が染みわたってくる。
ニフシェは状況を思い出す。オリガの審判こそ免れたものの、ニフシェは魔法を封印され、トレーラーに軟禁されていた。魔法によりさえ渡っていたニフシェの聴力も、今は人並みに落ちてしまっている。いつもならば清澄に聞き分けられる雨音も、今のニフシェには、まるでうがいの音のようにくぐもって聞こえた。
だが、姉の声がしたことだけは、ニフシェは疑わなかった。洞窟の中をうねるような、くぐもった声だったが、姉の声に間違いなかった。
〈つれないな、キミは〉
ニフシェは身を固くする。声は、まぎれもなく姉・ニフリートのものだった。
一年前に、ニフリートはシャンタイアクティの南西部にある、キラーイという火山の噴火口に落ちて焼け死んだ。いや、「ニフリートは焼け死んだ、と、誰しもが信じて疑わなかった」といった方が正しいだろう。周囲にいる騎士たちも、ほかならぬニフシェ自身も、ニフリートの身体が炎に呑まれる様子を、目撃していたからだ。
しかし、ニフリートは生きている。こうしてニフシェに呼びかけているのが、何よりの証拠だ。生き延びたニフリートは、北大陸にあるサリシュ=キントゥス帝国と接触し、裏切り者として南大陸に帰ってきた。
〈キミはもっと、ボクに言うべきことがあるはずだ〉
目玉だけ動かすと、ニフシェは声の方角を見つめる。暗闇の奥底、コンテナの入口付近に、周囲の闇よりも更に深い影が、扉を這っているのが見えた。ニフリートは、みずからの影を獣の姿にやつし、ニフシェのいるトレーラーまで送り込んだのだろう。
〈夢を見ない人間はいない。どれほど勇敢な人間でも、寝ている間は心がさまよう。キミは本当に、ドゥーチェが好きだったんだな〉
シャンタイアクティ騎士団の用いる暗殺術の一つに”影送り”がある。実体に代わって”影”を送り込み、標的を仕留める技術だ。”影”であれば、夜陰に乗じるのはたやすいし、証拠も残りにくい。”影”がやって来るとき、標的は夢でトラウマを見る。ドゥーチェの死は、ニフシェにとって、まさに思い出したくない記憶だった。
”影”は四つん這いになり、扉をよじ登り始める。”影”から放たれる刺すような殺気に、ニフシェは肌の痛みを覚える。
しかし、殺意がいかに高くとも、”影”に実体はない。普段のニフシェならば、”影”を追い払うことは容易だっただろう。ただし、今のニフシェは魔法を封じられている。”影”と戦うことは、ニフシェにはできない。
助けを呼ぼうにも、外では”黒い雨”が降っている。晴れてさえいれば、ニフシェの様子を確かめるために、オリガかミーシャがコンテナを巡回しに来ていただろう。今のニフシェは、それも期待できない。
〈キミは、こう思うかもしれない、「ニフリートは、ドゥーチェのことが嫌いだ」って。もし、ドゥーチェが嫌いだったから彼女を殺したのだとすれば……ボクは今ごろ、幸せだったと思う〉
暗闇の中で、”影”の目の辺りが点滅する。”影”の出方を窺うために、その目を凝視していたニフシェは、ここでようやく、本来目がついているべき”影”の頭部には、ただ穴が空いているだけだということに気付いた。
”影”が影響を及ぼせるのは、暗殺する者の存在を、”影”が感知したときだけだ。感知できなければ、たとえニフシェの身体の上を這い回っていたとしても、”影”はニフシェを殺すことができない。
では、なぜ”影”には目がないのか?
〈不便な身体だ〉
天井を這っていた”影”が、悪態をつく。”影”の前肢が、天井に描かれていた魔法陣に触れる。魔法陣は、熱せられた石に水がかかった時のような音を立てて蒸発し、冷水がしずくとなって床へと垂れた。
〈キミを探し出すことさえ一苦労だ。今のキミは、ボクから遠すぎる〉
(そういうことか)
”影送り”の仕組みは、共感覚と同じである。対象が遠ければ遠いほど、”影”を送るためには、膨大な魔力が必要となる。ウルトラからシャンタイアクティまでの距離ともなれば、それこそ天文学的な魔力が必要だ。いかにニフリートであっても、独力でそれをまかなうことはできない。
では、どうするか? ここで”チャネリング”という技術がある。”発信者”と”受信者”との間に”チャネラー”を置き、そのチャネラーを介することによって、魔力の消費を逓減させることができる。大瑠璃宮殿で、ペルガーリアが採った手法がこれである。ペルガーリアは、ミーシャを”チャネラー”とし、その魔力を借りることによって、自らの共感覚を届けたのだ。
これと同じことが、今のニフリートにも起きている。ニフリートも、誰かを”チャネラー”として、みずからの”影”を飛ばしたのだ。
しかし、”チャネラー”を介してさえも、魔力の消費はまだまだ大きい。魔力の限度内で”影送り”を成功させるには、”影”の一部の能力を諦めなければならない。だからニフリートは、目を諦めたのだ。
忘れてはならないことは、もうひとつある。”発信者”と”チャネラー”は、当然のことながら、同一人物が兼ねることはできない。加えて、”チャネラー”が同意しない限り、”チャネリング”は成功しない。
つまり、真の”裏切り者”が、ニフリートに協力しているということだ。
〈ニフシェ。キミはきっと、裏切り者のことを考えている〉
天井を伝い、ニフシェの頭上まで迫っていた”影”が、首をもたげる。ニフシェの頭部と、ニフリートの”影”の頭部とが交錯する。ニフシェが息を殺していたために、”影”はニフシェに気付いていないようだった。
〈だけど、キミが彼女に迫ることはできない。今はやり過ごせても、キミはやがて、ボクに殺される。このトレーラーが、星誕殿を目指す限り。裏切り者は、キミの身内だ〉
天井から身を翻すと、”影”は床に降り立った。”影”は、ニフシェを感知できなかったようだ。今度、”影”は、ニフシェのいる位置から、扉まで戻ろうとする。”影”の太い尾が、ニフシェの身体を横切る。
(まずい……)
ニフシェは先ほどから、蒸発した魔法陣から垂れる水滴の行方を気にしていた。天井から落ちた水滴は、床に当たって音を立てる。
水滴は一定の相を描き、ニフシェのところまで迫ってきていた。もし、ニフシェの身体に水滴が落ちれば、それは床に落ちたときのような音を立てはしないだろう。その一方で、ニフシェは身じろぎをすることもできなかった。動いたときの、かすかな衣擦れの音でさえ、”影”は捉えることだろう。
〈キミは軟禁され、星誕殿まで送られている。星誕殿へ近づけば近づくほど、キミと彼女との距離は狭まる。隔てるものが何もなくなったとき、キミはボクの影に呑まれる〉
水滴の一粒が、投げ出されたニフシェの足の、沓のつま先へと吸い込まれる。
入口まで戻りかけていた”影”が、すかさずニフシェの方を振り向く。”影”の空洞となった目が、このときばかりは、自分を捉えたかのようにニフシェには思えた。
”影”が大きく口を開いた。影の喉の奥は、炎のように赤く光っている――。
そのとき、トレーラー全体を揺さぶるような大きな音とともに、天井の水滴が一斉に床へと落ちた。観念したニフシェは、音を立てることも構わず、腕を交差させて、天井から降ってくる水滴から頭を守る。
ニフシェのまぶたの裏が、まぶしく照らされた。
「ミーシャ……?」
濡れそぼった髪をかき分けると、ニフシェは正面を向いた。ニフリートの”影”は、跡形もなく消えてしまっている。
「キャー。」
トレーラーの入口にいたミーシャが、声を上げた。左手にランタンを持ったミーシャは、夜空の星を背後にして立っていた。
ニフシェの気付かないうちに、外の”黒い雨”は止んでいたのだろう。ミーシャはニフシェの様子を確かめに来たのだ。
ミーシャがやってきたことを、影は察知し、姿を消した。魔法を駆使する実体と対決したところで、”影”に勝ち目はないからだ。
「来たんだ、ミーシャ」
雨が止んだことにさえ気付けなくなっていることに愕然としつつも、ニフシェは助かったことに安堵していた。そんなニフシェのところまで近づくと、ミーシャは手を差し出した。
「どうしたの?」
「握ってくださーい。」
「どうして?」
「キャー。」
ニフシェの質問に、ミーシャは答えない。
手を伸ばすと、ニフシェは黙って、ミーシャの手を取った。海棲類の魔法使いであるミーシャが何を考えているのか、ニフシェはたまに、分からなくなるときがある。それでもニフシェは、ミーシャの手のぬくもりから、自分の心の中に勇気が沸き立ってくることに気付いた。
ミーシャの手のぬくもりを契機として、夢がもう一度、ニフシェに迫ってくる。ドゥーチェが死んだこと、姉がドゥーチェを殺したこと、自分がドゥーチェを救えなかったこと。後悔してもし切れないことが、ニフシェにはある。
ただ、その記憶のいまわしさの中で、確かなことがひとつだけあった。別荘の地下室で、ニフシェはドゥーチェとともに踊った。あのときのドゥーチェの手のぬくもり。それだけはまぎれもない真実で、ニフシェが知っていることのすべてなのだ。
「ミーシャ、ありがとう……!」
目頭に熱いものがあふれてきて、ニフシェは目元を拭った。
「ミーシャ、ボクは裏切り者なんかじゃない。今は誰にも信じてもらえないかもしれないけれど、本当の裏切り者を、必ず見つけ出してみせる。約束するよ」
雨を降らせていた雲は、彼方に消え去ってしまっていた。月と星が、さえた光を地上に投げかけていた。




