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ラヴ・アンダーウェイ(LOVE UИDERW∀Y)  作者: 囘囘靑
第3章:シャンタイアクティ少女行(в СянтайАкти)
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038_キミのせいじゃない(не несет ответственности за вас)

――私が降り立ったとき、だれも私を見なかった。私はみずからの形姿を変え、その姿(うつそみ)を変転させたためである。

(『大いなるセツ第二の教え』、第23章)

(遅いな)


 ニフシェは顔を上げる。納屋の中で、ニフリートが来るのを、ニフシェは待ちわびていた。


 ニフシェたちの別荘と、ドゥーチェのいる離れとの間には、茶畑が横たわっている。”作戦”では、ニフシェは姉と、茶畑の一角にある納屋で落ち合う予定だった。


――単純な作戦さ。(ゆう)(さん)を済ませたら、ボクは書斎に行って、父さんを引き留める。


 姉の作戦を、ニフシェは思い出す。


――どうやって?

――分かるだろ? やりようはいくらでもある。


 そう言うニフリートの口調には、妹を小馬鹿にしたような調子が含まれていた。


 ただ、このことだけは姉の言うとおりだった。ニフシェの”麒麟(ジラファ)”の魔法とは、また毛色の違う魔法を、ニフリートは扱うことができる。他人に気付かれないように行動するのは、姉の得意分野だった。


――父さんを引き留めることに成功したら、キミと合流して、ドゥーチェのところへ行こう。それまでキミは、茶畑の納屋に隠れているんだ。


 成功したら。ニフリートの言葉を、ニフシェは頭の中で繰り返す。


 自室を抜け出す間際に、ニフシェは時計を一瞥している。それからどれだけ時間が経ったのか、ニフシェは正確に数えることができた。秒針のリズムについて、ニフシェは寸分の狂いもなく、体感で反復できるからだ。


 だからニフシェは、姉と落ち合う予定の時刻が、とっくに過ぎ去っていることを理解していた。


 ニフリートは、成功しなかった――。


 そのとき、ザッ、ザッ、と、砂利を踏みしめる足音に、ニフシェは気付いた。息を殺すと、ニフシェは耳を澄ませる。


(この足音――)


 右手を伸ばすと、埃っぽい塗炭の壁に、ニフシェは手をつく。足音で正体を見抜くことなど、ニフシェには朝飯前だった。


 ただ、このときばかりは状況が違った。足音は、ニフリートのものでもなければ、父親のものでもない。


(ドゥーチェだ)


 ドゥーチェの足音は、ニフシェのいる納屋まで近づいてくる。ドゥーチェはこのまま、納屋を通り過ぎて、離れまで戻るようだった。


 ただ、本来ならばドゥーチェは、離れにいなければならないはずではなかったか。ニフシェは心配になる。ダカラー家には厳格なルールがあり、日が暮れてから敷地を歩き回ることは、夜勤の者以外は原則として禁止されていた。このルールは、使用人に限らず、ダカラー家の子女も同様である。ニフシェが納屋に隠れているのも、ひとえにこのルールのためだった。


(どうしよう)


 ニフシェは迷った。今ここで納屋を飛び出して、ドゥーチェを説得すれば、ドゥーチェを死の(ふち)から救えるかもしれない。ただ、ニフシェは同時に、ドゥーチェの歩き方がいつもと違うことにも気付いていた。ドゥーチェは、砂利を蹴散らしているかのような歩き方で、焦っているのは明らかだった。ニフシェが迷っている間に、ドゥーチェの足音は去ってしまった。


 ドゥーチェは生きている。胸をなで下ろそうとした矢先、ニフシェは


――魔法に頼りすぎは禁物よ。


 という、ドゥーチェからの指導を思い出した。もし、今の足音が、ドゥーチェのものでなかったとしたら? ドゥーチェが父親の足音を真似したように、誰かがドゥーチェの足音を真似したとすれば?


 ありそうもない自問自答の中で、ニフシェの心に冷たい(かげ)が差し込む。その者は、ドゥーチェに変装して、ドゥーチェの下宿先へと向かっている。下宿先に下宿人が戻ろうとするのは、自然なことである。だから、ルール違反ではあるにせよ、夜勤の者は、誰も気にしないだろう。むしろ、足早に下宿へと向かうドゥーチェの姿は、夜勤の者に印象を与えるかもしれない。それは、その者にとっては格好のアリバイとなる。


 ニフシェの額から、汗が噴き出す。ドゥーチェに変装した”敵”は、夜勤の者たちにアリバイを示しながら、下宿先にたどり着く。そこでドゥーチェを殺し、何食わぬ顔で、朝まで離れに居残る。朝になれば、ドゥーチェが起きてこないのを(いぶか)しんだ使用人が、ドゥーチェの(なき)(がら)を発見し、領内は大騒ぎになる。”敵”は変装を解き、何食わぬ顔をして、野次馬と化した使用人たちの群れに混じる。”敵”が現場を離れるのは、野次馬たちが解散されるのと同じタイミングで良い。


(行かなくちゃ……!)


 確信に近いものを感じ取ると、ニフシェは納屋の扉を開け、外へ飛び出した。



◇◇◇



 夜間警備の使用人たちをかいくぐりながら、ニフシェはドゥーチェの下宿先までたどり着いた。


 ドゥーチェの下宿先は、元々は、摘んだ茶葉を(じゅう)(ねん)する(もみほぐす)ための建屋だった。ニフシェが生まれる少し前に、最新式の揉捻機を備えた別の建屋が完成したため、この建屋は改装され、今では使用人の住居となっていた。


 建屋の扉を、ニフシェは開ける。(ちょう)(つがい)(きし)む音が、やけに大きく響いた。


 後ろ手でドアを閉めると、ニフシェは階段を見上げる。ブリキ製の階段は、白木の内壁には不釣り合いで、いかにもとって付けたような印象をニフシェに与えた。ドゥーチェは、建物の二階にある一室で寝泊まりしている。


 足音を立てないように注意しながら、ニフシェは階段を上り詰める。部屋へ踏み込む前に、ニフシェは扉の表面に耳を当てた。誰の足音も、誰かが息を殺した気配も、ニフシェの耳は拾わなかった。


 扉の把手を握り、ニフシェは捻る。覚悟とは裏腹に、扉はあっけなく開く。扉を開けた瞬間、ニフシェに向かって風が吹き寄せ、甘い香りが鼻をくすぐった。虫除けのための、線香の匂いだ。


「ドゥーチェ?」


 ()()をかき分けると、ニフシェは部屋に入る。部屋の中央には、机と椅子が一脚ずつあり、机の上の一輪挿しには、赤いサンザシの花が挿されていた。


 ドゥーチェからの返事はない。部屋を見渡そうとした矢先、ニフシェは、開け放たれた窓の側、ベッドで横になる人物を見つけた。ドゥーチェだった。


 一瞬ぎくりとしたニフシェだったが、すぐに胸をなで下ろした。ドゥーチェの表情は穏やかで、身体には傷ひとつない。


 良かった、と、口だけを動かして、ニフシェは呟く。姉との作戦を反故にした罪悪感が、ニフシェの心の中で鎌首をもたげたが、ドゥーチェを見いだした安堵の前に、それはかき消えてしまった。


「先生」


 ベッドの脇で膝立ちになると、ニフシェは小声で、ドゥーチェに呼びかける。


 ドゥーチェは目を覚まさない。


「先生?」


 ドゥーチェは目を覚まさない。


 ドゥーチェは寝息を立てていない。


「ドゥーチェ……?!」


 肩に手を掛け、ニフシェはドゥーチェを揺さぶる。ドゥーチェの右腕がベッドからはみ出し、だらりと垂れる。


 ドゥーチェは死んでいた。


「あ……」


 立ち上がることも、尻餅をつくこともできず、ニフシェはその場で固まってしまった。恐怖の感情が、津波のように押し寄せて、ニフシェの心をさらってゆく。


 ドゥーチェの表情は、眠るように安らかだった。ちょっとした弾みで、ドゥーチェは目を覚ますかもしれない。ただ、次に目を覚ましたとき、ドゥーチェは、自分に襲いかかるだろう。そんな、原初的な恐れを前にして、ニフシェはすくんだ。ドゥーチェを殺した”誰か”が、自分の背後に近づいてきているかもしれない。そんな不安も心をよぎったが、ドゥーチェの(なき)(がら)を前にして、その恐れはほんの小さなものだった。ニフシェの恐怖の中心には、ドゥーチェの死があった。


 そのときだった。


「待て!」


 背後からの声と、投げかけられた光に、ニフシェは飛び上がる。ドゥーチェの死に没頭するあまり、ニフシェは背後から誰かが近づいてきたことに気付かなかった。


 飛び上がったは良いものの、足に力が入らず、ニフシェは後ろに転がりそうになった。ニフシェがとっさに掴んだのは、ドゥーチェの青い掛布だった。掛布では支えにならず、ニフシェは後ろに転び、掛布が身体にまとわりつく。


 扉の正面には、電灯を片手に、男性が立ちはだかっている。父親だった。


「どういうことだ?」


 図らずも父親と正面から対峙することになり、ニフシェは逃れるすべがないこと、自分を助けてくれる者が誰もいないことを悟った。父親を前にして、ニフシェは何かを言おうとするが、少しの声も、ニフシェの喉からは出なかった。


「ニフシェ、どうしてここに?」

「――父さん、ニフシェの後ろ」


 父親の背後から聞こえてきた声に、ニフシェは心臓を鷲掴みにされたような気分になる。父親の後ろには、何食わぬ顔をして、ニフリートが立っていた。期せずして父親と対面したことに心を奪われたあまり、背後の姉の存在に、ニフシェは気付かなかった。


 ニフリートの表情から、何かを読み取ることができるのではないかと、暗がりの中、ニフシェは目をこらした。しかしニフリートは、ポケットに手を突っ込んだまま、首をかしげているだけだった。まるで初めから、作戦などなかったかのような振る舞い方だった。


「あれはドゥーチェでしょう?」


 ニフリートが口を開く。その言葉は、ニフシェが望んだような、この状況を好転させるためのいかなる要素も含んでいなかった。


「見るんじゃない」

「ドゥーチェ、ぐったりしているけれど」

「ニフリート、私の――」

「お医者さんを呼ばないと」


 私の命令が聞けないのか――父の口から常套句が飛び出すより前に、ニフリートが言った。


「父さん、今日は暑かったから。ドゥーチェもそうだったんでしょう。去年フョードルのところの子供も、同じようにぐったりしていて……」


 ニフシェの言い方は無造作で、話をしている間はずっと、父親とも、ニフリートとも、目が合わなかった。


「ここを出よう、ニフシェ。父さんたちの邪魔になる。あとはお医者さんに任せよう」

「そうだ、ここを出なさい」

「お父様」


 父親の顔を見上げながら、しかし、いつもの癖で、父親とは全く目が合わせられないまま、ニフシェは言った。


 ニフシェは今、死んでしまったドゥーチェを背後にしている。父親が、ドゥーチェが誇りとしていたことを顧みようとはせずに、彼女の死を取り扱おうとしていることは明白だった。このまま部屋を出たら、二度とドゥーチェには会えないだろうと、ニフシェは理解していた。


「ニフシェ!」


 だが、父親を前にして、ニフシェは無力だった。


「はい……」


 涙をこらえ、ニフシェは立ち上がる。そんなニフシェの肩に、父親はそっと手を添えた。


「お父様?」

「今日のことは忘れるんだ。それから、後で父さんと話そう。明日でいい。部屋に戻りなさい」


 父親に掛けられた言葉は、これまでにニフシェが父親から掛けられた、どの言葉よりも気遣いに満ちていた。しかしニフシェは、その優しさが上っ面だけのものであること、事態を丸く収めるために用いられる大人の方便であることを、すぐに聞き分けた。


 父親が、ドゥーチェのことを本当にはどうしたかったのかなど、ニフシェには分からない。ただ、分かることがひとつあるとすれば、思いもよらないドゥーチェの死に、父親は怖れと同時に、安堵しているだろうということだった。


 ニフシェは決して、今日を忘れないだろう。ニフシェが決して今夜を忘れないことを、父親も理解しているだろう。ニフシェと父親が、今夜のことについて話すべき”(ポスル)”、話すべき”明日(ザフトラ)”は、永遠に訪れないだろう。父はただ、ニフシェに部屋に戻ってほしい、それだけなのだ。ドゥーチェは永遠に葬り去られる。


 何もかもが嘘だった。線香から漂う甘い香りも、夜風を受けて揺れる、サンザシの花の赤さも。


「行こう、ニフシェ」


 うなだれているニフシェに言うと、姉は部屋の外へ出る。通路は明かりに満ちており、その明るさが全身に染みるようだった。


「ゾシマたちを呼んでくれ、ニフリート」

「はい、お父さん」


 姉妹が部屋を出るやいなや、父親は扉を閉め切った。ニフシェは、扉が二度と、自分のために開くことはないだろうと察した。


「納屋から抜け出したんだな」

「心配だったんだ……先生のことが……」


 これまでの出来事を、ニフシェは話した。話を全て聞き終えてから、ニフリートは首を振った。


「辛抱強く話をしてみて、分かった。父さんが、本当にはドゥーチェ先生を殺すつもりなどない、とね。煙たがってはいたけれど」


 ニフリートは言った。


「だから、ドゥーチェのところに、父と一緒に行くことになった。ドゥーチェを説得して、それでも意見を変えないのならば、ドゥーチェにはここから去ってもらう。父はそう話していた。キミは、納屋に隠れている。――キミにとってはどうだか分からないけれど、そのときは好都合だと思った。キミが父と居合わせると、話がややこしくなる。話の進み方によっては、ドゥーチェがキミを呼ぶかもしれない。そのときに、初めてキミを呼べばいいって、ボクはそう思った。死んでいるだなんて、思わなかった」


 階段を降りようと、ニフリートは歩き出す。


「ドゥーチェが……!」

「ニフシェ、キミのせいじゃない」


 ニフリートに従い、階段まで向かおうとしていたニフシェは、その言葉に違和感を覚え、立ち止まった。


「『キミのせいじゃない』?」

「そうだ」


 ニフシェに振り向くと、ニフリートは言った。ただし、実際にニフリートが返事をするまでには、時間があった。そして、答えるまでに時間がかかったという事実に対して、ニフリート自身が不愉快そうにしているのを、ニフシェは感じ取った。


 これらのことだけで、ニフシェには十分すぎるくらいだった。ニフシェは、ニフリートの水色の瞳を覗き込む。


「ボクのせいじゃない、って言うんだったら、じゃあ、誰のせいだっていうの?」


 キミのせいじゃない。ニフリートは言った。誰のせいなのかを知る者でなければ、そのようなことは言えない。誇り高いドゥーチェが、みずから死を選ぶことなど考えられないのだから。


 ニフシェは、ドゥーチェを殺していない。


 父は、ドゥーチェを殺していない。


 両腕を伸ばすと、ニフシェは姉の肩にしがみついた。


「ニフリート……答えて!」

「楽しい時間は終わったんだ、ニフシェ」


 妹の言葉を遮るようにして言うと、ニフリートは鼻を鳴らした。


 なおも詰め寄ろうとしたニフシェだったが、足には力が入らなかった。姉の身体にすがるようにして、ニフシェはその場に崩れ落ちる。ニフリートは、ただじっと、妹を見下ろしていた。


「嘘だ」

「ニフシェ、ボクは何も言っちゃいない。――いや、陳腐だな!」


 ニフリートは苛立たしげに、(かかと)を床で蹴る。


「『ボクは何も言っちゃいない』か、陳腐なことを言った……!」


 ニフリートは、ニフシェを立たせようとする。ニフリートの指先が、ニフシェの手に触れる。その指先は冷たく、ドゥーチェも死ぬ間際に、この指の冷たさを感じたのだろう、と、ニフシェは直観した。


「信じないぞ――」

「ニフシェ、息を吸え」


 姉の手を払いのけると、ニフシェは立ち上がり、ニフリートから後ずさる。


「息を吸うんだ、ニフシェ。この世界には酸素が足りなすぎる」


 ニフリートの語気は、めずらしく強い。


「信じない……!」


 ニフシェは叫んだ。


 しかし、何を信じないというのだろう? ドゥーチェが死んだことを? ドゥーチェが殺されたことを? 自分の姉が、ドゥーチェを(あや)めた、ということを? それらは、ニフシェが信じなかったことの全てであり、と同時に、ニフシェが信じたことの全てでもあった。


 心のどこかで、ニフシェは分かっていた。何かを信じたいわけでも、何かを信じたくないわけでもない。ただ「信じない」と、みずからに言い聞かせていたいだけなのだ、ということを。


 ニフシェの視界で、姉の姿と、天井の照明とが空転する。


「あっ――?!」


 後ずさったまま、よろめいて階段を踏み外し、中空に投げ出されたのだ。――そう気付いたときにはもう、ニフシェは階段を真っ逆さまに落ち、世界全体から閉め出されていくような感覚に呑み込まれていた。

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