037_似ていない姉妹(Непохожие сестры)
「ニフシェ」
ニフシェは凍りついたようになる。
「ニフリート……」
声のする方向を、ニフリートは振り返る。廊下の奥に、少女がひとりいる。ニフシェの姉・ニフリートだった。
ニフリートは、色素の薄い亜麻色の髪を、肩の高さまで垂らしている。半ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、水色の瞳で、ニフリートはニフシェを見つめている。ニフリートは痩せぎすだったため、たたずんでいる姿は、まるで少年のようだった。
「楽しそうだな、ニフシェ」
「これは、その……」
「楽しそうだな」
ニフシェは口をつぐむ。ニフリートは、ニフシェの返事に関心がないようだった。
ニフリートの前では、ニフシェはいつも、思いどおりに話ができなかった。ニフリートは無口で、感情がないかのように見えるときがある。にもかかわらず、ニフシェは、そんな姉の態度の端々から、自分に対する軽蔑がにじみ出ていることに気付いていた。ニフリートはいつだって、そんな姉の影を踏んでは、ひとり怯えるのだった。
「散歩に行かないか?」
「散歩?」
「楽しいことを探しにいくんだ」
(嘘だ)
唇の端をゆがめるようにして笑う姉を見ながら、ニフシェは思う。
麒麟の魔法使いであるニフシェは、聴覚に優れている。話者でさえも気付かないほどの声音の変化であっても、ニフシェは聞き分けることができる。
しかし、嘘を見抜けることと、真実を見極めることは違う。ニフリートの言葉が嘘だと分かったとしても、ニフリートの真意までは分からなかった。
「ニフシェ。楽しい時間が終わろうとしている」
「え?」
唐突なニフリートの言葉に、ニフシェはうろたえる。そんなニフシェを前にして、ニフリートはうっすらと笑ってみせる。
「楽しい時間も、いつかは終わりを迎える。でも、まだそのときじゃない。それならば、ボクたちはまだまだ楽しみを探すことができる。楽しみ続けることができる。まだまだ楽しまなければならない。ボクは、本当はそう言いたかったんだ」
”本当は”という言葉を、ニフリートは強調する。ニフリートの口調から、冷たい怒りが迸っているのを、ニフシェは感じ取る。
「分かった」
声を震わせながら、ニフシェは答えた。
「ボクたちはきっと、楽しい思い出を作ることができる」
きびすを返しながら、ニフリートは言う。
「海風に当たって、潮騒を聞きながら、乾いた海藻を集めたり、小石を海に投げたりする。おあつらえ向きだろう、ボクたちには」
ニフシェは黙って、姉に続いた。
◇◇◇
別荘の塀を越え、石垣で作られた段差を下れば、海は目の前である。海岸を含め、付近はダカラー家の私有地であり、ダカラー家の関係者しか周囲にはいない。ニフリートもニフシェも、気兼ねなく散策ができた。
今日は風が強い。夕暮れが迫っており、ニフリートとニフシェの影は、細く長くたなびいている。
「これは笑い話なんだけれど、ニフシェ」
前を歩いていたニフリートが、不意に立ち止まる。
「ボクたちは、いずれ『大人』になる、と思われている」
口に入りかけていた髪を、ニフシェは手でどける。何が「笑い話」なのか、どのあたりが滑稽なのか、ニフシェには見当がつかなかった。
「一度大人になってしまったら、楽しい時間は終わってしまう。それでも、人間はそうして生きてきた。というよりも、そうして生きなければならない」
ニフリートは、ニフシェに向き直る。
「ボクたちも同じだ。問題は、そのときがいつになるのか、ただそれだけなんだ」
「何を考えているの?」
「ねぇ、ニフシェ。キミは何かを殺したことはあるかい?」
「え?」
姉の質問に、ニフシェは戸惑う。
「『何か』って、何を?」
「『何かを』だよ。キミも、たまには面白いことが言えるんだな」
ニフリートは鼻を鳴らした。ニフシェの心の中を、奇妙な感覚が去来する。ひとつは、ニフリートがいら立っているのは明らかだったが、あからさまにいら立っている姉を見たのは、初めてだったということ。もうひとつは、いら立っている姉を新鮮に思えた、みずからの感覚に対する当惑だった。
――ダメよ、ニフリート。
ドゥーチェの言葉が、ニフシェの記憶の中に蘇ってくる。ニフリートとニフシェが、剣の練習試合をしたときのことだった。ニフシェを圧倒したニフリートに、ドゥーチェは首を振りながらそう言っていた。
――ニフリート、剣を収めて。あなたに必要なのは、騎士としての技術じゃない。他愛のないおしゃべりをしたり、雲を眺めたり。それがあなたに、本当に必要なことよ。
その言葉に対して、ニフリートは何かを答えた。決して口ごたえをしたわけではなく、淡白な回答だったが、その言葉に対してさえも、ドゥーチェは切々と、言葉を選びながら、長く答えていた。
「ドゥーチェのことかい?」
ニフリートの言葉に、ニフシェは現実へと引き戻される。
「キミは、ドゥーチェのことが好きなんだね」
「ニフリートは?」
「好きだよ。愛してる」
その言葉が嘘であると、ニフシェは瞬時に理解した。そして、先ほどの姉からの質問を思い出し、ニフシェは震えた。
「ドゥーチェを……?!」
微笑むドゥーチェの姿が、ニフシェの脳内をよぎる。
「ドゥーチェをどうするつもりなの……?!」
「ボクじゃない」
にじり寄ろうとするニフシェのことを、ニフリートは迷惑そうに手で制する。
「いったい誰が……」
「父さんだよ」
”父さん”。聞き慣れたはずの言葉であるにもかかわらず、初めて聞いた言葉であるかのように、ニフシェは立ちすくんだ。
「嘘だ」
「繰り返しになるけれど、ニフシェ、楽しい時間は終わったんだ」
「どうして?」
「怒らせたからさ」
ポケットに手を突っ込み、ニフリートは首を傾ける。
「先週さ。ボクたちの進路のことで、ドゥーチェが父さんに相談した」
「ニフリートも一緒だったの?」
「いや。ただ”見てた”だけさ」
ニフシェとは異なる魔法を、ニフリートは使用できる。その能力を駆使して、ニフリートは、立ち聞きしたのだろう。
「父さんは、ボクにもキミにも、シャンタイアクティ騎士団に入ってほしがっている。だけど、ドゥーチェは違った。キミを推してるんだ、カノジョは」
――ニフリートよりも、あなたの方が才能があるし、巫皇に近いわ。
ドゥーチェの言葉を、ニフシェは思い出す。きっと同じようなことを、ドゥーチェは父親にも進言したのだろう。
「ドゥーチェはね、ボクよりも、キミの方が巫皇にふさわしいと、そう考えているみたいなんだ」
他人事のようなニフリートの言葉に、ニフシェは鼻白む。そんなニフシェを一瞥すると、ニフリートは肩をすくめた。
「面白い話じゃないか? まるで巫皇になるまでは、ボクは死ぬことを禁じられているみたいだ」
「それで、どうなったの?」
「ずっと言い争っていた。父さんをあんなに怒らせるなんて、ここらの連中じゃ、とうていできない。それにしても、先生もずいぶん退屈な人だ。もう騎士でも何でもないのに、ね?」
そう言いながら、ニフリートは目を細める。ニフリートの視界の先では、海岸に降り立ったカモメに向かって、使用人たちが豆をやっていた。ニフリートは豆が嫌いだった。
「『殺す』って言ってたんだ、ドゥーチェを追い払った後」
「そんな」
実際にニフシェが答えるまでには、かなりの間が開いた。
「たったそれだけで……」
「自分と意見が違う人を、父さんは許さない。分かるだろ、ニフシェ? ドゥーチェはかつては騎士だったかもしれないが、今はそうじゃない。父さんの前では、役に立つ下女のひとりだ。座れよ、ニフシェ」
石垣に腰掛けると、ニフリートはニフシェを誘う。
「父さんと戦うことはできない。だけど、ドゥーチェの考えを改めることもできない――」
海岸線を眺めながら、ニフリートは言う。
「だとすれば、ドゥーチェには逃げてもらうしかない」
「ここから?」
「そうだ。時間がない。今日の夜更けに、それは実行される」
”それ”とは何か。怖くて、ニフシェは尋ねることができなかった。
「明日の朝には、ドゥーチェはこの敷地から追い出されるだろう。そして、うちの家領を抜け出すよりも前に、麦角中毒に似た症状になって、息を引き取る。もっとも、追い出された時点で、すでに死んでいるかもしれない。死亡時刻は診断書に書かれて、それはよく調整されるだろうから。ニフシェ、繰り返しになるけれど、楽しい時間は終わろうとしている」
ニフリートは言った。
「だから、自分でも驚くくらい辛抱強く、ボクはキミに同じことを繰り返し言っている。ドゥーチェに生きてもらうか、死んでもらうか。それを決められるのは、ボクたちしかいない」
その言葉に、ニフシェはドキリとする。
「”ボクたち”?」
「そうだ。ドゥーチェのいる離れに忍び込むくらいならば、ボクひとりでもできる。だけど、ドゥーチェの説得は、キミにしかできない。ドゥーチェのことが好きなんだろう?」
ニフリートの言葉に、ニフシェは頷いた。
「ドゥーチェもきっと、キミと同じ気持ちさ。キミの希望ならば、ドゥーチェは断らない」
「教えて」
どうすれば、ドゥーチェを救うことができるのか。その答えを聞くべく、ニフシェはすがるようにして、姉の手を掴んだ。
次の瞬間、ニフリートは眉間にしわを寄せると、嫌悪感をあらわにして、ニフシェの手を振りほどいた。掴んだ瞬間の、姉の手の冷たさに驚いたニフシェは、姉のその態度に、自分と姉との間を横たわる冷たい壁を思い知らされた。
「ごめん。その、どうすれば……ドゥーチェ先生を……」
「夜に落ち合おう」
ニフシェの失態など、まるで問題ではなかったかのように、ニフリートは言った。その態度が、ニフシェの心をますます深くえぐる。
「方法は単純だ。夜になったら――」
ニフリートの作戦を、ニフシェは黙って聞く。




