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ラヴ・アンダーウェイ(LOVE UИDERW∀Y)  作者: 囘囘靑
第3章:シャンタイアクティ少女行(в СянтайАкти)
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036_逆(обратный)

――主よ、幻を見る人がそれを見ているのは、心魂と霊と、そのどちらを通じてなのですか?

(『マリヤの福音書』第10頁)

〈しかし旦那様は、どうしてあの子に、あんなに冷たいんだろうなァ〉


 地下室で息を整えていたニフシェは、頭上から聞こえる下男のくぐもった声に、顔を上げる。


 ここは、ダカ州・サーミアットにある、ダカラー家の別荘である。ニフシェと、姉のニフリートは、父親に連れられて別荘にやってきた。


 ただし、バカンスのためではない。“騎士団”に入るための特訓が、別荘へ来たことの目的だった。


〈そりゃ騎士団に入って、出世してもらいたいからに決まってるでしょ〉


 下男の言葉に、傍らにいたとおぼしき下女が答える。


〈ここの家に限った話じゃない。御三家(チンピオーン)のほかの家も、今はそういう時期なのよ〉

〈詳しいんだな?〉

〈これでも、あたしの母さんだって騎士団出身なのさ〉


 下女が得意げに言う。


 麒麟(ジラファ)の魔法使いであるニフシェは、音に敏感だった。常人であれば聞き取れないはずの一階からの声も、ニフシェはつぶさに聞き取ることができる。


〈といっても、準騎士どまりだったけれどね〉

〈でもよ、旦那様は、特にニフシェお嬢ちゃんに厳しくねえか〉

〈仕方ないってもんでしょ。ニフリートお嬢様は第一夫人、ニフシェお嬢様は第二夫人の子よ。どっちに目をかけるかなんて、決まってるじゃない。それに、ニフシェお嬢様は陰気よ。どっちも(かげ)があるけれど、ニフシェお嬢様は特にね〉


 これ以上は聞きたくない。目をつぶると、下男と下女の話を、ニフシェは頭から追い払う。


 物心ついたときから、ニフシェはニフリートと比べられてばかりだった。学問においても、剣の技量においても、魔法の才能についても、ニフリートはニフシェを上回っていた。それは、単に年齢差の問題ではなかった。ニフリートがその年齢の時にできたことのほとんどを、ニフシェはできなかった。


 姉と比べられることから、ニフシェは逃げられなかった。地下室に閉じ込められているのも、ニフリートに比べて劣っていた、ニフシェに対する、父親からの”罰”だった。


 そのとき。地階への階段を降りる足音が、ニフシェの耳に届く。ニフシェはドキリとする。閉じ込められてから、時間は経っていない。従者がニフシェを迎えに来るのは、もっと時間が経ってからのことだ。


 両耳から手を離すと、ニフシェは耳をそばだてる。床を強く踏みつけるような足音。


(お父様だ)


 ニフシェの心が騒ぐ。恐ろしくなったニフシェは、食料棚の裏に身を隠した。


 扉の前で、足音は止まる。固唾を呑むニフシェの前で、蝶番が軋み、扉が開く。


 だが、扉の向こうに、人影はない。


 その瞬間。


「ばあっ!」

「ふわあっ?!」


 背後から聞こえてきた声に、ニフシェは心臓が飛び出しそうになる。ニフシェは慌てて後ろを振り返る。


「ドゥーチェ先生?」


 背後に立っていたのは、魔法の家庭教師・ドゥーチェだった。


「どう? ビックリしたでしょう?」


 ドゥーチェはいたずらっぽく微笑んでみせる。


 ドゥーチェはついこの前まで、“騎士団”で騎士の地位にあった。ドゥーチェの出身が、ダカラー家の荘園に近かったために、ニフシェの父親に声をかけられ、ドゥーチェは“騎士団”を脱退後、家庭教師を務めることとなった。


 ドゥーチェは青い瞳を持ち、墨色の髪を、肩の高さに切りそろえている。ニフシェよりも、ほんの少し背が高かった。にもかかわらず、ニフシェは、剣の扱いを習うとき、聖典の講義を受けるとき、騎士の振舞いを指導されるときはいつも、ドゥーチェの存在が大きく見えていた。


「お父様かと……」

「でしょう?」


 たどたどしく答えるニフシェに、ドゥーチェは得意げだった。


「お父さんの足音、真似して歩いてみたのよ。こう、床を強く踏みつけるようにして、ね!」


 襦袢(ズボン)の裾を両手でたくし上げ、わざとらしく足を開くと、ドゥーチェはのしのしと歩くそぶりを見せる。そんなドゥーチェの様子に、ニフシェも吹き出してしまう。


「そうだったんですね」

「ねえ、ニフシェ。あなた、魔法で『お父さんだ』って判断したでしょ?」

「は、はい」

「ダメよ、それじゃ」


 ドゥーチェ”先生”の口調が、厳しくなる。


「魔法に頼りすぎはダメ。使うときは、エレガントに使わなきゃ。扉を開けてすぐに、あなたの背後に回り込むときとか、ね」

「でも、ドゥーチェ先生」


 ニフシェは言う。


「父は、私に優秀な魔法使いになってほしいって」

「ニフシェ、あなたは何回も、お父さんからの”罰”として、この地下室に閉じ込められている。だけど、あなたのお父さんが、あなたを迎えに来たこと、あったかしら?」


 みずからの記憶を、ニフシェは思い返す。言われてみれば、罰を受けた後にニフシェを迎えに来るのは、使用人だった。父親から地下室に追い立てられることはあっても、父親に迎えられて地下室から抜け出したことはない。


「ないと思います」

「一度だってないわ。腹立たしいけれどね」

「すみません」

「あなたに怒ってるんじゃない」


 ドゥーチェは腕を組んだ。


「あなたのお父さんに怒っているのよ。私は」

「父を責めないでください」

「いいえ。あり得ないことよ。あなたのお父さんは、あなたに罰を課した。罰を課した以上、お父さんはそれを見届けなければいけない。何かを課すとは、それだけ重いことよ。罰であれ、賞であれ、何であれ、ね。ニフシェ、あなたはお父さんみたいになっちゃダメ」

「先生……」


 ドゥーチェの顔を、ニフシェは見上げる。


 父親のことを(とが)めるドゥーチェの言葉は、ニフシェには頼もしかった。ドゥーチェはいつだってそうだった。ニフシェにも、ニフシェの周囲にも、そして自分自身にも、ドゥーチェは厳しかった。


 しかしながら、それが怒りの感情によるものではないと、ニフシェは理解していた。ドゥーチェの態度は自信に満ちていたが、その自信は、騎士としての誇りに根差すものだった。


「とにかく、魔法に頼りすぎは禁物よ」

「でも、魔法が使いこなせるようにならないと、騎士にはなれない、って」

「と思うでしょ? でもね、逆なの」


 ”逆”という単語に、ドゥーチェは力を込める。


 遠い昔、ドゥーチェの自己紹介を、ニフシェは思い出す。騎士を務めていたとき、ドゥーチェは”逆魔法”を研究していたという。


――”逆魔法”?


 聞きなれない言葉を、ニフシェは繰り返す。


――そうよ。例えば、私はあなたの目の前にいて、あなたは私を知覚できる。それはどうして?

――日の光があなたに当たって、その反射した光が、私の目に届くから……

――ブッブー! 残念!


 おどけた口調で、ドゥーチェは言う。


――ま、科学的には、今ので正しい。ただ、”逆魔法”では、全てがあべこべになる。正解はこう、ニフシェは視覚を飛ばす。視覚は飛び、私の身体を捕捉する。

――何だか、屁理屈みたいです。

――私も始めは「何だそりゃ」と思ったわ。でも、そう考えれば説明のつくことが、魔法には多いのよ。


「いい、ニフシェ? いつかあなたも気付くときが来るわ。魔法なんか使えたって、何にもならないのよ」

「それは、ドゥーチェ先生が優秀だからです」

「何言ってるの。私なんか全然優秀じゃないし、私よりももっと優秀な先輩方が、私にそう教えてくれたのよ。教えてもらったときはよく分からなかったけれど、今ならよく分かるわ。あなたは私に、生き方を教えてくれている」

「私がですか?」

「ええ。あと、遊び方もね? ねえ、ニフシェ。私に踊りを教えてよ」

「踊り?」

「そうよ。知ってるのよ、私。あなた、”罰”のとき、一人で踊っているでしょう」


 自分の顔が熱くなるのを、ニフシェは感じ取る。ドゥーチェの言うとおり、”罰”の間、ニフシェはひとり、地下室で踊っていた。誰もいない中で踊る、最小限の踊り。踊っている間だけは、父親のことも、姉のことも、家系のことも、とにかく、世の中の全てを、ニフシェは忘れ去ることができた。


「もしかして、照れてるの? かわいいなァ」

「からかわないでください!」

「ね、せっかくだからさ」


 そう言うと、ドゥーチェは強引に、ニフシェと手を取り合う。


「ほら、向かい合ってさ、こう、優雅に。始めはどうするの?」

「それじゃあ、こうやって……」


 床の木目をなぞるように、ニフシェは足を移動させる。ニフシェの歩幅に合わせ、ドゥーチェもステップを踏む。


「こんな感じ?」

「はい」


 しばらく無言のまま、二人はステップを重ねていく。


 ふとニフシェは、ドゥーチェの手のぬくもりに意識が向いた。ニフシェはドゥーチェに踊りを教えていたが、と同時に、ドゥーチェに導かれているような気分でもあった。


「フーン」


 ドゥーチェがため息を漏らす。


「やっと分かったわ」

「え?」

「あなたの戦い方よ。あなたの剣は、踊りとそっくりだわ」

「そうですか? すみません。直すようにします」

「直す必要なんかないわ。その方がステキよ。不思議だったのよ」


 ニフシェの歩幅に合わせながら、ドゥーチェもステップを踏む。ドゥーチェの動き方は慎重だったが、すでにぎこちなさはなくなっていた。


「稽古をしていると、あなたが次に、どんな手を打ってくるのか分かる。だけど、それを妨害することはできない。予測可能、回避不可能。踊りのなせるわざね。次のあなたの行動は、前のあなたの行動に秘められている。踊りって、そういうものでしょ?」

「そう……かもしれないですね。でも、自分には分かりません」


 しどろもどろになりながら、ニフシェは答える。ニフシェは褒められるのが得意ではなかった。自分の答えが中身のないものだということに、ニフシェはすぐに気付いた。


「ドゥーチェ先生、そんな相手と戦うには、何を考えますか?」

「まじめねぇ、ニフシェって」


 一回転しながら、ドゥーチェは言った。今はもう、ドゥーチェの間合いは完ぺきだった。ほんの少し踊っただけで、ドゥーチェはもう、初歩的なところは自由に踊りこなせるようだった。


「すみません」

「今日だけは、真面目さんはお休みよ。私も踊りが上手だったらなァ」

「先生は、子供のときには何をしていたんですか?」

「盗みよ」

「え?」

「盗み。泥棒よ」


 ドゥーチェの表情を、ニフシェはじっと見つめる。それは、ドゥーチェが「冗談だ」と言ってくれることを期待したからだったが、ニフシェの思いとは裏腹に、ドゥーチェはクスリとも笑わなかった。


「やーね、ニフシェったら」


 思い出したとばかりに、ドゥーチェははにかんでみせる。ただ、はにかむまでの間合いに、ニフシェは全ての真実を見てしまった気がして、安心できなかった。


「ゴメンね。ビックリだよね? 私、孤児だったのよ。家族なんかいなかった。読むことも、書くこともできなかった。信じられる?」


 信じられないです、と、そう答えようとしたニフシェだったが、その言葉は、喉の奥でうねりとなるばかりで、声にはならなかった。


「そんな私をね、“騎士団”は受け入れてくれた。読み書きもできるようになったし、思い出もたくさんできた。家族と呼んでいいような、大切な人もできた。心から尊敬できる人だって」


 ドゥーチェの手に力が籠もる。


「“騎士団”はね、ニフシェ、私に大切なことを、たくさん教えてくれた。だから、たとえほんの少しでも、私はそれを、あなたに伝えたい。あなたが将来騎士になったとき、私が伝えたことよりもはるかにいっぱいのことを、あなたの後輩たちに伝えてあげてほしい」

「はるかにいっぱいの――」

「そうよ。あなたならできる」


 心の中で、ニフシェは自問自答する。両手を合わせ、キスをしようと思えば届くくらい間近に、ドゥーチェはいる。しかし、ドゥーチェと自分との間には深い隔たりがあるように、ニフシェには思えた。


 ドゥーチェのような立派な騎士に、自分はなれるだろうか――。


「なれるわよ」

「え……?!」


 思いがけないドゥーチェの言葉に、ニフシェは自分の右足で、左足を踏みつけてしまう。ステップを踏み損ねたニフシェは、バランスを崩し、床に倒れそうになった。鼻柱を床に打ち付けずに済んだのは、ドゥーチェが手を伸ばし、ニフシェを支えたからである。


「先生、今、心を……?」

「読心術よ。あなたにだって、いずれできるようになる」


 ニフシェを立たせると、ドゥーチェはそのまま、ニフシェの手を握りしめる。


「でもね、ニフシェ。『私みたいになりたい』って考えているようじゃダメ。私程度にしかなれないようじゃ、あなたダメよ」

「そんな……先生は素晴らしい人です」

「嬉しいわ。でもね、そう見えるだけ。あなたが私と同じくらいの年になれば、私が大したことないんだって、すぐに分かるようになる」


 ニフシェの手を取ると、ドゥーチェはニフシェの正面に膝をつく。それまで見上げていたドゥーチェの瞳を、ニフシェが見下ろす番だった。


「だから、『私のようになりたい』なんて考えないで、ニフシェ。あなたはあなたになる。ほかの何者でもない、かけがえのないあなた自身に。今のあなたは”迷い星”かもしれない。だけど将来、あなたは”導きの星”になる。夜空の中で、最も大きな星に、ね」


 ニフシェは、生唾を呑み込んだ。”導きの星”――シャンタイアクティの巫皇(ジリッツァ)を星になぞらえ、そのように言うことがある。


「先生……私を、買いかぶりすぎです」

「いいえ。あなたには才能があるわ。私が保証する」


 そう言い切ると、ドゥーチェは立ち上がった。


「それにね、内緒にしてほしいんだけれど……ニフリートよりも、あなたの方が才能があるし、巫皇(ジリッツァ)に近いわ」

「え?!」

「シッ! 内緒よ。秘密なんだから」


 唇の前で指を立てると、ドゥーチェはウィンクしてみせる。


「自信を持って、ニフシェ。今のあなたに必要なのは、勇気だけよ」



   ◇◇◇



 使用人に連れられ、ニフシェは地下室から抜け出した。使用人の足音が聞こえてくるやいなや、ドゥーチェは素早く身を翻し、忽然と姿を消してしまった。


――今のあなたに必要なのは、勇気だけよ。


 ドゥーチェの言葉を、ニフシェは心の中で繰り返した。


(勇気、か)


 去っていく使用人の背中を見送りながら、ニフシェは考える。


 すでに夕暮れを迎えていた。これから夕食までの時間は、わずかばかりの自由時間だった。


 勇気があれば、自分は姉・ニフリートを差し置いて巫皇(ジリッツァ)になれるかもしれない。そう考えただけでも、ニフシェの心は弾んだ。自分にもまだまだ、できることはあるのかも、と、ニフシェは前向きな気分になる。


 でも、どうやって勇気を持てばいいんだろう……?


「ニフシェ」


 そのとき、背後から声がした。

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