036_逆(обратный)
――主よ、幻を見る人がそれを見ているのは、心魂と霊と、そのどちらを通じてなのですか?
(『マリヤの福音書』第10頁)
〈しかし旦那様は、どうしてあの子に、あんなに冷たいんだろうなァ〉
地下室で息を整えていたニフシェは、頭上から聞こえる下男のくぐもった声に、顔を上げる。
ここは、ダカ州・サーミアットにある、ダカラー家の別荘である。ニフシェと、姉のニフリートは、父親に連れられて別荘にやってきた。
ただし、バカンスのためではない。“騎士団”に入るための特訓が、別荘へ来たことの目的だった。
〈そりゃ騎士団に入って、出世してもらいたいからに決まってるでしょ〉
下男の言葉に、傍らにいたとおぼしき下女が答える。
〈ここの家に限った話じゃない。御三家のほかの家も、今はそういう時期なのよ〉
〈詳しいんだな?〉
〈これでも、あたしの母さんだって騎士団出身なのさ〉
下女が得意げに言う。
麒麟の魔法使いであるニフシェは、音に敏感だった。常人であれば聞き取れないはずの一階からの声も、ニフシェはつぶさに聞き取ることができる。
〈といっても、準騎士どまりだったけれどね〉
〈でもよ、旦那様は、特にニフシェお嬢ちゃんに厳しくねえか〉
〈仕方ないってもんでしょ。ニフリートお嬢様は第一夫人、ニフシェお嬢様は第二夫人の子よ。どっちに目をかけるかなんて、決まってるじゃない。それに、ニフシェお嬢様は陰気よ。どっちも翳があるけれど、ニフシェお嬢様は特にね〉
これ以上は聞きたくない。目をつぶると、下男と下女の話を、ニフシェは頭から追い払う。
物心ついたときから、ニフシェはニフリートと比べられてばかりだった。学問においても、剣の技量においても、魔法の才能についても、ニフリートはニフシェを上回っていた。それは、単に年齢差の問題ではなかった。ニフリートがその年齢の時にできたことのほとんどを、ニフシェはできなかった。
姉と比べられることから、ニフシェは逃げられなかった。地下室に閉じ込められているのも、ニフリートに比べて劣っていた、ニフシェに対する、父親からの”罰”だった。
そのとき。地階への階段を降りる足音が、ニフシェの耳に届く。ニフシェはドキリとする。閉じ込められてから、時間は経っていない。従者がニフシェを迎えに来るのは、もっと時間が経ってからのことだ。
両耳から手を離すと、ニフシェは耳をそばだてる。床を強く踏みつけるような足音。
(お父様だ)
ニフシェの心が騒ぐ。恐ろしくなったニフシェは、食料棚の裏に身を隠した。
扉の前で、足音は止まる。固唾を呑むニフシェの前で、蝶番が軋み、扉が開く。
だが、扉の向こうに、人影はない。
その瞬間。
「ばあっ!」
「ふわあっ?!」
背後から聞こえてきた声に、ニフシェは心臓が飛び出しそうになる。ニフシェは慌てて後ろを振り返る。
「ドゥーチェ先生?」
背後に立っていたのは、魔法の家庭教師・ドゥーチェだった。
「どう? ビックリしたでしょう?」
ドゥーチェはいたずらっぽく微笑んでみせる。
ドゥーチェはついこの前まで、“騎士団”で騎士の地位にあった。ドゥーチェの出身が、ダカラー家の荘園に近かったために、ニフシェの父親に声をかけられ、ドゥーチェは“騎士団”を脱退後、家庭教師を務めることとなった。
ドゥーチェは青い瞳を持ち、墨色の髪を、肩の高さに切りそろえている。ニフシェよりも、ほんの少し背が高かった。にもかかわらず、ニフシェは、剣の扱いを習うとき、聖典の講義を受けるとき、騎士の振舞いを指導されるときはいつも、ドゥーチェの存在が大きく見えていた。
「お父様かと……」
「でしょう?」
たどたどしく答えるニフシェに、ドゥーチェは得意げだった。
「お父さんの足音、真似して歩いてみたのよ。こう、床を強く踏みつけるようにして、ね!」
襦袢の裾を両手でたくし上げ、わざとらしく足を開くと、ドゥーチェはのしのしと歩くそぶりを見せる。そんなドゥーチェの様子に、ニフシェも吹き出してしまう。
「そうだったんですね」
「ねえ、ニフシェ。あなた、魔法で『お父さんだ』って判断したでしょ?」
「は、はい」
「ダメよ、それじゃ」
ドゥーチェ”先生”の口調が、厳しくなる。
「魔法に頼りすぎはダメ。使うときは、エレガントに使わなきゃ。扉を開けてすぐに、あなたの背後に回り込むときとか、ね」
「でも、ドゥーチェ先生」
ニフシェは言う。
「父は、私に優秀な魔法使いになってほしいって」
「ニフシェ、あなたは何回も、お父さんからの”罰”として、この地下室に閉じ込められている。だけど、あなたのお父さんが、あなたを迎えに来たこと、あったかしら?」
みずからの記憶を、ニフシェは思い返す。言われてみれば、罰を受けた後にニフシェを迎えに来るのは、使用人だった。父親から地下室に追い立てられることはあっても、父親に迎えられて地下室から抜け出したことはない。
「ないと思います」
「一度だってないわ。腹立たしいけれどね」
「すみません」
「あなたに怒ってるんじゃない」
ドゥーチェは腕を組んだ。
「あなたのお父さんに怒っているのよ。私は」
「父を責めないでください」
「いいえ。あり得ないことよ。あなたのお父さんは、あなたに罰を課した。罰を課した以上、お父さんはそれを見届けなければいけない。何かを課すとは、それだけ重いことよ。罰であれ、賞であれ、何であれ、ね。ニフシェ、あなたはお父さんみたいになっちゃダメ」
「先生……」
ドゥーチェの顔を、ニフシェは見上げる。
父親のことを咎めるドゥーチェの言葉は、ニフシェには頼もしかった。ドゥーチェはいつだってそうだった。ニフシェにも、ニフシェの周囲にも、そして自分自身にも、ドゥーチェは厳しかった。
しかしながら、それが怒りの感情によるものではないと、ニフシェは理解していた。ドゥーチェの態度は自信に満ちていたが、その自信は、騎士としての誇りに根差すものだった。
「とにかく、魔法に頼りすぎは禁物よ」
「でも、魔法が使いこなせるようにならないと、騎士にはなれない、って」
「と思うでしょ? でもね、逆なの」
”逆”という単語に、ドゥーチェは力を込める。
遠い昔、ドゥーチェの自己紹介を、ニフシェは思い出す。騎士を務めていたとき、ドゥーチェは”逆魔法”を研究していたという。
――”逆魔法”?
聞きなれない言葉を、ニフシェは繰り返す。
――そうよ。例えば、私はあなたの目の前にいて、あなたは私を知覚できる。それはどうして?
――日の光があなたに当たって、その反射した光が、私の目に届くから……
――ブッブー! 残念!
おどけた口調で、ドゥーチェは言う。
――ま、科学的には、今ので正しい。ただ、”逆魔法”では、全てがあべこべになる。正解はこう、ニフシェは視覚を飛ばす。視覚は飛び、私の身体を捕捉する。
――何だか、屁理屈みたいです。
――私も始めは「何だそりゃ」と思ったわ。でも、そう考えれば説明のつくことが、魔法には多いのよ。
「いい、ニフシェ? いつかあなたも気付くときが来るわ。魔法なんか使えたって、何にもならないのよ」
「それは、ドゥーチェ先生が優秀だからです」
「何言ってるの。私なんか全然優秀じゃないし、私よりももっと優秀な先輩方が、私にそう教えてくれたのよ。教えてもらったときはよく分からなかったけれど、今ならよく分かるわ。あなたは私に、生き方を教えてくれている」
「私がですか?」
「ええ。あと、遊び方もね? ねえ、ニフシェ。私に踊りを教えてよ」
「踊り?」
「そうよ。知ってるのよ、私。あなた、”罰”のとき、一人で踊っているでしょう」
自分の顔が熱くなるのを、ニフシェは感じ取る。ドゥーチェの言うとおり、”罰”の間、ニフシェはひとり、地下室で踊っていた。誰もいない中で踊る、最小限の踊り。踊っている間だけは、父親のことも、姉のことも、家系のことも、とにかく、世の中の全てを、ニフシェは忘れ去ることができた。
「もしかして、照れてるの? かわいいなァ」
「からかわないでください!」
「ね、せっかくだからさ」
そう言うと、ドゥーチェは強引に、ニフシェと手を取り合う。
「ほら、向かい合ってさ、こう、優雅に。始めはどうするの?」
「それじゃあ、こうやって……」
床の木目をなぞるように、ニフシェは足を移動させる。ニフシェの歩幅に合わせ、ドゥーチェもステップを踏む。
「こんな感じ?」
「はい」
しばらく無言のまま、二人はステップを重ねていく。
ふとニフシェは、ドゥーチェの手のぬくもりに意識が向いた。ニフシェはドゥーチェに踊りを教えていたが、と同時に、ドゥーチェに導かれているような気分でもあった。
「フーン」
ドゥーチェがため息を漏らす。
「やっと分かったわ」
「え?」
「あなたの戦い方よ。あなたの剣は、踊りとそっくりだわ」
「そうですか? すみません。直すようにします」
「直す必要なんかないわ。その方がステキよ。不思議だったのよ」
ニフシェの歩幅に合わせながら、ドゥーチェもステップを踏む。ドゥーチェの動き方は慎重だったが、すでにぎこちなさはなくなっていた。
「稽古をしていると、あなたが次に、どんな手を打ってくるのか分かる。だけど、それを妨害することはできない。予測可能、回避不可能。踊りのなせるわざね。次のあなたの行動は、前のあなたの行動に秘められている。踊りって、そういうものでしょ?」
「そう……かもしれないですね。でも、自分には分かりません」
しどろもどろになりながら、ニフシェは答える。ニフシェは褒められるのが得意ではなかった。自分の答えが中身のないものだということに、ニフシェはすぐに気付いた。
「ドゥーチェ先生、そんな相手と戦うには、何を考えますか?」
「まじめねぇ、ニフシェって」
一回転しながら、ドゥーチェは言った。今はもう、ドゥーチェの間合いは完ぺきだった。ほんの少し踊っただけで、ドゥーチェはもう、初歩的なところは自由に踊りこなせるようだった。
「すみません」
「今日だけは、真面目さんはお休みよ。私も踊りが上手だったらなァ」
「先生は、子供のときには何をしていたんですか?」
「盗みよ」
「え?」
「盗み。泥棒よ」
ドゥーチェの表情を、ニフシェはじっと見つめる。それは、ドゥーチェが「冗談だ」と言ってくれることを期待したからだったが、ニフシェの思いとは裏腹に、ドゥーチェはクスリとも笑わなかった。
「やーね、ニフシェったら」
思い出したとばかりに、ドゥーチェははにかんでみせる。ただ、はにかむまでの間合いに、ニフシェは全ての真実を見てしまった気がして、安心できなかった。
「ゴメンね。ビックリだよね? 私、孤児だったのよ。家族なんかいなかった。読むことも、書くこともできなかった。信じられる?」
信じられないです、と、そう答えようとしたニフシェだったが、その言葉は、喉の奥でうねりとなるばかりで、声にはならなかった。
「そんな私をね、“騎士団”は受け入れてくれた。読み書きもできるようになったし、思い出もたくさんできた。家族と呼んでいいような、大切な人もできた。心から尊敬できる人だって」
ドゥーチェの手に力が籠もる。
「“騎士団”はね、ニフシェ、私に大切なことを、たくさん教えてくれた。だから、たとえほんの少しでも、私はそれを、あなたに伝えたい。あなたが将来騎士になったとき、私が伝えたことよりもはるかにいっぱいのことを、あなたの後輩たちに伝えてあげてほしい」
「はるかにいっぱいの――」
「そうよ。あなたならできる」
心の中で、ニフシェは自問自答する。両手を合わせ、キスをしようと思えば届くくらい間近に、ドゥーチェはいる。しかし、ドゥーチェと自分との間には深い隔たりがあるように、ニフシェには思えた。
ドゥーチェのような立派な騎士に、自分はなれるだろうか――。
「なれるわよ」
「え……?!」
思いがけないドゥーチェの言葉に、ニフシェは自分の右足で、左足を踏みつけてしまう。ステップを踏み損ねたニフシェは、バランスを崩し、床に倒れそうになった。鼻柱を床に打ち付けずに済んだのは、ドゥーチェが手を伸ばし、ニフシェを支えたからである。
「先生、今、心を……?」
「読心術よ。あなたにだって、いずれできるようになる」
ニフシェを立たせると、ドゥーチェはそのまま、ニフシェの手を握りしめる。
「でもね、ニフシェ。『私みたいになりたい』って考えているようじゃダメ。私程度にしかなれないようじゃ、あなたダメよ」
「そんな……先生は素晴らしい人です」
「嬉しいわ。でもね、そう見えるだけ。あなたが私と同じくらいの年になれば、私が大したことないんだって、すぐに分かるようになる」
ニフシェの手を取ると、ドゥーチェはニフシェの正面に膝をつく。それまで見上げていたドゥーチェの瞳を、ニフシェが見下ろす番だった。
「だから、『私のようになりたい』なんて考えないで、ニフシェ。あなたはあなたになる。ほかの何者でもない、かけがえのないあなた自身に。今のあなたは”迷い星”かもしれない。だけど将来、あなたは”導きの星”になる。夜空の中で、最も大きな星に、ね」
ニフシェは、生唾を呑み込んだ。”導きの星”――シャンタイアクティの巫皇を星になぞらえ、そのように言うことがある。
「先生……私を、買いかぶりすぎです」
「いいえ。あなたには才能があるわ。私が保証する」
そう言い切ると、ドゥーチェは立ち上がった。
「それにね、内緒にしてほしいんだけれど……ニフリートよりも、あなたの方が才能があるし、巫皇に近いわ」
「え?!」
「シッ! 内緒よ。秘密なんだから」
唇の前で指を立てると、ドゥーチェはウィンクしてみせる。
「自信を持って、ニフシェ。今のあなたに必要なのは、勇気だけよ」
◇◇◇
使用人に連れられ、ニフシェは地下室から抜け出した。使用人の足音が聞こえてくるやいなや、ドゥーチェは素早く身を翻し、忽然と姿を消してしまった。
――今のあなたに必要なのは、勇気だけよ。
ドゥーチェの言葉を、ニフシェは心の中で繰り返した。
(勇気、か)
去っていく使用人の背中を見送りながら、ニフシェは考える。
すでに夕暮れを迎えていた。これから夕食までの時間は、わずかばかりの自由時間だった。
勇気があれば、自分は姉・ニフリートを差し置いて巫皇になれるかもしれない。そう考えただけでも、ニフシェの心は弾んだ。自分にもまだまだ、できることはあるのかも、と、ニフシェは前向きな気分になる。
でも、どうやって勇気を持てばいいんだろう……?
「ニフシェ」
そのとき、背後から声がした。




