034_太陽がいっぱい(На ярком солнце)
「最悪だ」
オイル塗れになっているところを見られるのが嫌だったので、ニフシェはトレーラーを離れ、ひとりで手を拭いていた。オイルは粘り気が強く、雑巾はあっという間に真っ黒になり、布地どうしがくっついてしまう。
「ついてないな」
今日は陽射しが強い。オイルはたちどころに揮発して、ニフシェの周辺は燃料臭くなる。
力を入れて、本格的にオイルを拭き取らなければならない――そう考えていたニフシェの耳に、ある音が届いた。その音は、木の枝どうしが擦れる音でもなければ、虫の羽音でもない。しかし、耳慣れた音だった。
水の音だ――そう察知したニフシェは、顔を上げ、周辺を見渡してみる。かすかではあるが、周囲のざわめきにまぎれ、せせらぎが聞こえてくる。一度気になりだしてしまうと、ニフシェはもう、それ以外の音が耳に入らなくなる。
ニフシェは、麒麟の魔法使いである。麒麟の魔法使いは、音を操る能力に長け、かすかな音であっても、正確に聞き分けることができた。誰かの足音を聞いただけで、ニフシェはその人が誰なのか識別できるだけでなく、その人の体調さえも言い当てることができた。
だから、辺りは茂みに覆われていたものの、ニフシェは諦めなかった。
とうとう、ニフシェは怪しい場所を見つける。その場所は、ほかの場所と比べても、茂みが不自然に盛り上がっていた。
草木をかき分けながら、ニフシェは進む。はたしてニフシェの予想どおり、目的とした場所へ近づくにつれ、水の音も大きくなってくる。
手を伸ばすと、ニフシェは盛り上がったところの草木をかき分ける。脇へどけられた蔦の合間から、錆びついたポンプが顔をのぞかせた。井戸があった。
「良かった!」
安堵の息をつくと、ニフシェはポンプを手で押す。把手の緩慢な動きと、確かな手ごたえとともに、蛇口の先端から透明な水が流れ出る。水に驚いて、周囲にいた羽虫が、音を立てて飛び立っていった。
両手を突き出すと、ニフシェは手についたオイルを洗い流した。手に水を掬うと、ニフシェは顔を洗い、首筋を冷やす。
一息ついてから、ニフシェは周囲を見渡す。元々この辺りは、集落の水場だったのだろう。集落から人がいなくなり、手入れがされなくなったために、繁茂した草木に覆い隠されてしまったのだ。
この場所をみんなに教えないと。そう考えたニフシェの耳に、背後から誰かが近付いてくる音が聞こえてきた。
オリガの足音だった。
「オリガ?」
「やったな」
オリガは言った。言葉とは裏腹に、オリガは「やった」と思っていないようだった。
「みんなに伝えないとな? このご時世、水は貴重品だからな」
「そうだね」
近づいてくるオリガに対して、ニフシェは場所を譲る。語気からして、オリガの機嫌が良くないことを、ニフシェは察知したからだ。ニフシェは、オリガに張り合うつもりはなかった。
オリガがポンプの正面に立つ。把手がひとりでに動き出す。念力を使って、オリガは把手を動かしていた。
「美味い」
ため息をつくと、天を仰いでから、オリガはニフシェにむき直る。オリガの一連の動作は、「自然に振る舞おうとしたけれど、我慢の限界なので、好きにさせてもらう」とでも言っているかのようだった。
「ニフシェ。お前、自分の姉さんのこと、考えたことはあるかい?」
「え?」
ニフシェは、オリガから厳しい言葉が飛んでくることを覚悟していた。しかしオリガの質問は、ニフシェが想定していた質問とは異なっていた。
「どうなんだ?」
「考えなかった……と言ったら、嘘になる」
過去に姉のことを考えていたかどうかを、正直に思い出しながら、ニフシェは答える。
ニフシェの姉は、ニフリートという名前だった。ニフリートは、ニフシェとは比べ物にならないほど、魔法の才能に恵まれていた。魔法の実力だけでいえば、シャンタイアクティの今の巫皇・ペルガーリアをも凌いでいたかもしれない。
しかし、ニフリートは巫皇になれなかった。ニフリートは他人に無関心で、ともすれば冷徹と見られてしまうような行動を繰り返すような性格の持ち主だった。協調性がなく、これは、一致団結が必要なシャンタイアクティの騎士団の中では、致命的な欠陥だった。
そして、忘れてはならない事実がひとつある。一年ほど前、“黒い雨”がキリクスタンに降り出す直前に、ニフリートはシャンタイアクティ領の南部にある、キラーイという火山の噴火口に滑落し、焼け死んだのだ。
「夢でも、何回か見た」
シャンタイアクティ騎士団のほかの騎士たちがそうだったように、実の妹であるニフシェでさえも、姉・ニフリートのことが苦手だった。
ニフシェにとって厄介なのは、それだけではない。というのも、ニフリートは“実の姉”ではあったものの、ニフシェとの血のつながりは、半分しかなかったからだ。
シャンタイアクティでも屈指の名門貴族であるダカラー家は、他の貴族とは異なり、一夫多妻制の婚姻伝統を有していた。ニフリートは第一夫人、つまりは正室の娘であったが、ニフシェは第二夫人、側室の娘だった。そのせいで、ニフシェは自分と姉との関係を、率直に考えることはできなかった。
「奇遇だな? あたしも夢で、ニフリートに会ったさ」
やけにおどけた調子で、オリガも応じる。
「だいたい嫌な夢だったけどな。寝汗びっしょり、っていう感じの。良かったよ。言ってみるもんだな? 気が合うこともあるもんだ!」
「何が言いたいんだい?」
オリガの言葉に、ニフシェはいら立った。オリガの言葉の後半は、ニフシェに対する当てこすりだったからだ。
「キミがボクのことを――」
「ニフリートは生きている」
ニフシェの全身を、冷たいものが駆けめぐった。ニフシェはその場で釘付けになる。
「まさか、そんな……」
「と、思うだろ? あたしもそうは思えなかった。だけど、巫皇は心証を得ている」
「キミだって、見ただろ?」
掴みかからんばかりの勢いで、ニフシェはオリガににじり寄る。
「死んだはずなんだ、ニフリートは……あいつは。キラーイの噴火口に……真っ逆さまになって……」
「『鉄人よ、死の眠りより目覚めたまえ』」
首を振りながら、オリガは『アダムの黙示録』第七節を引用して答えた。
「そういうところなんだろう、きっと。お前の姉さんは生きている。それであたしたちを……殺そうとしている。今度こそ、完璧に」
ニフシェの脇腹に、とがったものが食い込む。銃の尖端が、ニフシェに突き立てられていた。
「オリガ?」
「話したことあるよな? あたしが、お前のことが嫌いだ、って」
ニフシェは後ずさったが、オリガも同じ歩幅で、ニフシェに詰め寄る。ニフシェの脇腹には、相変わらず銃口があてがわれている。
噴き出してきた汗が、ニフシェの額からこぼれ落ちる。
ウルトラの宮殿で、ニフシェが差し伸べた腕を、オリガは強引に振りほどいた。あの段階でもう、周りにいる人たちは、ニフシェとオリガの仲が悪いことを察しただろう。オリガはもう、いまさら隠し立てする必要もないと考えているようだった。
「知ってるさ」
「だろ? だけど、勘違いするなよ? 君が憎いから、殺そうとしているわけじゃない――巫皇の星命なんだ。ペルジェはさ、怖れているんだ。キミが、姉に内通しているんじゃないかって」
「そんな!」
ニフシェは声を上げた。
「デタラメだ!」
「証拠は?」
「あるわけがないだろう? そっちが証拠を……」
言いかけたニフシェは、ここで全てを悟った。内通していない証拠を、ニフシェが出すことはできない。証拠を出す責任は、主張する側にある。オリガだってそんなことは、百も承知だろう。
それを振り切って、オリガはニフシェを殺そうとしている。それは、単にオリガが、ニフシェのことを嫌っているからではない。
オリガもまた、怖いのだ。ニフシェと同じくらいに、ニフリートが生きていることが。
それは、ペルガーリアにも当てはまる。
「あのね、ニフシェ。もしあたしが巫皇だったらね――」
へたり込んでしまったニフシェのこめかみに、オリガは銃の照準を合わせ直す。
「やっぱり、同じ決断をしていたと思う。分かるだろ、あたしの言いたいことが?」
「分かるさ」
ニフシェは答えた。
「ボクだって、同じことさ」
「ハハ、そうかい。やっぱりあたしら、気が合うんだな」
オリガは、撃鉄を起こした。
「冥府に友たらん……さらば!」
銃声。




