033_君の夢を見ていた(Я мечтал о том, какими мы были раньше)
「チャイ」
声を掛けられ、チャイハネは目を覚ます。シュムが正面に立っていた。
「できたかい?」
「え?」
きょとんとしたシュムの表情と、寝袋のざらついた肌触りを感じ取り、チャイハネは、自分が眠りこけていたことに気付く。
「やだ、チャイったら」
シュムが笑みをこぼす。
「寝ぼけていたんでしょう?」
「ああ……そうみたいだ」
眼鏡を外すと、チャイハネはあくびを噛み殺す。
梟の魔法使いであるチャイハネは、昼夜が逆転しがちだった。昼間に眠くなることは、チャイハネにとって珍しいことではない。しかし、夢を見たのは久しぶりだった。
チャイハネが目を覚ましたのは、トレーラーの中だった。今、チャイハネたちは三台の大型トレーラーに搭乗し、シャンタイアクティまでの道のりを、内陸路を通じて進んでいる。
チャイハネは、シュムの後ろに目を向ける。トレーラーの扉は開け放たれ、陽射しが差し込んでくる。コンテナの壁面に描かれた、冷気を発生させるための魔法陣が、外からの熱気を追い出すべく、青い光を放っている。
「休憩かい?」
「休憩ですが、休憩ではありません」
「どういう意味?」
「先頭のトレーラーが止まってしまったんです」
「どうして?」
チャイハネたちのトレーラーは、一番後ろである。先頭には使徒騎士たちが乗り込み、プヴァエティカとエリッサ、二人の巫皇は中央のトレーラーにいる。使徒騎士たちが先駆けをつとめ、チャイハネたちが殿となり、巫皇に危険がないようにする、という隊列である。
「ぬかるみにはまってしまったんです」
シュムが説明する。
「オリガが強引に突き抜けようとして、前輪がはまり込んでしまったみたいで。エンジンも、泥まみれになっていました」
「ホントに?」
「ええ。国道に出るまでは、道も舗装されていないですから」
立ち上がると、チャイハネは背伸びをする。チャイハネが両手を振り上げても、まだスペースに余裕があるくらい、コンテナは大きい。
「みんなは?」
「使徒騎士の皆さんは、トレーラーをぬかるみから引き出そうとしています。それまでは待機」
「なるほどね」
パーカーのポケットをまさぐり、チャイハネは、煙草があることを確かめる。
「外に出れる?」
「ええ。村があるので、散策できます」
「散策って……」
チャイハネは眉根を寄せる。
南の大陸は、“黒い雨”の脅威に覆われている。ウルトラ市が無事だったのは、巫皇であるプヴァエティカが、雨が降り出す前に結界を展開していたためである。
裏を返せば、ウルトラ市以外の地域は、今だに“黒い雨”に苛まれている。“黒い雨”に打たれた人々は、コイクォイという化物になり果て、生きた人間を襲うようになる。
もし村があったとしても、コイクォイがいる可能性は高い。仮に人間が生き残っていたとしても、チャイハネたちに友好的とは限らない。
「あ、チャイ、それは大丈夫です」
チャイハネの考えを見透かしたようにして、シュムが答えた。
「トラックが立ち往生してすぐに、ニフシェが飛び出して、この村を索敵したんです。それで、『人間も、コイクォイもいなかった』って――」
「何、訪ね歩いたわけ?」
「『音で分かる』と言ってました」
使徒騎士は皆、高度な魔法を使いこなすことができる。ニフシェの魔法属性が何かは分からないが、周囲の音を全て聞き取った上で、ニフシェはそう判断したのだろう。
「ニフシェの言ったことは、信じて大丈夫だと思います」
シュムが付け加えた。
「あの人、まばたきの音で、その人が誰なのか分かるみたいなんです」
「“まばたきの音”?」
シュムの言葉を、チャイハネは繰り返した。そもそも、まばたきに音があり、その音に個人差があるなど、チャイハネには思いもよらなかった。
「そのレベルなら、あたしから言いたいことは何もないよ」
「良かった。それで、チャイ、私に、何が『できた』んですか?」
「え?」
「さっきの寝言ですよ」
シュムが顔をほころばせる。
「言ってたじゃないですか、『できたのかい』って」
「ああ、いや、生まれるのかな、って思ったのさ」
煙草を咥えると、チャイハネはうそぶいてみせる。
「生まれる?」
「あたしとシュムの子だよ。――あれ、顔が赤いよ? 何想像してんの? もしかして――」
「ちょっと、チャイ……!」
シュムがむきになる。
「私、変な妄想なんかしてません!」
「フーン? 『シュムが変な妄想をしている』だなんて、あたし言った覚えはないけどね? ハハハ、冗談だって」
「もうっ、チャイったら……」
「照れちゃってさ、かわいいなァ」
チャイハネは外へ出る。チャイハネの身体を、亜熱帯の湿気と、草いきれが包み込んだ。
つま先立って、チャイハネはトレーラーの前方を眺めてみる。舗装されていない赤土の道が、チャイハネの眼前に横たわっている。先頭のトレーラーは、左前方の車輪が、道の中に埋まっているように見えた。シュムの言ったとおり、前輪がめり込んでしまったのだろう。
その左側、道路から少し下がった位置に、数軒の民家がある。
「散策、つってもね」
口から紫煙を吐きながら、チャイハネはぼやく。
民家は、熱帯雨林の中にほとんど埋まってしまっていた。“黒い雨”によって人間が明け渡した家屋を、自然が埋め尽くそうとしているのだ。
地面から突出している奇妙な形の出っ張りを、チャイハネは蹴ってみる。表面を覆っていた土が剥がれ、“握り”の部分が露出する。脱輪したオートバイが、打ち捨てられ、風雨にさらされたままとなっていた。
「寂しいですね」
シュムが言った。
「そうね」
「ここに住んでいた人たちは、無事なんでしょうか?」
「無事さ」
吸い終えた煙草を、チャイハネは水たまりに投げ捨てる。
「そういうことにしておこう」
「ねえ、チャイ、さっきの話ですが」
「あれだよ、ワーティヒンドの図書館で――」
段差を下ってすぐのところにある木造家屋に、チャイハネは足を踏み入れる。打ち捨てられた机と椅子に、割れたマグカップが散乱していた。壁には数本の、ペンキで色を塗られたタイヤが掛けられていた。近くに水辺があって、子供たちは、このタイヤを浮き輪代わりに、川へ飛び出しているのだろう、とチャイハネは考えた。
「懐かしかったな」
屋外からは、くぐもった声が聞こえてくる。オリガとニフシェが話し合いながら、エンジンを稼働させる方法を探り合っているのだろう。
「キミ、てんで組み合わせの問題ができないんだから、笑っちゃうよ」
「それって……私たちが、初めて出会ったときですよね?」
「そうさ」
正面にあった椅子に、チャイハネは腰を下ろす。風雨にさらされていたために、椅子は今にも壊れそうだったが、何とか持ちこたえていた。
「ちょうどあたしは、こんな感じで座ってた。んで、目の前の少女が簡単な数学の問題をめちゃくちゃな方法で解き始める。『なっちゃいない』と思う」
「結局私は――」
対面の椅子に手を掛けたものの、シュムは座らなかった。身体を鍛えるのが趣味のシュムは、チャイハネよりも身体が重い。座るのは危ない、と思ったのだろう。
「体育以外はてんでダメだったんです。もしあのとき、チャイハネに声を掛けられてなかったら、私、きっと落第してました」
チャイハネは笑ってみせたが、心では別のことを考えていた。
――もしあのとき、チャイハネに声を掛けられていなかったら。
これは、チャイハネにも同じことが言える。
もしあのとき、シュムに声を掛けていなかったら? ――そのとき、チャイハネは以前と同じように、浮浪者同然の生活を続けていただろう。若いうちは、それでもいい。ただ、いつまでもそのようにして生きていくことはできない。どこかで終わりがやってくる。終わりがやってきたとき、チャイハネには行く当ても、戻る場所もない。あのときの出会いによって、本当に救われたのは、チャイハネの方なのだ。
この“救い”はいつまで続くのだろう? そう考え、チャイハネの心のすき間に風が吹く。その風は、“おおさじ亭”でシュムと語り合っていた時に膨らみだした、ぼんやりとした不安を、再びチャイハネの心に呼び戻した。
シュムと出会った後に、“黒い雨”がやってきて、世の中はめちゃくちゃになってしまった。ただ、めちゃくちゃになってしまったために、チャイハネはシュムと生きていくことができている。
もし、この世界が元どおりになったとしたら?
その世界で、チャイハネの居場所があるという保証は?
「シュム、あのさ――」
身を乗り出そうとした矢先、チャイハネは身体の支えを失って、後ろにひっくり返った。身を乗り出そうとした弾みで、椅子が崩れてしまったのだ。
「もう、チャイったら」
両手両足を投げ出しているチャイハネを見て、シュムがふき出した。
「私のことをからかった、罰が当たったんです」
「もしさ、もし、あたしがシュムに声を掛けてなかったら、あたし、どうなってたと思う?」
チャイハネは尋ねる。
「しっかりしてください、チャイ」
チャイハネの手を掴むと、シュムはチャイハネの身体を起こす。
「声を掛けてくれなかったとしても、チャイはチャイです」
チャイハネの手を握り締め、シュムが答える。
そうじゃないんだ。そう言えるだけの勇気を、チャイハネは持っていなかった。
「あたしは――」
言いかけた矢先、外から歓声が聞こえてきた。とうとうオリガたちが、トレーラーのエンジンを復活させたのだろう。
「戻りましょう、チャイ」
シュムに手を引っ張られ、チャイハネも外へ出た。段差の上へ登ってみれば、オリガとミーシャがいた。
「大変だったよ」
「ご苦労様です」
腕で汗をぬぐうオリガを、シュムがねぎらう。
「ニフシェは、どうしたんです?」
「アイツ、油が腕にかかっちまったんだ。今は水が汲める場所を探してるよ」
オリガはここで、言葉を切った。
もし、この隊列にクニカがいて、クニカがオリガの“心の色”を覗き込んでいたとするならば、その“心の色”が真っ黒になったことを、見逃さなかったことだろう。
「水が汲めるところを探してるんだ、ひとりで」
噛みしめるように、オリガが言った。
「そんなに都合よく、水場があるでしょうか?」
「アイツなら、分かるかもしれない。水のせせらぎくらいは、聞き分けられるだろうからさ」
そう言うと、オリガはきびすを返す。
「様子を見てくるよ。アンタたちはトレーラーに戻った方がいい。ミーシャは待機してて」
「キャー。」
ミーシャが返事をしたときにはもう、集落とは反対側にある茂みの中に、オリガは分け入っているところだった。




