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ラヴ・アンダーウェイ(LOVE UИDERW∀Y)  作者: 囘囘靑
第3章:シャンタイアクティ少女行(в СянтайАкти)
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032_冴えたやり方(Умный способ)

 解剖学の本を読みふけっていたチャイハネは、正面に人の気配を感じ、顔を上げる。チャイハネの前の席に、ひとりの少女が腰を下ろした。


 少女は、銀色の長髪に、紫水晶(アメジスト)色の瞳を持っている。少女は褐色肌だったが、身に着けている学生服が白を基調としているために、肌色が細やかなように、チャイハネの目には映った。


 美少女だな――と、少女の顔をまじまじと眺め、目が合いそうになってから、チャイハネは慌てて目線を反らす。


 それにしても、とチャイハネは思う。ここは、ワーティヒンド市立図書館の、一階にある閲覧スペースである。平日の、それも日中であるから、人は少なく、制服姿の少女は場違いだった。


 制服は、聖ソフィア・ワーティヒンド高校のものである。市内でも有数の進学校であり、進学実績の高さから、わざわざ他の地方からやってきて、下宿しながら通う生徒もいる。授業料も高額なことで有名だった。


 美少女で、おまけにお金持ち。心の中で、チャイハネはぼやく。チャイハネはといえば、孤児院の院長や、同世代の少年少女たちとそりが合わずに、施設を抜け出し、この図書館で暮らしている有様だった。


 チャイハネがこのような生活を始めてから、一年が経とうとしていた。図書館の営業時間中は、共用席で本を読みふけり、営業時間終了後は、夜まで営業している市営プールに、シャワーを浴びるためだけに入場する。シャワーを浴び、着替えを済ませると、浮浪者たちに混じり、チャイハネは近くの聖堂に流れ着く。とはいうものの、チャイハネの目的は、聖堂が提供している食糧ではなかった。管理者の目を盗むと、チャイハネは屋上付近の清掃員室へ上がり、そこで夜を過ごす。清掃員は朝の五時にやってくるため、それまでは、無人の清掃員室を専有できる。


 いずれにしても、目の前にいるこの少女は、チャイハネがそのような境遇にいることなど、全く想像だにしていないことだろう。それがチャイハネには羨ましくもあり、寂しくもあった。そしてチャイハネは、自分の「寂しい」という感情が、少女に対するほとんど当て(こす)りの感情であるために、余計に気が滅入ってしまった。


 ちなみに、浮浪者であることには間違いなかったが、チャイハネは、無一文というわけではない。


 このワーティヒンド市は、ウルトラ領とチカラアリ領の境に位置する町で、ウルノワ市の北に位置する。ウルノワといえば、大学で有名であり、古くから学問のさかんな地域だった。聖ソフィア・ワーティヒンド高校のほかにも、市にはいくつかの進学校があり、そこで学ぶ生徒と、そこで学びたい受験生とで、いつもごった返している。


 と、ここでチャイハネの“(サヴァ)”の魔法属性が役に立つ。


 きっかけは、とある学校の生徒の、神学に関するレポートを手伝ったことにあった。以来、図書館で“暮らす”チャイハネの下に、事あるごとに○○校の生徒や、××学士院の入学希望者などが、入れ代わり立ち代わり、やってくるようになった。チャイハネは、レポートの代筆・模擬試験の手ほどきなどを行う代わりに、“手数料”と称し、代金を徴収していた。それも、生徒・志望者のほとんどがお坊ちゃま、お嬢ちゃまであるためか、金払いは良く、チャイハネはそれで糊口をしのぐことができた。チャイハネは、自分の感覚からしても割高な金銭を要求していたが、それでもかれらは、気前よく支払うのだった。これでも、チャイハネが提供するサービスは、相場から見れば安い方であるらしい。


 少女が、鞄から教材を取り出すところを、チャイハネは見つめていた。取り出された水色の冊子には、「補習用」と書かれている。


 ああ、良かった、と、少女に気付かれない程度の大きさで、チャイハネは溜息を漏らす。


 この時期は、上半期の中間考査が終了し、答案が返却される時期に当たる。出来の悪い生徒は、その出来の悪さに応じて「補習」が与えられる。「補習用」の教材が配られているということは、つまり、そういうことである。


 ねたみがあるわけではないけれど、美人で、お金持ちで、頭が良い、というのは、チャイハネ的には“ずるい”と思わざるを得なかった。だから、身勝手とは思いつつも、少女が補習用教材を出したとき、チャイハネはホッとしたのである。


 いや、もしかしたら自分は、ねたんでいるのだろうか? チャイハネが自問自答する間にも、少女は鉛筆を握り締め、補習問題に取り掛かる。


 チャイハネは、少女の取り組む問題が気になった。席を立つついでに、少女の肩越しに、補習問題の一つをぬすみ見る。


《0から99までの数字が書かれた100枚のカードの中から、任意の5枚を選択して、数字の小さい順に並べる。このとき、連続する数が含まれない並べ方は、何通りあるか?》


 問題を盗み見たチャイハネは、内心でほくそ笑む。


 設問の前提として、「連続する数が含まれてはならない」とある。だから、〈1、3、5、7、9〉や〈2、4、6、8、10〉は良いが、〈1、2、3、5、8〉などは、〈1、2、3〉が連続してしまっているため、ダメになる。


 《0から99まで》だと数字が大きいため、《1から5までの数字が書かれたカードから、隣り合わない2枚をひっくり返す場合は何通りあるか》と考えてみれば、どうだろう。この設問ならば、パターンを数え上げれば、答えにたどり着くことができる。組み合わせの問題では順序が関係ないため、答えは6通りである。


 重要なのは、この「6通り」という答えを出すに当たり、どのような考え方をしたのか、というところだ。「隣り合わない2枚をひっくり返す」とは、裏を返せば、「3枚は選ばない」ということを意味する。


 すると、「ひっくり返す予定のない3枚」と「ひっくり返す予定の2枚」の合計5枚があり、かつ、「ひっくり返す予定の2枚」は、それが「隣り合ってはならない」という条件を満たしていればよいことになる。


 では、「ひっくり返す予定の2枚」が隣り合わないようにするためには、どうすればよいか。答えは、「ひっくり返す予定のない3枚」の“間”に、「ひっくり返す予定の2枚」を挿入すればよいのだ。


 だが、ここで「2C2」、としてしまったら、バツをつけられてしまう。5本の指に対して、“間”は4つある。しかし、親指の外側と小指の外側を、ともに“間”と換算すれば、“間”は6つあることになる。これと同じで、「ひっくり返す予定のない3枚」の“間”は、全部で4つある。この4つの間から2つを選ぶこと、つまり「4C2」で、答えは6通りなのである。


 この考え方を、元の問題に適用すればよい。100枚のカードのうち、選ばれないカードは95枚あり、その“間”は96ある。この96の“間”の中から、5つの“間”を選べばよいから、「96C5」を計算すればよい。要するに、数字が大きいだけの問題で、考え方さえ整理できれば、単純な計算をするだけで答えは出る。


(大丈夫かな、あの子)


 解剖学の本を返すために、二階へと上がりながら、チャイハネは思った。


 極端に大きな数字や、極端に小さな数字が提示される問題は、大抵の場合、生徒をひるませるためだけにそのようにしている。これまでの授業を律儀に聴いていれば、その範囲内で必ず答えられるはずの問題である。


 ただ、ひとつの単元でつまずいてしまうと、ほかの単元でも理解が進まなくなる。今のうちに基本を押さえておかなければ、後々になって取り返しはつかない。


 あの子に、考え方を教えてあげるべきか。


(いや、ダメだ)


 頭に浮かんだ考えを、チャイハネは打ち消す。そもそもチャイハネと少女は、赤の他人である。いきなりチャイハネが解法を教えたところで、少女に怪訝な顔をされるだけだろう。


 問題の右上に“十五分”という時間設定があるのを、チャイハネは見逃さなかった。考え方さえきちんと整理できていれば、五分で計算はできる。


(ちょっと待ってみるか――)


 本棚に本を戻しながら、チャイハネは考える。十五分後に席に戻ってみたとき、あの少女は、ちゃんと次の問題に進めているかどうか――ちょっとした出来心で、チャイハネはそれを確かめてみたい、と思った。


 (きびす)を返すと、チャイハネは【知育教育コーナー】へと足を運び、ちびっ子向けの本を物色し始める。十五分間の暇潰しに使えそうな本を、立ち読みするためだった。



   ◇◇◇



(何だったんだろうな――)


 十五分が経った。頭を掻きながら、チャイハネは階段を降りる。


(『世の中丸わかりハンドブック:これであなたも世渡り上手【記憶喪失の人用】』だなんて、なんてバカみたいなタイトルなんだろう。いったい、誰に需要があるんだか……)


 席の近くに、チャイハネは戻る。少女は、まだ同じところに座っていた。


 席に着く間際、チャイハネは肩越しに、問題冊子の内側を覗いてみた。冊子の余白を全て塗りつぶしかねない勢いで、たくさんの樹形図が書き込まれていた。


「ハハーックション!」


 くしゃみをしたフリをして、笑い出しそうになるのを、チャイハネはカモフラージュした。


 チャイハネは、少女を一瞥する。少女は唇を引き結んだまま、おでこから冷や汗を流し、瞳はぐるぐると回っていた。


(おばかさんじゃん、この子)


 問題にあっぷあっぷしている少女を目の当たりにして、チャイハネは溜息を漏らした。算数や数学が極端にできない人がいるということを、チャイハネは知っている。


 よほど声をかけようかと思ったが、チャイハネは我慢した。


 ところで、チャイハネは席に戻ってきた時に、次に読むべき本を持ってくるのを忘れてしまっていた。またすぐに席を立つのもバカバカしい上、少女の様子が気になったので、チャイハネは、物思いにふけっているさまを取り繕いながら、少女の様子を観察することにした。


 少女のやり方が、間違っているわけではない。何日かかってでも数え上げさえすれば、正解にはたどり着ける。しかし、それは最悪の解法である。もっといい解法があるし、学校の先生だって、生徒の書いたツリーを眺めたいがために問題を出しているわけではない。


 いつしかチャイハネは、少女がせっせとノートに書くツリーの枝を見つめていた。チャイハネの目の前で、少女の鉛筆の芯が折れる。集中力が途絶えたのか、少女は鼻を鳴らすと、席から立ち上がろうとした。


「そんなんじゃダメだ」


 目の前の少女が、言葉に反応して、ぴくりと肩を震わせた。そんな少女の様子を見て、チャイハネはハッとする。今の言葉は、チャイハネが無意識に発した言葉だった。


 チャイハネに、少女が振り向く。少女とチャイハネの目が、初めて合った。


「えっと……その……」

「そうなんですか?」


 取り繕おうとしたチャイハネに対し、少女は素直に返事をする。


「そりゃそうだ」


 少女に声を掛けてしまったことに動揺しつつも、チャイハネは、少女の隣に回り込んだ。少女はといえば、おとなしく席に座り直している。


「いいかい? こういう問題の考え方なんだけれどね――」


 そう言いながら、チャイハネは解法を指南する。少女は静かに頷きながら、自分の手で問題を解き始めた。


 説明している間じゅう、チャイハネは、汗が止まらなかった。どうして声を掛けてしまったのか、なんてバカなことをしてしまったのか、少女にどう思われるだろう。そんな考えばかりが、チャイハネの脳内を飛び回った。


「できた?」


 少女が、欄内に回答を記入したのを見届けると、チャイハネは言った。


「ありがとうございます」

「良かったよ。気になっちゃってさ。ゴメンね。お節介しちゃって」


 チャイハネは早足で、その場を後にした。少女の視線が背中に浴びせられていると考えると、生きた心地がしなかった。もうこの場所にはいられない、と、図書館の外へ飛び出す。


「自分はバカだ」


 階段の手すりに手をつくと、チャイハネは呟いた。どうして声を掛けてしまったのか。チャイハネ自身にも分からなかった。


 ただ、自分の行いが軽率だったことは、チャイハネにも分かる。どこの誰とも知らない少女から、いきなり声を掛けられ、数学の問題の解法について講釈を垂れられる――相手の少女は、きっとそのように考えたことだろう。気味悪がられても、おかしくはない。


 これから先、この図書館で、再び同じ少女に出くわすことになったとしたら。


(出くわさないようにするしかないな)


 噴き出してきた額の汗を、チャイハネは腕で拭う。しかし、この図書館以外に、チャイハネに行く当てはない。


 日は沈み始めており、空にはうっすらと、藤色の(とばり)がかかっている。雨を予感させるような冷たい風が吹いて、図書館の正面に続く公園の、棕櫚(シュロ)の木々がざわめき始めた。凧あげに興じていた中学生たちが、吹きすさんだ風に歓声を上げる。


「あの……」


 そのときだった。チャイハネは、背後から声を掛けられる。


「あ、ごめんなさい」


 先ほどの少女が、補習教材を抱きかかえ、チャイハネの前に立っている。


「えっ、何?」

「その……よければ、ほかの問題も、教えてほしくて……」


 少女は、名前をシュム、と言った。

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