030_遥けき故郷(далеко от дома)
――こうして私たちは、力ずくによって閉じ込められないうちに、陰府の底に誘われないうちに、私たちの歩みを終えるべきである。
(『三体のプローテンノイア』、第18章)
「あ、プヴァエ……」
「やめときな、」
プヴァエティカを追いかけようとしたクニカだったが、チャイハネに止められる。
「そっとしとくもんだよ」
「でも……」
「いいかい? プヴァエはもう腹を決めたんだ。これ以上何かを言うのは、野暮ってもんだ」
「いいんですか、クニカ?」
チャイハネの隣にいたシュムが、クニカに尋ねる。
「心配です。クニカがチカラアリに向かうなんて」
「へっちゃらだろ? あたしらがいなくたって、ピンピンしてるさ。ハハハ」
チャイハネは笑うが、シュムは神妙そうな表情のままだった。
「分かってるよ。冗談だよ。でも、だからこそ、あたしたちはクニカと一緒じゃない方がいい」
「どうしてです?」
「シュム……キミ、戦場に出たとして、何ができる? 自分の身を、自分で守れる保証は?」
「それは――」
シュムは言いよどむ。
「悪いけれど、たぶんできない。シュムで無理なら、あたしならもっと無理さ。そりゃ、使徒騎士が助けてくれるかもしれない。けれど、もしかしたら、クニカの命と、あたしたちの命が、天秤にかけられるときが来るかもしれない。あたしは御免だよ。もっと生きたい」
チャイハネの言葉を、クニカは胸の奥で噛みしめる。チャイハネたちと離ればなれになるのは、心細かった。しかし、チャイハネの言うような事態がもし起きてしまったら、堪えられそうもなかった。
それに、自分が選ばれる側ではなく、選ぶ側になってしまったら? チャイハネかシュムか、二人のうちどちらかを生かし、どちらかを死なさなければならなくなったとしたら? そんな決断が自分にはできないことくらい、クニカにはよく分かっていた。
「あたしらがクニカに同行しないことで、クニカも助かるんだ。だから――」
「オレは……」
チャイハネが言い終わるよりも前に、リンが声を上げた。
「オレは……行く」
「もしもし、リン? 聞いてた? あたしの話?」
「それでも行くぞ、オレは」
顔を上げると、リンがクニカの手をにぎり締める。リンの鼓動の高鳴りが、クニカにも伝わってくる。リンの息は荒く、瞳はうるんでいた。
「リン……」
リンの手を、クニカもにぎり返す。チカラアリはリンの故郷である。どれほどの危険が待ち受けていようとも、リンは故郷を、もう一度見たいのだ。
「分かるだろ、チャイ? オレの気持ちくらい」
「死ぬかもしれないぞ?」
「やってみなきゃ分かんないだろ? そんなこと」
「そりゃそうだけど……ハァ……」
溜息をつくと、チャイハネはクニカとリンから、背を向ける。
「リン、キミが羨ましいときがあるよ。結局のところ、あたしゃ勇気がないのさ」
「お前のことを弱虫だなんて、オレは思わないけどな」
ばつ悪げに、リンも言葉を返す。
「ハ、ハ、ハ!」
その時、チャイハネとリンの間を通り抜けると、カイががっしりと、クニカの肩を掴んだ。
「カイ?」
「ハ、ハ、ハ! と笑う息! カイも、クニカと一緒に行くゾ、チカラアリに!」
「お前は残っとけ」
カイに対し、リンは目をいからせる。
「チャイだって言ってるだろ? 危険なんだぞ」
「フフフン」
そんなリンをよそに、カイは口角だけを上げ、笑みを作ってみせる。
「チカラアリには海がある。カイ、海を見てみたいゾ」
「そんな理由で――」
「ニンゲンを獲る漁師! 海はカイの故郷!」
カイの言葉に、リンが目を見開いた。カイが突き上げた拳を、クニカは自然と見つめる。
鯱の魔法属性であるカイにとって、海はあこがれの場所なのだ。リンがチカラアリを求めるように、カイも海を望んでいる。
どれほどの危険が待ち受けていようとも、故郷は人を待ち、人は故郷を待つ。誰もカイを止めることはできない。ちょうど、誰もリンを止めることができないのと同じように。
「分かったよ。一緒に行こう」
背伸びをすると、カイの突き上げた拳を掴み、クニカはカイと手をつなぐ。
「二人は大丈夫だよ。わたしは、リンとカイと一緒に、チカラアリに行く」
押し黙ってしまったリンとチャイハネに代わって、クニカは口を開いた。
「本当に平気ですか?」
「大丈夫! それに」
シュムに返事をしつつも、クニカは頭の中で、朝に見た夢を思い返していた。
夢の中に出ていた、“鉛色の光”を帯びた少女。もし、クニカが怯み、立ちすくんでしまおうものなら、少女は歯を見せて笑いながら、クニカが大切に思っているものを、全て奪い去ってしまうだろう。
奪い去られないようにするために、クニカには何ができるか? 考えられることは、ひとつしかない。立ち向かうことだ。
「それに、わたし、今のままじゃダメなんだと思う」
「ダメって?」
「巫皇が皆に希望を与える存在ならば――」
使徒騎士たちと話し込んでいるエリッサの姿を横目に見ながら、クニカは言った。
「わたしも、“竜の魔法使い”として、そうあるべきだと思うんだよね」
◇◇◇
「ねえ、知ってる? シャンタイアクティのネコってね、なまいきな鳴き方をするのよ」
“おおさじ亭”の軒先で、近所のネコたちにパンくずを与えながら、ジュリはひとりごちる。
「『にゃーん』じゃなくて、『にゃおーん』って鳴くんだって。ホント、ませてるんだから」
「おい、ジュリ!」
そんなジュリに対して、リンは空から舞い降りながら、大声を掛ける。
リンの“鷹”の翼のはためきで、パンくずは吹き飛ばされてしまい、ネコたちは散りじりになった。
「ちょっと! 大人しく降りなさいよ」
「うるさいな。落ち着いてられるかってんだ」
「ちょうど良かった、クニカ!」
厨房から出てきたジュネが、クニカに声を掛ける。
「今からさ、スープを作ろうと思ってんだ。クニカも手伝ってくれよ。うちのオヤジ直伝のスープの作り方、特別に教えてやっからさ」
「ええっと、それがさ――」
「今はそれどころじゃないんだ」
クニカに代わって、リンが言い放つ。
「どうしてだよ?」
「チカラアリに戻るんだよ、オレとクニカは」
「どういうこと?」
リンの言葉に、ジュリが素っ頓狂な声を上げる。
「『戻る』? どういうわけ?」
「経緯があるんだよ」
大瑠璃宮殿での一部始終を、リンはジュネとジュリに説明した。
「というわけさ。オレもクニカも、チカラアリへ行く。早ければ、明日にでもトレーラーに乗り込む」
「戦いに行く、ってこと?」
胸の前で、ジュリは手を握り締める。
「そうなるな。行くのはオレとクニカ、それからカイだ。チャイとシュムは別行動で、シャンタイアクティを目指す」
「勝てる見込みは?」
「そ分からない。でも大丈夫だ。こっちにはクニカがいるし、シャンタイアクティからは、使徒騎士がバックアップに入ってくれる」
「でも――」
「なあ、ジュリ」
黙って聞いていたジュネが、ジュリの言葉を遮った。
「リン、分かったよ。二階で荷物をまとめてきな」
「ジュネってば――」
「ジュリ、相談したいことがある」
ジュリの肩に手を添えながら、ジュネは連れだって厨房へと引き返していった。
「クニカ、もたもたすんな」
そんなジュネの様子が気になったものの、リンに急き立てられ、クニカは二階へ上がる。
部屋へ戻ってすぐ、二人は準備に取り掛かる。リュックサックを手に取ると、口を拡げ、必要なものを、思いつく限り、どんどん詰めていく。
「戻れるんだ――チカラアリに」
クニカの後ろで、同じように荷造りをしていたリンが、自分自身に呟くように言っていた。
「クニカは……初めてだよな? チカラアリは。いい街だぞ。見せたいものがたくさんある――」
想像していた以上に、荷物はさっさとまとまってしまった。ウルトラに至るまでの旅の中で、サバイバルのために必要な最低限の道具は何か、クニカもリンもよく分かっていた。
「こんなもんか?」
腰に手を当て、リンが室内を見渡している。荷物のほとんどは室内に残され、あとは足元にリュックサックが転がっているだけである。思いのほか荷物が小さくまとまっていることは、リンも予想外なのだろう。
「うん」
「よし……戻るぞ」
荷物を背負うと、クニカとリンは、大瑠璃宮殿まで引き返そうとする。
「クニカ、リン」
一階まで駆け降り、“おおさじ亭”の軒先へ出たタイミングで、クニカとリンは、声を掛けられた。ジュネの声だった。
「何だよ、ジュネ?」
「チカラアリ行のトレーラー……あと何人乗り込めるんだ?」
リンは、すぐには返事をしなかった。
「どういう意味だよ?」
「うちもジュリもチカラアリに行く。な?」
ジュネの隣では、ジュリがしきりに頷いていた。
「何言ってんだよ? この店はどうなるんだ?」
「大丈夫さ。ご近所さんに鍵は預ける。何なら、ちょっとばかし居候だってお願いするさ」
「リン、今二人で話し合って決めたことなの」
姉に寄り添いながら、ジュリが答えた。
「そういう問題じゃねえだろ」
「そういう問題なんだ」
リンの前で、ジュネは腕を組んだ。
「なあ、リン。昨日のイーゴリ爺さんのこと、覚えてるだろ? 『今日ほど料理を作り続けてて良かったと思った日はない』って、ウチはあのとき、確かにそう思った。そんで今、ジュリと話し合った。チカラアリに戻って、料理でみんなを元気にできるんなら、それに越したことはないって、二人でそう考えた」
「ばか。危険なんだぞ」
「そんなこたぁ分かってるさ。でも、リンもクニカも行くんだろ? だったらウチらも行くぜ。意地でもトラクターに乗り込んでやっからな」
“トレーラー”を“トラクター”と言い違えながら、ジュリが言った。
「どうする、クニカ?」
リンに尋ねられたとき、クニカは、昨晩の“おおさじ亭”での会話を思い出していた。クニカとリンが“カタコンベ”へ行っている間に、ジュネとジュリは、イーゴリ爺さんのことについてずっと話し続けていたのだろう。“おおさじ亭”を再開したことの意味、料理を作り続けてきたことの意味。「料理を続けてきて良かった」というジュネの感想は、二人が知っていることの全てなのだ。
「分かったよ。一緒に行こう」
「ホントか?! よっしゃあ!」
クニカの言葉を聞くやいなや、ジュネが身につけていたエプロンを外し、右手に巻き付けた。
「おい、聞いただろ、ジュリ?! ウチらも準備すっぞ」
「はいよ!」
「いいのか?」
店へ引き返していった従姉妹たちを見送りながら、リンは言った。
「うん。二人の気持ち、大事にしたいんだ。それに――」
「それに?」
「もし、わたしたちがダメ、って言っても、二人ともついてくると思う」
「ハハハ、違いねえや」
〈――おい、クニカ! リン!〉
そのとき、クニカの脳内に、チャイハネの声が響きわたった。共感覚である。
〈チャイ、ごめんね〉
チャイハネの共感覚に、クニカが応じる。
〈今すぐそっちに戻るから。あと、追加でチカラアリに行きたいって人が――〉
〈大変なことになったぞ〉
チャイハネの共感覚が流れ込んだ瞬間、クニカの脳内に、カタコンベと、ニコルたちの姿がよぎった。




