025_冷たい足音(Холодные шаги)
「もしかして、わたしたちって同い年なんです?」
エリッサが目を丸くする。
「それなら、わたしの方がお姉さんだったりするかもですね! クニカの誕生日はいつなんです?」
「ええっと」
大瑠璃宮殿の二階にある、小さな食堂で、クニカとエリッサは昼食を摂っていた。“小さな”とはいうものの、食堂は吹き抜けになっており、中庭にも面しているため、明るく、開放感に満ちていた。バルコニーの上には、魚を獲る漁師をモチーフとしたステンドグラスが凝らされており、透過した青い光が、食卓を照らしていた。
朝の一件以来、エリッサは、あっという間にクニカに打ち解けてしまい、それからはおしゃべり三昧だった。南の巫皇であるということを考えなければ、エリッサは、どこにでもいるような、おしゃべり好きな女の子だった。
「わたし、こう見えても長女なんです」
目の前にあったヤム(サラダのこと)を食べ終えると、エリッサは胸を張る。
「でも、巫皇に選ばれてからはずっと、宮殿で過ごすことになって。周りはみんな年上で、心細かったんですよう」
「大変だったんだね」
「それに、教育係の人が、すごい人だったんです!」
「すごい人?」
「そうなんです! その人、シャンタイアクティからビスマーに嫁いできた人なんですけれど、貴族の人で、緊張しっぱなしだったんです!」
「貴族かぁ」
侍女たちがやって来て、お皿を片付け始める。そんな皿の行方を、クニカは所在なく目で追う。クニカにしてみれば、エリッサも十分、育ちが良いように思えた。そんなエリッサが圧倒されてしまうのだから、エリッサの教育係は、相当な人なのだろう。
「会ったことないなあ、貴族の人には」
「すぐに会えますよ」
不意に、別の声が聞こえてくる。ウルトラ巫皇・プヴァエティカが、二人の侍女を伴い、食堂にやって来ていた。
長い金髪をなびかせながら、プヴァエティカは空いていた席に座る。何よりもクニカの目を引いたのは、プヴァエティカがライトブルーの長衣を着ていることだった。
(服を着ている!)
と、クニカは心の中で叫ぶ。禊を済ませた後、裸で宮殿を徘徊しているプヴァエティカを見慣れ過ぎているせいで、服を着ているプヴァエティカは、まるで別人のようにクニカには思えた。
(服を身に着けている! 裏を返せば、服がプヴァエティカを充填している!)
「どうしたんです、クニカ?」
「イエ、ナンデモナイデス」
「は、初めまして……!」
クニカの反対側で、エリッサが震えていた。
「あ、あの、わたし、び、びす、ビスマーの巫皇で……」
「ええ、よく存じ上げておりますよ、エリッサさん」
プヴァエティカはほほ笑む。
「アナトーリさんとはずいぶん、良い商売をさせていただいておりますから」
「え……父を御存じなのですか?」
「ええ。私の家系は、ウルトラでは代々卸を商いとする家系です。私の高祖父の代からはお世話になっているはずです」
「そうだったんですね……知らなかった……」
「エリッサ猊下、クニカ様、食後の煙草とコーヒー、どちらになさいます?」
会話の合間を縫って、ひとりの侍女が声をかけた。
「じゃあ、コーヒーで」
「煙草をお願いします」
クニカの反対側で、エリッサがタバコを注文する。
この異世界で、クニカがどうしても慣れないことが、ひとつだけあった。それは、クニカぐらいの年齢であれば、女性でも気軽にタバコを吸う、という文化だった。
クニカの仲間で、タバコを吸うのはチャイハネだけだった。このため、ウルトラ市へやって来てから、クニカはようやく、むしろ例外なのは、自分の周囲だったのだと気付いた。
(エリッサも吸うんだな……)
ありがとう、と言いながら、銀の盆に載せられた煙草を、エリッサは掴む。傍らに控えていた侍女が、すかさず火を点した。
「サリシュ=キントゥスの帝国のことです、話したかったのは」
煙草の煙を、鼻から噴き出しながら、プヴァエティカが言った。
「サリシュ……北の帝国のことですか?」
プヴァエティカの言葉に、エリッサが困ったような表情をした。
「ええ。その兵士たちが、南の大陸に攻め込んでいる」
テーブルに乗せられたコーヒー皿を取ろうとしたが、クニカは一度、手を引っ込める。プヴァエティカの言葉を聞いた瞬間、クニカの頭の中を、ニコルたちの姿がよぎったからだ。
「そんな……どうして……」
プヴァエティカの言葉に、エリッサは神妙な面持ちで言った。
「理由は分かりません。ただ、“黒い雨”がチカラアリに降ってから間もなく、この南大陸まで侵入し始めたのだとか」
煙草の灰を、プヴァエティカは灰皿へ落とす。
「サリシュの兵士たちは、白衣を身にまとっているそうです。加えて、こちらの武器よりも、性能の高い重火器を携えている」
「サリシュの兵士たちは、どこまで来ているんです?」
不安そうに、エリッサが言った。
「初め、サリシュはシャンタイアクティへの侵攻を企てていたそうです。ただ、“騎士”たちが強過ぎた」
チャイハネの“授業”のことを、クニカは思い出す。東の巫皇の藩屏として、シャンタイアクティには騎士団がある。その騎士たちが強いために、サリシュ=キントゥスの東側への侵攻は頓挫したのだ。
「そこで、サリシュはこちらへ――ウルトラの側へ攻め入ろうとした。ただ、補給の拠点がチカラアリにあるせいで、その戦線は限りなく長く延び、“黒い雨”のせいで細切れにされた」
エリッサが、ごくり、と喉を鳴らす音が、クニカにも聞こえてきた。
「一部の兵士は、このウルトラの近郊・サンクトヨアシェまで辿り着いたようです。そこでアジトを作っていたようですが、潰されました……クニカの働きで」
「ほ、本当ですか?!」
プヴァエティカの言葉に、エリッサが目を丸くする。
「よ、良かったァ……。すごいです、クニカ!」
「ええ……まぁ……」
「とはいえ、またいつ、サリシュの兵士たちが攻め込んでくるとも限らない」
短くなった煙草を、プヴァエティカは灰皿で潰す。
(どうしよう)
クニカは焦る。南の大陸と北の大陸が、正面から対立すれば、ニコルのような脱走兵は、立場が無くなる。
「あれ? でも、おかしくありません?」
エリッサが言った。
「北の大陸と南の大陸は、かれこれ百年くらい、交渉はなかったはずですよね? どうして今になって、南に攻め込んできたのでしょう?」
「それは、南の大陸の資源が欲しいからで……」
「そうなんです?」
思わず口走ったクニカは、エリッサに問いただされ、はっとなる。今クニカが話したことは、ずいぶん昔に、ニコルから聞いたことだ。南大陸の人間が、そんな北大陸側の事情を知っているはずがない。
「えっと、それは……」
「考えられる理由としては、そのくらいでしょう」
クニカをしり目に、プヴァエティカはあくびを噛み殺しながら言った。クニカが失言をしたことに、プヴァエティカは気付いていないようだった。
「ただ、攻め込むにしても、わざわざ南に攻め込むには、理由がない。向こうが劣勢なのは確実ですから」
「え、そうなんですか?」
今度は、クニカがプヴァエティカに問う番だった。
「そうですよ、クニカ」
プヴァエティカに代わり、エリッサが答える。
「北と南では、これまでの歴史の中で何回も戦争をしてきましたが、北側が勝ったことは一度もないんです。向こうの人たちは寒さには強いですが、暑さや湿気にはそうでもないみたいで……」
「それに、魔法の質が違う」
プヴァエティカが続けた。
「北の男たちは、一人一人の魔力が少ない上、魔術も未熟です。魔法使い同士で撃ち合いをやろうものなら、九割九分九厘、こちらが勝てる」
そういえば、チャイハネも“授業”で、そんな話をしていた。プヴァエティカが、妙だと思う理由も、クニカには分かる気がした。
事実、シャンタイアクティ方面において、サリシュ=キントゥスの兵士たちは、騎士団に敵わないのである。いかにサリシュ=キントゥスの戦車や機関銃が最新式のものであろうとも、百年単位の劣勢は、簡単には覆らないのだ。
(でも、何でだろう)
それでも、クニカにとっては不思議なことだらけだった。
まず、この世界の文明である。控えめに見積もっても、クニカがいた地球世界に比べ、半世紀は遅れている。車やバイク、エスカレーターなどはあるが、テレビはなく、電話は数十軒に一軒という程度しか普及していない。電話を掛けるにしても、直通ではなく、交換手を介さなければ使えないという有様だった。
それにもかかわらず、サリシュ=キントゥスの兵士たちは、自動小銃を持っていたし、戦車を駆っていた。南大陸が魔術において先進だとしたら、北大陸は科学技術において先進なように、クニカには思えた。
“アジト”で目撃した培養槽のことを、クニカは思い出す。培養槽の中で、クニカにそっくりの人間が、大量に形成されていた。思い出すたびに、クニカは所在ない気持ちに駆られるのだが、あのような技術は、むしろクニカのいた地球世界よりも発展しているかもしれない。
「何か別の事情がある。そう考えるのが自然です」
そう言うと、プヴァエティカは椅子の背もたれに背を預ける。
「黒い雨が降るほどの、おぞましい事情が――」
遠くの空で、雷の音が響いた。入口に控えていた侍女が、プヴァエティカの耳元まで近づく。
「臺下、雨が……」
「分かっています」
プヴァエティカが、椅子から立ち上がる。
「すぐに止むでしょうが、結界の準備を――」
「――失礼します!」
その時、侍女団長のソーニャが、息せき切って食堂に飛び込んできた。




