023_第二の使者(Мельхиор)
「ほら、あそこだよ、シュムちゃん」
リンが、オリガとやり取りを交わしていた、ちょうどその頃。ウルトラ市の南西部、“ディエーツキイ・サート”のあるアンナハンマン地区では、棕櫚の木陰から、シュムと近所の男性とが、河川敷を見つめていた。
「あれは……」
目を細めると、シュムは河川敷の一点を見つめる。アンナハンマン地区を横断する川の対岸に、赤いボートがあった。ボートは小ぶりだが、操舵室とエンジンを備えている。ボートの鼻先は河川敷の突堤に埋まっており、エンジンのある場所からは、黒い煙が噴き出していた。
「怪しいですね」
「そうだろ?」
シュムの言葉に、男性は二つ返事で頷いた。
もともと、ボートを発見したのはこの男性である。それから、ちょうどこの辺りを通りかかったシュムに、男性は声を掛けた。身体を鍛えることが趣味のシュムは、“おおさじ亭”からアンナハンマン地区までを、日々のジョギングコースとして定めていた。そんなわけで、この男性に限らず、ジョギングコースの範囲内にいる人々と、シュムは顔なじみだった。
「どうするよ、シュムちゃん、憲兵は呼んだけどさ」
「私に任せてください」
腰にくくり付けていたナイフを、シュムは引き抜いてみせる。元々は錆びた包丁だったものを、リンが研ぎ直し、ナイフに仕立て直したものだ。
「大丈夫かい?」
「様子を見に行くだけです。コイクォイがいるようなら、すぐに立ち去ります」
「頼もしいなァ」
安堵の表情を浮かべる男性を尻目に、ナイフを口に加え、シュムは坂を下る。
南の大陸を、突如として襲った“黒い雨”。この雨に触れたものは、“コイクォイ”と呼ばれる異形になり果て、人を襲うようになってしまう。また、コイクォイに噛まれた者も、コイクォイになってしまう。
今では珍しいが、“黒い雨”の災厄に見舞われた当初は、ウルトラの河川敷に、頻繁に筏やボートが漂着していた。周辺を四本の大河に囲われているウルトラ市は、陸路こそ容易に塞げるものの、水門だけはそうはいかない。流れ着いたボートや筏は、難民を乗せ、死体を乗せ……時にはコイクォイを乗せてきた。そういう点では、シュムやクニカたちだって、筏を使ってウルトラ市までやってきた“難民”の部類である。
作業員用の細い橋を渡ると、シュムは川の対岸に降り立った。姿勢を低くすると、シュムは抜き足でボートまで接近しつつ、付近にあった小石を拾い上げる。豹の魔法属性であるシュムにとって、音を立てないようにして駆け抜けることは、木に登ることと同じくらい簡単なことだった。
また、小石を拾ったことには、意味がある。コイクォイになった人間は、頭部が変形してしまう。このために、コイクォイには眼球がなく、視力もない。その代わり、コイクォイは聴力が発達している。小石が跳ねるようなわずかな音であっても、コイクォイは聞き逃さない。
裏を返せば、コイクォイはささいな音の変化でも、我慢ができない。もし、ボートの操舵室の中にコイクォイがいるとすれば、シュムが投げる小石の音に反応して、操舵室の中で暴れ回るに違いない。
右腕を振りかぶると、シュムは小石を投げた。小石はボートの船首を飛び越え、シュムの目線の先に落ちる。小石の跳ねる音が聞こえたが、操舵室からは、何の反応もない。
(いない、か……)
振り返ると、対岸にいる男性に向かって、シュムは手を振った。そんなシュムに、男性も手を振り返す。
ナイフを握り締めると、シュムはボートに乗り込んだ。乗り込んだ弾みで、ボートが上下に揺れる。
エンジンの脇を横切って、正面にナイフを構えたまま、シュムは操舵室まで回り込む。
操舵室の入口にさしかかった、そのとき。操舵室の床にあった毛布が動くのを、シュムは見逃さなかった。
「止まりなさい――!」
次の瞬間、シュムの喉元に、冷たいものが当たる。
(え……?)
喉に当たったもの――それが、長剣の切っ先だと気付いた時にはもう、シュムの目の前に、一人の少女が立っていた。
あっけに取られ、シュムは少女を見つめる。「止まりなさい」と言ってから、喉元に剣の切っ先が当てられるまで、シュムは瞬きをしなかった。にもかかわらず、シュムは少女の動きを見切ることができなかった。
少女は、夜空の星のような銀色の長い髪を、頭の後ろでひと房に束ねていた。リンと同じくらい背は高く、紺色の瞳で、シュムのことをじっと見つめていた。
「あ……すみません」
のけ反っているシュムを前にして、少女が詫びる。
「癖で、つい」
そう言いながら、少女は右手を振り上げる。次の瞬間、鞘の鳴る音とともに、少女が背負っている鞘の中に、長剣が収まった。
「えっと、あなたは……」
喉元をさすりながら、手にしていたナイフを、シュムはしまう。少女に敵意はないと、シュムは判断したためだった。
しかし、仮に敵意があったとしても、シュムはナイフをしまっただろう。少女とシュムの力量の差は、歴然としていた。戦ったところで勝ち目がないことくらい、シュムにも分かる。
「難民、では、ないか……」
「”ツレ”が逃げ出してしまって」
ばつ悪げに、少女は答える。
「”ツレ”ですか?」
「相棒なんですけれど、泳ぐのが得意なんです。操舵を任せていたんですが、ウルトラの汽水を見ていると、じっとしていられなくなったみたいで。水をのぞき込んでいるうちに、そのまま乗り上げてしまって」
「そういうことですか」
シュムの頭の中に、魚を捕まえて大喜びする、カイの姿が喚起される。
「それなら、大丈夫です。私の仲間にも、泳ぐのが得意な人がいます」
「ほんとうに?」
少女は目を丸くした。
「ボクの相棒は、とても速いですよ?」
「ええ。負けちゃいないと思います」
少女の相棒が何者なのか、シュムには分からない。しかし、 “鯱”の魔法属性であるカイは、水中では無敵である。
「それなら、良かった」
少女に手を貸すと、二人は並んで操舵室を抜け出し、河川敷に降り立った。
「いい友達になってくれるといいんですけれど」
「ところで、どうしてここに?」
「任務のためです。”竜の娘”を探している」
少女の横顔を、シュムは見つめる。少女の言葉は何気なかったが、何気ない言い方であったがために、シュムをぎくりとさせる迫力があった。
“竜の娘”。クニカのことしか考えられない。
しかし、何のために?
「“竜の娘”を探している。あなたは、何かを知っている」
「いいえ」
少女の言葉を、シュムは打ち消した。
「私は、そういうのは――」
「あなたは嘘をついている」
シュムの正面に回り込むと、少女は言った。釈明に走ろうとしたシュムだったが、少女のまなざしが、それを許さなかった。
「出会い方がまずかったとは思っています。でも、ボクは”東の巫皇”の命令でここに来ている。どうしても”竜の娘”を拝まなければならない」
「”東の巫皇”……?!」
南大陸の東にある、大陸最大にして最古の都・シャンタイアクティ。そこの巫皇こそが、“東の巫皇”である。
「ボクの名前はニフシェ。ニフシェ・ダカラー。シャンタイアクティの騎士」
立ちすくむシュムの前で、少女は――ニフシェは名乗った。
「家名を名乗らないのが鉄則ですが、今ばかりは、嘘をついたところで何にもならない。だから、ボクを連れて行ってほしい。”竜の娘”のところへ」
エンジンから吹き上がった黒い煙が、ウルトラ市の青空に吸い込まれていく。




