022_第一の使者(Каспер)
人々は、私がこの世に平和をもたらすためにやって来たと思うであろう。そしてかれらは、私がこの世に火と、剣と、戦争とをもたらすためにやって来たのだということを、知らないのだろう。
(『トマスによる福音書』、第16節)
軒先を出ると、リンはあくびをしながら、ポケットからタバコの箱を取り出した。今しがた“ハサミ研ぎ”の仕事をした家の小母さんが、料金の代わりにくれたものだった。
ウルトラ市の北側、レスアキオウと呼ばれる街区の一角に、リンはいる。ウルトラ市では下町の部類で、蜘蛛の巣のように、路地が入り組んでいる。
午前中いっぱい作業に当たっていたリンだったが、十分に仕事は果たせた。これから“おおさじ亭”へ戻り、リンは昼寝をするつもりだった。
(チャイハネが喜ぶぞ……)
鏨と鎚、それから砥石の入った緑のリュックサックを背負い、バケツを左手に提げ、リンは通りへ出ようとする。
「やあ、研ぎ職人さん」
そのとき、リンの背後から声がした。菩提樹の木陰、ベージュ色の塀を背にして、少女がひとり、しゃがみこんでいる。
少女は赤色の髪を、腰の辺りまで垂らしている。飾り気のない黒いブラウスに、黒いズボンを穿いていた。木陰にいるためか、少女は色白に見える。少女は革製の背嚢を、座布団代わりにして腰掛けていた。足は投げ出されており、沓がリンに威圧感を与えた。少女はタバコを吸っていた。
「こんにちは」
挨拶はしたものの、リンは、少女をいぶかしく思った。何よりも、昼間から軒下で、タバコを吸っているような人間は、リンには苦手な人種だった。
「悪いんだけどさ、」
リンのうろんげな視線など、少女は意に介していないようだった。鞘に納められた短剣を、少女はリンに突き出す。
「研いでほしいんだ、これ」
「明日に頼むよ」
「へえ、めずらしい」
少女が目をむく。
「チカラアリ人も、休むことがあるんだな! これは一大事だ、日記に書かないと」
「安息日だろ?」
少女の言い方に、リンはむっとする。
「チカラアリ人だって、午後くらい休むさ」
「カタイコト言うなって。『彼、安息の日にも羊のために働きたるなり。彼、其の溝に落ちたるを見出したるがゆえなり』って言うだろ?」
「あー……」
“聖典の引用”に、リンは顔をしかめる。
「あったかな、そんなの」
「『真理の福音』、第二十六章」
タバコの吸い殻を、少女は投げ捨てる。吸い殻は石畳に当たり、火花を散らして潰える。
「『安息の日に救いを蔑することなかれ』、さ。苦しいことばかりが仕事じゃない。煩悩に溺れる人を救うのは、使命なんだ。より積極的に解釈すれば、第二十六章は、むしろ煩悩こそが完全性に至る道だ、と読むこともできる。あたしたちは誰だって、楽園の鍵を胸の裡に秘めている」
「へえ」
リンは感心した。
「詳しいんだな。お説教を聴いたみたいだ」
「そうだろ? 今の解釈は一般的じゃないから、義務教育レベルじゃ習わない」
(何だよ、コイツ)
リンはますますむっとする。
(ずいぶんひけらかすな。シャンタイアクティ人みたいな奴だ)
「それで? やってくれる気になったかい?」
「特別だからな」
「そうかい? ありがとう! キミは御国に近づいたよ。あたしが保証する」
少女の言葉を聞かないよう、心を空にしながら、近くにあった脚立を椅子の代わりに、リンは腰掛ける。リュックサックを降ろすと、絞ったぞうきんをバケツの上に乗せ、リンは砥石を置いた。
短刀を、リンは鞘から抜き放つ。剥かれた刀身が、青白い光を放った。
リンは息を呑む。光の冷たさを前にして、両腕に鳥肌が走った。
「これは……ムリだ」
「ん?」
短刀を鞘に収めると、リンはそれを少女に返す。
「悪いけれど、オレには研げない。刀鍛冶に任せた方がいい」
「フフン。そうだろう」
少女は得意げに、リンから短刀を受け取る。
「『そうだろう』って……」
リンはあっけに取られた。
「オレを試したな?」
「そうカッカすんなって」
「ちぇっ。もうお前みたいな客はお断りだ」
「悪かったよ。ところで、キミ、出身はどこだい?」
「チカラアリだ」
「チカラアリのどの辺?」
「旧市街だよ」
「ああ、旧市街!」
少女の顔が明るくなる。
「知ってんのか?」
「任務で行ったことがある」
“任務”。その言葉がリンには引っかかったが、問いただす暇もなく、少女は喋る。
「いい場所だったな。石造りの建物が良かった。派手さはないけど、緻密だった。シャンタイアクティとは違う」
「当たり前だろ。一緒にするな」
シャンタイアクティとの比較の話になると、チカラアリ人はムキになる。
「ウチらの職人は、シャンタイアクティみたいにちゃらんぽらんしてないんだ」
「ははは。そうだ。ステンドグラスも良かったな。天女アスイだっけ? あの大聖堂――」
「新市街の方だよ、大聖堂は」
「そうだっけ? ところでだけど、リン」
バケツから水を捨て、砥石をしまい始めていたリンだったが、少女はそんなリンのポケットを指さし、尋ねる。
「ポケットに入ってるのは、何だい?」
「これか? タバコだな」
「そう? ねぇ、せっかくここで出会えたよしみだ。あたしらもう、マブダチみたいなもんだろ? だから、一本、マケトイテオクレヨ!」
「え? お、おう……」
リンが答えるやいなや、少女は手を伸ばすと、ケースの蓋を開け、タバコを一本取り出した。目にもとまらぬ早業だったため、リンは反応できなかった。
「ぷはーっ。うまいねー」
タバコをくゆらせながら、少女が言う。
「タバコだけが、人生をみじめさから救ってくれる」
「ええ……?」
リンは苦笑いをしかけたが、ふと、チャイハネも似たようなことを言っていたのを思い出す。
「そんなもんかなぁ」
「そんなもんさ。ところで、キミ、出身はどこだい?」
「チカラアリだ。……ん?」
リンは答えた。しかし、何かがおかしい気がした。
「チカラアリのどの辺?」
「チカラアリの……旧市街だ」
「ああ、旧市街!」
「そ、そうだ」
「懐かしいなァ、任務で行ったことがある」
少女は、鼻から紫煙を吹き出した。
「いい場所だったな。石造りの建物が良かった。派手さはないんだけど、緻密だった。シャンタイアクティとは違う」
「あ、当たり前だろ。一緒にするなよ」
リンはムキになった。しかし、やはり何かがおかしい気がした。
短くなったタバコを、少女は地面に投げ捨てる。
「ウチらの職人はだな、シャンタイアクティみたいには、ちゃらんぽらんしてないんだ」
「ははは。そうだ。ステンドグラスも良かったな。天女アスイだっけ? あの大聖堂――」
「それは、新市街の方だよ」
「そうだっけ? ところでだけど、リン、キミの持ってるのは何だい?」
「これは、タバコ、だな」
「そう? ねぇ、せっかくここで出会えたよしみだ。ボクらもう、マブダチみたいなもんだろ? だから、マケトイテオクレヨ!」
「お、おう」
「ありがとう!」
リンが答えるやいなや、少女は手を伸ばすと、ケースの蓋を開け、タバコをもう一本取り出した。
「いやー、タバコだけが、人生をみじめさから救ってくれるよ。ところで、キミ、出身は――」
「おい、ちょっと待て」
何がおかしいのか、リンもようやく気付く。少女の胸倉を掴むべく、リンは右腕を伸ばす。
「お前、さっきからそうやって――」
少女の胸元に、リンの手が埋まる。
「え?」
リンは声を上げた。今、リンは少女の胸倉を、確かに掴んだはずだった。ところが、少女の姿はすでにない。菩提樹の木の下で、リンはひとり、右手の拳を握り締めている。
「ははは、ちょっとトロいかな」
「あっ?!」
背後からの声に、リンはぎょっとする。リンの目と鼻の先で、少女は悠然と、二本目のタバコを吸っていた。
「お前……どうやって……」
「読んだのさ、キミの思考を」
紫煙を吐きながら、少女は言う。煙は風になびき、少女の背後に流れる。
このとき、リンは初めて、少女が背嚢とともに、長剣を背負っていることに気付いた。
「あたしの名前はオリガ」
少女は――オリガは、名乗った。
「オリガ=サ・ウィル=キムル。任務では本名を匿すのが原則だけれど、今回は特別だ」
リンは息を呑む。
「任務、って――」
「星言を拝しているんだ、あたしらは。ビビるなよ? キミを斬りに来たわけじゃない」
短くなったタバコの吸い殻を、少女は投げ捨てる。
「連れてってくれよ、あたしを。“竜の娘”のところまで」




