021_輝く闇(Сияющая тьма)
気付いたときには、クニカはぬかるみの中で、手をついていた。
「え……?」
上体を起こすと、クニカは周囲を見渡す。“うすあかり”の世界が、目の前に広がっている。
たった今まで、クニカは大瑠璃宮殿にいた。禊を済ませたエリッサと一緒に、朝食を馳走になるために、食堂に向かっていたはずだった。
「どうして……」
立ち上がりながら、クニカはひとりごちる。その瞬間、夢で出くわした少女の影像が、クニカの脳裏に、火花のように映り込んだ。
頭痛を覚え、クニカはこめかみを親指で押さえる。今のクニカには、ここが本当に夢の中なのか、確信を持てなかった。
誰かが作り出した幻影の中に、クニカが引き込まれているとしたら? その人物が、クニカに悪意を持っているとしたら?
そのときクニカは、戦わなくてはならない。少女の笑い声を聞いたような気がして、クニカの背筋を、悪寒が駆ける。
動悸を押さえつけようと、クニカは胸元に手を当てる。“うすあかり”の世界で、クニカはひとりである。
夢に現れた少女との戦いを、クニカは連想する。彼女がどのくらい強いのか、そもそも戦うことができるのかさえ、クニカには分からない。しかし、彼女の心の中を渦巻く“鉛色の光”――その“光”から目を背けてはならないと、クニカは感じ取っていた。
そのとき、クニカは背後に、人の気配を感じる。
「誰――うえっ?!」
すかさず振り向こうとしたクニカの頬に、人差し指がぶつかる。相手の指を口に入れそうになり、クニカは、飛びすさった。
「やあ、どうも?」
クニカの目の前に、女性が立っている。夢で出会った少女とは、別の人物だった。クニカよりは年上である。ウェーブのかかった緑の髪に、はっきりした二重。瞳は緑色だった。彫りが深く、美人で、すらりとしている。女性は、黒いローブを身にまとっていた。
「うーん、ダメか」
立ち尽くしているクニカをよそに、女性は言った。女性の声は、男性の声のように低い。
「もうちょっと、和やかに? やれるとベストなんだけどな」
「あなたは……誰?」
「ああ、失敬。そうだな、何だろう。“神”かな? ハハハ」
“オレ”と名乗る女性の物言いは、あっけらかんとしていた。「気の利いたことを言っただろう」とでもいうような態度だった。
しかしクニカは、今朝の夢を思い起こさないわけにはいかなかった。あのときも、少女はみずからを”神”と名乗っていた。
「うーん」
女性は頭を掻く。
「スベったな。でもさ、こういうときは、年上をおもんぱかって、『あっはっはぁ!』とか、とりあえず笑っておくべきだと思うぜ。それはそれで傷つくけど」
女性の心の辺りに、灰色のもやもやが立ち上り始める。“心の色”だ。
“心の色”に分け入ってみるべきか。クニカは逡巡する。
「もしかして……」
クニカの様子を見て、女性が眉をひそめる。
「オレの心が覗けるのか?」
そう尋ねられ、クニカの額から、汗が噴き出す。
「なら、覗いてみるといい」
女性は目を閉じる。心の灰色が、濃さを増した。
クニカは意を決し、“心の色”に視線を注ぐ。
次の瞬間――何が起きたか? 脳裏に浮かんできた突然のイメージに、クニカはのけ反る。それは、クニカとそう年の変わらないであろう女の子が、赤い長髪を振り乱し、汗だくになり、裸になってあえいでいるイメージだった。
急に飛び込んできた“エロい”イメージに打ちのめされ、クニカは女性から、更に後ずさった。
「ふっふっふ。ビックリしたろう?」
浅い息を漏らすクニカの前で、猫のようにキラリとした目で、女性はいたずらっぽくニヤついている。その様子を見たクニカの頭の中に、自分にちょっかいを出しては悪戯っぽくほほ笑む、シュムの姿がちらつく。
「オレのフィアンセなんだよ。普段はツンとしてるんだけどさ、カノジョ、オレの前だと、結構良い声で鳴くんだ。あ。こういう話で赤くなるなんて、もしかして、好きなんだろ?」
「ち、ちがいます……」
「いやー、良かった。“竜”の魔法使いが、オレと同族だなんて」
クニカはぎくりとなった。クニカが“竜”の魔法使いであることを、この女性は知っている。
「オジサン(女性は自分のことを「オジサン」と呼んだ)、スケベだからさ。年下の女の子を見ると、ついつい、ちょっかい出したくなるんだよなァ。どれ、今度はオジサンが、心を覗いてやる」
「えっ?」
「ふーん……?」
このとき、クニカは頭の中で、目の前にいる女性と、今朝の夢で現れた少女を比較していた。
おどけていたはずの女性の表情が、けわしくなる。
「どういうことだ?」
女性の言葉は、クニカに対する詰問とも、自問自答とも取れる言葉だった。
「どうしてこの女を知っている?」
クニカは首を横に振る。鼻を鳴らすと、女性はクニカに背を向けた。
「クニカよ。オレの使者が、もうじきウルトラまで、お前を迎えに来る」
「し、使者?」
「直接話ができればいいんだが、あいにくこの夢――まぁ、無意識の間借りの中では、長く話し合うことができない。疲れるしな。オレがクニカの夢にやってきたのは、ただそれを伝えたかっただけなんだ。本来ならば」
女性は言葉を切る。
「だが、状況が変わった。クニカ、その女を見たのは、夢の中でだな?」
クニカは頷いた。
「なら、ソイツの言うことは、絶対に信じるな」
再度頷きかけたクニカだったが、別の考えが脳裏をよぎる。前の夢で出会った少女を信じる気は、クニカにはない。しかし、この女性の言うことだって、信じて良いのかは分からない。
「そんなこと……言われても……」
「――『山上に在りし盤台の邑、落とされず、隠さるることなし』」
女性の言葉に、クニカは顔を上げる。昔訊いたチャイハネからの講義の時に、チャイハネも同じ句を読み上げていたことがある。
「『トマスによる福音書』だ。勉強が足りないぞ?」
まごついているクニカに対し、女性は肩をすくめてみせる。
「オレの名前は、ペルガーリア。ペルジェ、と、人からは呼ばれている」
先ほどと比べ、女性は――ペルガーリアは、早口になっていた。夢が終わりに向かいつつあることを、クニカは感じ取った。
「いずれ、嫌というほどオレの名前を聞くことになる。なぁ、そんな顔をするな。大丈夫。会えるときがくる――」
おもむろに、ペルガーリアが黒いローブを翻す。
「待って――!」
クニカが追いすがろうとした矢先、ペルガーリアの姿はかき消え、辺りが白く染まった。




