020_灰色と青(синий и серый)
ずぶ濡れになったクニカが、顔を上げたときには、エリッサはいなかった。
「そ、そんな」
“水瓶の間”にひとり取り残され、クニカは途方に暮れる。
エリッサが緊張しきっていることは、クニカにもわかった。しかし、まさか浴槽を飛び出し、そのまま逃げ出してしまうなど、想像もしていなかった。
「あっ!」
クニカの背後から、声が上がる。振り向いてみれば、ソーニャが立っている。
ソーニャは、お茶と菓子を載せたお盆を持っていた。エリッサとクニカのために、用意したのだろう。
「クニカ様、どうしてずぶ濡れなんです? というより、猊下は?」
「ええっと……逃げ出しちゃって」
「ど、どういうことです?」
ソーニャに詰め寄られ、クニカは状況を説明する。ソーニャは、はじめは真っ青だったが、しまいには真っ赤になった。
「もうっ、クニカ様!」
一部始終をクニカが語り終えるやいなや、ソーニャが叫ぶ。
「あなたという人が、お側におりながら!」
「す、すみません」
クニカは小さくなる。
「あの、今からエリッサを探しに――」
「ハイ、みんな、しゅーごー!」
クニカの発言など、どこ吹く風だった。ソーニャの声に合わせ、どこからともなく、侍従の女の子たちがやって来る。みんなクニカより年下だが、全員クニカよりもしっかりしている(と、クニカは思っている)。
「良い子のみんな! クニカ様がぼんやりしている間に、南の巫皇が、“水瓶の間”を逃げ出してしまいました!」
「いつもご面倒をおかけしています……」
えーっ、とか、そんなー、と色めき立つ侍従の女の子たちを前にして、クニカはできるかぎり、こじんまりまとまろうとした。
「そんなわけで、みなさん! 臺下(プヴァエティカのこと)にバレる前に、南の巫皇を見つけて、この“水瓶の間”に連れ戻しましょう! 南の巫皇は、すっぽんぽんで、この宮殿をうろついているはずです! それじゃ、かいさーん!」
ソーニャの号令に合わせ、侍従の女の子たちは、いっせいに宮殿内へ散らばっていく。
(すごい統率力だ)
「ほら、クニカ様も!」
感心していたクニカも、ソーニャにお尻をどつかれる。
「ぽーっと突っ立ってないで、一緒に探してください!」
「は、はい」
言われるがまま、クニカも“水瓶の間”を抜け出し、エリッサ探しに加わる。
◇◇◇
「どうしようかなァ」
とは言うものの、実はクニカは、エリッサがどこにいるか、見当がついている。
“竜”の魔法属性であるクニカは、他人の感情を、“心の色”として見ることができる。たとえ壁や床に隔てられていても、その向こう側にいる人物の感情を、クニカは見通すことができた。
先ほどから、クニカは周囲の“心の色”を、慎重に探っていた。“心の色”は、人間の心臓の辺りを、煙のように漂っている。今、クニカが確認できる“心の色”は、大方が緑か、黄色だった。これまでのクニカの経験からしてみれば、緑は“平常心”、黄色は“警戒心”を表す色である。
そんな中で、ひとつ、灰色と青の”心の色”を、クニカは見て取っていた。灰色は動揺を表す色で、青は、悲しみや、おびえを表す色だった。
宮殿の人たちは、基本は平常心で業務に当たっている。警戒心のある人たちは、もっぱらエリッサを探している侍従たちだろう。
では、灰色と青は? エリッサの可能性が高かった。
「よし、と――」
中庭に面している列柱廊まで、クニカはやって来た。列柱廊からは、細い通路が数本枝分かれしている。そんな通路の片隅に、エリッサはうずくまっているようだった。
「もしもし」
「ひっ?!」
クニカが声を掛けた瞬間、影に潜んでいたエリッサが、か細い悲鳴を上げる。通路は薄暗いため、褐色肌で黒髪のエリッサは、周囲に同化して見えた。
「く、く、クニカ様……!」
緑色のうるんだ瞳で、エリッサはクニカを見つめてくる。
(に、似てるかも――)
そんなエリッサの様子を見て、クニカは唾を飲み込む。
「クニカはビスマー人に似ている」
それが、周囲の人のクニカに対する評価だった。
だが、肝心のビスマー人に、クニカはこれまで会ったことがなかった。それが今、こうしてエリッサと対面してみれば、丸い瞳も丸い輪郭も、どことなくほんわかしているような印象も、全部自分に似ている――ように、クニカには思えた。
(わたし、こんな感じなんだ)
「ううっ、ゴメンナサイ」
クニカの服の袖にしがみつくようにして、エリッサが言う。
「急に逃げ出しちゃって――」
「大丈夫?」
「恥ずかしかったんですよう」
うずくまったまま、エリッサは答える。暗がりの中であっても、エリッサの頬が紅潮している様子が分かった。
「裸のままで、人と対面するなんて。それに、わたし、偉そうになんてできません……」
エリッサの告白を聞きながら、クニカは内心で、感動に打ち震えていた。
長い道のりだった。プヴァエティカと対面してからというもの、クニカはずっと、自分自身との対決を続けていた。
「いいかい、クニカ」
心の中のクニカは、いつもこう語りかけてくる。
「キミはね、『巫女』というものを、いかにも清楚で、線が細くて、純真で、
『男の人となんて、手を繋いだこともありません!』
という存在だと思っていたんだろう? だけど、プヴァエティカを見てごらん? 二の腕はちょっと太めだし、『服を着るのが面倒くさい』という理由から、裸で宮殿をのしのし歩いているし、脇の下のあせもはぼりぼり掻くし、痰壺には豪快に唾を吐くし、よく食べるし、よく飲む。でもね、クニカ。これが現実なんだ。受け入れなくちゃいけない。もしかしたら、キミの考えていた『巫女』こそ、世間一般のイメージとはかけ離れていたのかもしれないよ?」
心の邪悪な声に、必死に抵抗を続けていたクニカだったが、「現実」という名の、高い壁の前に打ちのめされ、いつしかクニカは、現状を受け容れるようになっていた。
だが、もうクニカは、邪悪な声に耳を貸さなくていい。今日クニカは、自分自身に勝ったのである。
なぜなら、エリッサがいるから。この人を見よ! 彼女こそ、クニカの考える“巫女”を体現したような人ではないか。
正義は勝った!
世界は救われた!
(神様、ありがとう……!)
「クニカ様、泣かないでくださいよう」
はらはらと涙をこぼしているクニカに対し、エリッサは、クニカとは別の理由で、泣きべそをかいている。
「泣きたいのはこっちですよう。わたし、どうすれば……」
「どうしよう。……あ」
クニカはひらめいた。
「わたしに、いい考えがあるんだ」
「めえーっ……」
「いい?」
エリッサの耳元に、クニカは近付く。
◇◇◇
「はあ、どうしましょう」
そうひとりごちながら、ソーニャは”水瓶の間”まで足を引きずる。
手すきの侍従たちをかき集め、総出でエリッサを探したものの、結局ソーニャは、エリッサを見つけ出すことができなかった。
まもなく、プヴァエティカの禊の時間が終わる。そしたらプヴァエティカは、
「ソーニャ、南の巫皇が逃げ出してしまった、と聞きましたが?」
と尋ねてくることだろう。
「何を言ってるんですか、臺下。ソンナコト、アルワケナイジャナイデスカー。ヤダナー。アツハツハー!」
などと取り繕ったところで、プヴァエティカにはお見通しである。ソーニャとしては、
「臺下、違うんです。悪いのは私じゃないんです。クニカ様がぼんやりしていて」
と言い逃れるしかない。さもなければ、ソーニャは罰として、食べる予定だったお昼ご飯を、全部プヴァエティカに横取りされてしまうだろう。
(どうしよう。どうやって、クニカ様に責任をかぶせようか)
悪だくみをしながら、ソーニャは“水瓶の間”に戻ってくる。
「あれ?」
ふと顔を上げたソーニャは、声を漏らした。水槽の中に、女の子が二人入っている。ひとりはクニカで、もうひとりは、先ほどから探し回っていたはずの、南の巫皇・エリッサである。クニカとエリッサは、水槽の中で、ソーニャが用意したお茶菓子を頬張っていた。
「やあ、ソーニャ」
すました顔つきで、クニカが言う。
「クニカ様? 連れ戻したんですか、猊下を?」
「何を言ってるんだい、ソーニャ」
もったいぶった口調で、クニカが答える。
「〈さっきからずっと、エリッサはここで、わたしと水槽に浸かっていたじゃないか〉」
「さ、さっきからずっと、エリッサ様はここで、クニカ様と水槽に浸かっていた」
クニカの言葉を、ソーニャはくり返す。言われてみれば確かに、エリッサはここで、クニカと共に水槽に浸かっていた――ような気が、ソーニャにはしてくる。
「ソーニャ、大丈夫?」
「ええっと、何だか……頭がぐるぐるしてきて」
「きっとソーニャは、働き過ぎなんだよ。〈お仕事は後輩ちゃんに任せて、たまにはゆっくり休ん〉だらどう?」
「お、お仕事は後輩ちゃんに任せて、たまにはゆっくり休む」
クニカの言葉を、ソーニャはくり返した。そのうちソーニャは、お仕事は後輩ちゃんに任せて、たまにはゆっくり休もう、という気分になってきた。
「たまにはゆっくり休む――」
それもいいかもしれないな、と思いながら、ソーニャは踵を返し、“水瓶の間”の外へ出る。ソーニャの頭の中では、休暇届がぐるぐる回っていた。
◇◇◇
「どう、エリッサ?」
ソーニャが去るのを待ってから、クニカはエリッサに尋ねる。
「すごいです、クニカ様!」
エリッサは目を輝かせていた。
こっそりと“水瓶の間”に戻った二人は、紅茶とお茶菓子を食べながら、ソーニャの帰りを待っていた。戻ってきたソーニャが、目を白黒させているのをねらって、クニカは暗示をかけたのである。効果はてきめんだった。
「どうなることかと思いましたよう。ありがとうございます、クニカ様!」
「えへへ。あとさ、エリッサ、『クニカ』でいいよ」
「え?! で、でも」
「わたしもさ、偉そうにするの苦手なんだ」
「そうなんですね! じゃあ、クニカ! これからよろしくお願いします!」
クニカは笑った。




