002_手と手(Руки и Руки)
「――クニカ!」
名前を呼ばれ、クニカは目を覚ます。雷鳴が、遅れて耳にこだました。
クニカは身を起こす。息ははずみ、心臓は高鳴り、全身は冷や汗で濡れている。
「ほら、」
隣にいる少女が、クニカに何かを差し出した。墨色の髪に、白い肌の少女――リンである。クニカとリンは、同じ部屋で、同じベッドを二人で分かち合っている。
暗闇の中で、クニカは目を凝らす。リンが差し出したのは、手ぬぐいのようだった。
「ありがとう」
「いや、オレがやるよ」
身をよじると、リンはクニカの額まで、手ぬぐいを近づける。
「いいってば、リン。自分でできるから」
「ばか。いいわけないだろ」
クニカの言葉に、リンの金色の瞳が、きらりと光る。その様子は、クニカに
“鷹”
を連想させる。
「隣でウンウンうなってる奴を、どうやって放っておけっていうんだよ。オレの気が済まないんだ」
仕方なく、クニカは目を閉じ、リンにおでこを近づける。口調こそ乱暴だが、リンは面倒見がいい。
クニカの額に、手ぬぐいが当てがわれる。クニカが想像していたよりも、手ぬぐいはひんやりとしていた。
「涼しいだろ?」
「うん」
「見てみろ」
リンが手ぬぐいを広げる。絞り染めの手ぬぐいは、白い部分に文様が象られている。
「『熱を吸う魔法陣』だ。チャイに教えてもらったんだ。お勉強も、役に立つときがあるんだな」
リンは得意そうだった。
「ありがとう」
「待ってろ。水持ってくる」
クニカの返事も待たずに、リンはベッドから這い出して、部屋を抜けていった。残されたクニカは、ベッドの脇に腰かけ、掛布団の縁を握り締めたまま、リンが一階まで降りる足音を、ぼんやりと耳にする。
カーテンの向こう側で、稲光が輝く。建物が雷鳴で軋んだ。雨と風は、窓を強く叩いている。
雷の残光で、窓に吹き寄せた雨粒が照らされる。雨粒は、黒い筋を描いていた。
“黒い雨”。この世界を突如として襲った災厄である。“黒い雨”は、“キリクスタン国”を覆い、雨に打たれた人たちを、次々と異形に変えていった。
クニカがこの世界で目を覚まして、最初に出会った人間が、リンだった。そのときのリンは、故郷と、妹を喪いながら、ひとりで“ウルトラ”を目指していた。
「持ってきたぞ」
リンが、クニカにコップを手渡す。クニカは、すぐに水を飲んだ。自分の喉の鳴る音が、クニカにはやけにうるさかった。コップはたちまち空になる。
「ありがとう、リン」
「平気か?」
「平気だよ」
そうか、と呟いたきり、リンは押し黙ってしまった。そんなリンの様子を見て、クニカは所在なく、コップを握る手に力を込める。
困難を乗り越え、クニカとリンは、“ウルトラ”にたどり着くことができた。旅の中で、クニカは魔法に目覚め、リンもひとりぼっちではなくなった。今では、クニカとリンはお互いに良き相棒だった。
リンが何かを言おうとしていることに、クニカは気付いている。
そのことは、今のクニカにとっては触れてほしくないことだった。
「なぁクニカ、」
リンが言った。
「お前、オレに隠してることがあるだろ?」
「それは……」
クニカは言いよどむ。リンの質問は、クニカの予想どおりだった。だからこそ、クニカには困ってしまう質問だった。
リンと出会ってからというもの、クニカはずっと、自分の由来をごまかし続けていた。「地球という世界にいたが、事故に遭い、この世界に転移した」などと話したところで、信じてもらえないからだ。
それだけではない。この世界に転移したときに、クニカは気を失って、川を流れていた。どうして川を流れていたのか、クニカ自身も心当たりがなかった。
加えて、“ウルトラ”へたどり着く直前に、クニカには忘れられない出来事が起きた。立ち入った施設の中で、自分とうり二つの人間が、巨大な試験管で培養されている現場を、クニカは目撃してしまったのだ。あれを見てからというもの、そもそも「地球という世界にいたが、事故に遭い、この世界に転移した」という考え方自体が、まやかしだったのではないかとさえ、クニカは考えてしまうようになった。
自分はどうして、この世界に転移したのか? どうしてほかの誰でもなく、“カゴハラ・クニカ”が転移したのか? どうしてほかのどの世界でもなく、この世界の、この時代に、“カゴハラ・クニカ”は転移したのか? これらのことが全て明らかになったとして、クニカはこの世界から、何を求められているのか? そんな問いが、クニカの頭の中では、ずっと渦を巻いていた。こんな質問をリンにぶつけてみたところで、リンを一方的に混乱させてしまうだけだろう。
だからクニカは、
「そんなことない、と思う」
としか、答えることができなかった。
「オレはさ、お前が心配なんだよ」
「それは、ありがとう」
「ばか、そうじゃないだろ。オレが言いたいのは……ハァ」
ため息をつくと、リンはベッドに仰向けになる。ベッドのスプリングが軋み、クニカの身体は揺さぶられる。
ばつが悪くなり、クニカもそっと、ベッドに身を横たえた。掛布団を肩まで引き寄せると、クニカはリンに背を向ける。
「オレはさ、お前の力になりたいんだよ」
クニカの耳に、リンの呟きが聞こえる。クニカの心に、後ろめたさがつのる。
身をよじると、クニカはリンを盗み見る。リンは天井を見つめていた。
クニカは考える。今の自分が、リンに一番してほしいことは何だろう? その答えは、クニカの中では、ひとつだけだった。
「リン」
「何だ」
「手、つないでもいいかな?」
「手?」
「いいよ」とも「ヤだよ」とも、リンは言わなかった。その代わり、掛布団の隙間から、リンの手が突き出される。
リンの手を、クニカは握り締める。クニカは仰向けになると、深く息を吐いた。天井を眺めながら、リンの手から伝わるぬくもりを、クニカは感じ取っていた。
「懐かしいな」
リンが口を開いた。リンは笑っているようだった。
「え?」
「オレが怪物から引きずり出されたとき、お前と一緒に、空を飛んだろ? あのときも、手をつないでた」
「そうだっけ?」
「そうだよ。忘れたのか?」
「ごめん」
「お前はさ……オレのことを救ってくれたんだ」
リンの手に力がこもる。
「だからオレも、せめてお前の気持ちだけでも、救ってあげたいと思ってるんだ。……あ。忘れるなよ? 恥ずかしいんだからな、こういうこと言うの」
クニカは泣き出しそうになって、もう一度天井を見た。リンの手の暖かさと、そこから伝わってくる心臓の鼓動が、自分にとってのすべてであるように、クニカには思えた。
「リン、ありがとう」
「忘れないでくれよな――」
そう言うリンの声は、か細くて、ほとんど聞き取れないくらいだった。程なくして、クニカの耳には、リンの寝息が聞こえてくる。リンと手をつないだまま、クニカは涙が流れるに任せた。それからいつしか、自分自身でも気付かないうちに、クニカも眠りに落ちていた。